ユビキタス機器の「自作」

スマホが今までの携帯電話に代わって売れている、ということがよく言われる。しかし、どうだろうか。スマホを使い始めている国民にとって、これが携帯電話で「ない」と言われてもピンとこないんじゃないか。
それは、スマホがケータイの機能を基本的には完全に継承「できる」からだろう。ケータイにできて、スマホにできないものがないのであれば、それを
ケータイ
と呼ぶことは自然である。こういった性質のものを、下位互換と言うが、C言語でできたことが、C++でもできる、みたいなものだ。
スマホと、ケータイの違いは、本質的には、使っているOSが違うだけだろう。つまり、スマホはそれ以前まであった、
PDA
のことなのだが、ようするに、「電話」(SIP)の部分を、フリーの世界がなかなか手が出せなかったので、グーグルという企業が、リナックスをちょっといじって作った(企業のライセンス付きで)ということだろう。
WLANというのがあるが、あれはたしか、なん十メートルくらいしか、届かないので、これをどこでも使えるようにしようとすると、そうとうの密度でAPを置かないといけない(それに近い地域は、世界にはあるようだが。それでも、WIMAXが普及してきていることで、また、もう一段階くらいはステップアップしているのだろう)。それに比べれば、大手のケータイの電波は、山奥に行かなければ、それなりの都市だったら「どこでも」つながる。しかし、これはケータイ会社が相当苦労して実現しているはずだ。それなりに遠くまで電波が届くとしても、あれだけ「どこでも」つながるということは、かなり細かく設備を配置しているはずだから。
大事なことは、スマホはケータイだということである。スマホとは iPhone のことだと思っている人は、あのキーボードがついていないものに「慣れる」ことが、スマホユーザーになることと思っているかもしれないが、私に言わせれば、そういった「作法」こそ、下位互換のない、人によっては余計な「親切」だと言いたくなる。
あれは、スティーブ・ジョブズの頭の中にあったイメージでしかなく、いや、別の考えにたつなら、たんにキーボードがなければ、「安く」作れた、ということでしかないのかもしれない。つまり、実際にそれが使いやすいかとは別だ、ということだ(もちろん、そういった「機能」が場面によっては、圧倒的に使い安いことは間違いないが、「なんでもそれでやんきゃか動かない」が正しいかどうかは別ということだ)。
私は今でも、この文章をシャープのPDAの zaurus で入力しているが(もちろん、emacs というエディターを無料でどっかの誰かがパッケージ化したものをネットで拾って、市販の状態から勝手にインストールして、それで書いているという意味だが)、キーボードのないスマホは長文を入力するのに、どこまで使いやすいのかは疑問だ。むしろ、だからツイッターが流行しているのだろう。もちろん、長文の入力も造作ないと言う人はいるかもしれないし、実際そうなのかもしれないし、知らないが、でも、私はそういうことを言っているのではない。今まである作法に慣れていた人に別の作法を強要することは、ストレスフルだと言っているのである。
アンドロイドは、例えば、OSそのものに、デザリング(ルーター化)の機能が「デフォルト」であるのに、一部の携帯電話会社の機種では、あえてそれを「殺して」売っている。通信料金の定額が普及してきているので、あれこれと人々の使い方の「邪魔」をして、なんとか通信量を減らそうとしているのだろう。
それだけじゃない。そもそもアンドロイドはリナックスなのだから、ログインユーザーをルートにすれば「なんでもできる」(もちろん、上記の emacs だろうとなんだろうと、インストールできる。だって、普通のリナックスなのだから)。それをやらせないのは、ようするに、マシンのセキュリティを製造・販売側が管理しよう、という考えなのだろう。そういった部分を製造・販売側が「ある程度」責任をとることで、子供から、お年寄りまでだれでも使える家電製品となる、ということなのだろう。
また、マシンのセキュリティを製造・販売側が管理することは、なんらかのソフトウェアをその上でパッケージ(Apps)にして、無料なり有料なりで提供したいと思っている人たちにとっても利点になる部分は間違いなくあるはずだ。なぜなら、その分だけ、「セキュリティが保障される」なら、自分たちへのクレーマーも減ることが予想されるから。
私はなぜ、もっともっと、多くの人が Apps を作って公開しようとしないのだろうと思うのだが、その理由の一つが、まず「基本的に無料」にしなければ、だれも使われることがないどころか、見てすらくれないから、なのだろう(また、どうせ新しい発想のものを作っても、そのアイデアは一瞬でパクられますしね)。ただ、無料か有料かはそれほど大きな問題ではないはずだと思っている。たとえ無料にしたとしても、「寄付」をお願いすれば、少しはもらえるかもしれないし、また、後から、一部機能を拡張したものを、有料にしてもいい。とにかく、アイデアを公開することを「楽しい」と思うかなんでしょうけどね。
(そういえば、「電子書籍」というのがありますけど、あれって、「全部」Apps にできますよね。ここで売ればいいんじゃないですかね。だって、本って「ソフトウェア」でしょ?)
スマホがPDAだということは、スマホは、今まで家で使っていたパソコンそのものになっている、ということを意味する。つまり、それくらいに「なんでもできる」はずなのだ。しかし、上記にあるような、

  • 電話回線へのアクセス部分の非公開化
  • マシンの企業側でもセキュリティ責任化

つまり、家電化の流れのなかで、パソコンからなにから、あらゆるコンピュータのデザインが変わってきている、ことは近年の傾向と言えるだろう。
しかし、どうだろう。上記を見ても、その理由は「企業側の都合」でしかないだろう。自分たちがクレーマーにつきまとわれたくないから、さまざまな「自分達の都合」から帰結される「制限」を、販売するものに、かけていく。
ここで思うのである。
いい加減、こういったユビキタス機器も「自作」の時代なんじゃないかな。間違いなく、そういった「需要」は別で、あるんじゃないのか。ノートパソコンがなぜ自作できないのかと同じように、こういったユビキタス機器系も自作の時代だと思うわけだ。そうなんだけど、なぜかそうなりませんね。やっぱ、それじゃあ
企業が儲からない
からなのだろうか...。どうしても、こういった分野は「ニッチ」がでて来にくい傾向があるように思える。どのメーカーが売りだすものも、どこか、似たような体裁(つまり、流行)に流れてしまい、個別の狭いニーズに目を向けられてないんじゃないだろうか。
しかし、そもそも

  • ソフトウェア=コンピュータ=数学=自由

だったんじゃないのか。だったら、

  • あらゆる「需要(夢)」を実現する

のがソフトウェア産業の「使命」じゃないのか。

  • なんでもできる

だから、ソフトウェアだったのだから、そのソフトウェアを実体化させる、ハードウェアが経済「力学」の都合で、抵抗勢力化させされているのを、いつまでも、そのままであるべき、というのは筋が違うように思えるのだが...。そもそも、そういった工学系のマインドは、映画「告白」じゃないけど、オウム真理教と同じく、糾弾すべき対象のようなので、どうもここ日本では、なかなか難しそうだ...。
あくまで「文房具」の延長として、使いたい多くの「文系」マインドの人たちには、どうしてその文房具を「自分で」作らなくちゃいけないのかが理解できないのかもしれない...。