椎名林檎「林檎の唄」

罪という言葉は日本人には馴染みがない。
もちろん、古事記にも日本書紀にも、こんな言葉はないのだろう。普通に考えるなら、罪は聖書の創世記のアダムとイブの話を思い出すであろう。
おそらく、ニュートン万有引力の話も、こういった聖書を意識していたのではないだろうか。
椎名林檎はなぜ、「罪」という言葉を使うのか。そんなことは私が知るわけがない。興味もない。
例えば、「歌舞伎町の女王」というのがあった。ここで問題にしていたことは、なんだったのだろう。それは、
同情
されて生きることへの拒否、だったはずだ(こういった姿勢にどこか、ストア的な印象を受けたわけだ)。
ただ、私はどうして、彼女は「フェミニズム」を語らないのかな、と思ったときに、そもそもフェミニズムの側は、
まったく反対
の思想の下に存在しているのではないか、となんとなく思い至ったということである。
今月の文芸誌「文学界」には、上野千鶴子の最終講義というのが載っている。彼女が定年で東大を辞める、ということらしい。
(そこには、彼女が日本にはめずらしく、キリスト教徒の家に生まれたことが書いてある。)
もちろん、フェミニズムの歴史の話が中心になっているのだが、やはり「弱者」論なんですね。フェミニズムとは、数学で言うと「自己言及」性に関係した問題だったように思う。女性が自分自身を「女性」と定義したとき、さまざまな問題系は必然的に立ち上がってきた。その中で最も大きな問題系として存在したのが、女性の「弱者」性の部分だった、と。

市民の語源である civil はラテン語の civitas から来ており、市民とはもともと「キヴィタスに住む者」の意である。civitas とは、周囲を城壁で囲まれた都市をさす。危急存亡のときには市の城門は閉じられ、敵や城外に住む農民は排除される。古典古代においては市民とはキヴィタスを政治的な単位とするポリスに属する公民、公的世界としてのポリスの正式な構成員とされた武装能力のある家長男性をさしていた。人権宣言のいう「市民」とは、この財産と家族を持つ家長男性を指す。この事情は、フィリップ・アリエスの言う、「近代が解放したのは、個人ではなく家族(すなわち家長男性)だった」という歴史的なプロセスと対応している。これを家長個人主義と呼ぶ。家長以外の家族のメンバーは個人以前の存在であり、したがって個人に認められた市民的諸権利の主体とはならない。

生き延びるための思想―ジェンダー平等の罠

生き延びるための思想―ジェンダー平等の罠

このように考えるなら、女性が「市民」でないだけでなく、家長と呼ばれうる、それなりの「家」の、「長男」の父親だけが市民ということになるだろう。
大事なことは、こういった状態にあった、国家と「市民」の関係が、国民全員が「市民」と呼ばれるようになっていく過程で、どのような
人々の振る舞い
が中間的に現れるであろう、ということである。勿論、このような急激な変化の中で、その「利益」を享受するだろう。しかし、中には、このあまりの急な変化に、うまく適応できずに、もたもたしている人もいるだろう。しかし、その逆もいるわけである。つまり、あまりもの
過剰適応
をしてしまう人たちが。

こういう問いの立て方は、カーバーの歴史研究に通じる。国民国家への包摂と排除の中には、歴史的にみてバランスシートの不均衡があり、かつ包摂と排除の間にはグレーゾーンがあって、そこには序列がある。石田は中心 - 周辺の図式を持ち出すことで、周辺がさらなる周辺を生みだし、丸山真男のいう「抑圧移譲の原理」が働くという。周辺エリートがむしろ半周辺を飛び越して、中心の論理に過剰な同一化をすることで、周辺が中心のグロテスクなカリカチュアになる、という背理が起きるのは、グージュのパロディとしての女権にも通じる。
小熊は、沖縄ナショナリズムのイデオローグ、伊波普猷を例に挙げる。彼は日琉同祖論を唱え、沖縄の国民化すなわち日本への同化を推進した思想家だった。彼の立場を地政学的な文脈に置いて考えると、伊波普猷は、那覇出身の知識人であり、当時の沖縄本島における支配層である首里の旧エリートだったことが浮かび上がってくる。日本という上位権力を持ってくることで、首里の旧エリートを相対化する一方、日琉同祖論で日本と琉球の文化的価値の対等性の対等性を主張しながら、国民統合を正当化するという、いくえにも錯綜した植民地エリートの言説戦略がここには見えてくる。支配的な言説に同一化すると見せながら、それを逆手にとって換骨奪胎する点で、伊波の沖縄ナショナリズムは、日本のナショナリズムのパロディであり、グージュの場合と同じく、日本の同化政策への批判を含む一方で、日本への過剰な同一化を果たすカリカチュアともなった。
生き延びるための思想―ジェンダー平等の罠

この典型的な例が、女性の軍隊内「男並み平等」の動きであった、と。上記にあるように、そもそも国家とは、市民の徴兵の義務と関係して成立してきたところがある。市民とは、国軍兵であって、だからこそ、特権的な権利を有する、と。ところが、日本では、明治の最初から、徴兵義務から、長男は除かれるわけですよね(だから、どうも動機が変なわけだが)。しかし、このヤヌスの双鏡として、
DV(家庭内暴力
の問題が昔からある。近年でこそ、DVは犯罪として、とりしまるようになってきたが、それまでは、家庭に国が口を挟まないことが一般的であった。つまり、国家における軍隊暴力と、家庭におけるDVには、ある一貫した、国家システムの「からくり」があったと言えるだろう。
国家が国家の外において行使する暴力は、それが
軍人
によるものであるなら、その犯罪性が問われないように、家庭の中において、行使される
家長
による暴力も免責される。つまり、この世界経済システムによって絶えず作られ続ける、諸個人の経済的な差異の生産は、この二つの
暴力システム
によって、「外部」化されており、いわば、その「エントロピー」は、こういった外部を使って、吸収され、排出されていた、ということになるだろう(あらゆる経済システムは、なんらかの経済「外」システムを使って、エントロピーを捨てることなしに、存続できない)。
上野さんの立場は明確で、そもそも、暴力に反対なのだから、軍隊自体に反対ということで、女性は軍隊への入隊を拒否すべき、という方向となる。いや、それだけではない。そもそも、革命戦士も反対。あらゆる暴力に反対。暴力による問題という
幻想
に反対だ、と。
暴力によって、なにかが変わると考えることが、そもそも受け入れられるのか、と問うなら、こういった方向になる、と。
(大事なことは、上記で彼女が言っているのは、徴兵制という「義務」の問題じゃない、ということだろう。もしそうであれば、それは義務が存在するのかどうか、になる。すると、市民なら義務が「ある」という方向に議論が流れてしまいやすいだろう。しかし、そうじゃない。彼女が言っているのは、人殺しを自分が手を下すかどうか、を問うているわけで、それを自分は受け入れられないから、それを強制されることに反対する、という流れになる。)
こういった問いは、弱者論に関係している。お年寄り、子供、身体障害者。彼らが、自分で自分の身を守れない、というとき、上記の「やられたらやり返せ」の論理には、やり返せ「ない」人を、
人と考えない
部分がどこかある、ということにならないだろうか(これはどこか、経済原理主義にもある。経済的成功は、そもそも、そのスタートラインに立てない人がいるんじゃないのか、という問題を意識的か無意識的か無視することによって、成立しているにすぎない)。
例えば、どんな女性も、女性という圧倒的な
魅力
を、たとえ一瞬、放とうとも、いずれ衰えていく。それは、あらゆる権力についても言えるだろう。だれもが、生殖能力を失い、体力が落ち、死へ向かって衰えていき、そして、
介護(ケア)
の「主体」となって、人生の最後を迎える(どんなに栄えた栄華も最後は衰え消えていく)。

今から思えば、わたしは有吉佐和子さんって偉かったって思います。あの方が『恍惚の人』[有吉 1972]を書いた時に、文芸評論家の平野謙と対談しています。あの作品は老人の恍惚振り(今なら認知症と言うそうですが)を実に克明に描いた作品で、平野謙さんが、オレは嫌だ、こんな状態になるくらいなら死にたいと、とっても「男らしい」ことをおっしゃった。それに対して、有吉さんは当時三〇代の終わりかなあ、きっぱり彼に言ったんですよね。
「耄碌して、はたに迷惑かけても、私は生きてやろうと思います」と。おお、立派なひとじゃ(笑)、って思っちゃいました。ですから、惚けて垂れ流しになってるわたしやあなたに、そのまんま生きていていいんじゃよと言ってあげるのが、思想の役目でなくして何なんだ、ということですよ。
生き延びるための思想―ジェンダー平等の罠

(介護(ケア)、こそ、21世紀の最大の「思想」になるのかもしれない...。)
こういったことは今度は、先ほど述べた
市民「じゃない」
人たち、への感受性とも繋がるわけですね。

外国をうろうろしていてもう一つ思うのは、実にいろんなところで、新来移民として、メイドやベビーシッターや、サービス業のウェイター、ウェイトレスとして働いていきている人たちがいる。アメリカに行っても、ドイツに行っても、フランスに行ってもいますよね。彼らは拙いながらヨソの国の言葉を使って、それでも生き抜いている。サバイバルのために必死で身につけた言語で、ちゃんと生き抜いている人たちに、いくらでも出会うわけ。すると、「おお、こうやって生きていけるじゃん」と思うんですよ。わたしだって、と(笑)。
生き延びるための思想―ジェンダー平等の罠

でも一方で、国境なんて誰が引いたのさ、という思いもある。国境の警備の緩いところなんて、山ほどあります。そういうとこでは、簡単に山越えしたり、川越えができるんです。メキシコの「ウェット・バック」だって、そうですよね。
わたしがメキシコに住んでいた頃、そういう「ウェット・バック」の人たちはどうしてそんなに危険を冒して国境を超えるの、って現地と人に聞いたことがあったんです。そうしたら「パスポートが取れないから」って。メキシコでパスポートはお金で買えることはもう知っていましたから、それじゃあ、お金がないの? って重ねて聞くと、「そうじゃない、出生登録がないから」という答。つまり、そもそも彼らは国民としてレジスターされていないから、パスポートも取りようがないのだそうです。
生き延びるための思想―ジェンダー平等の罠

世界中には多くの難民がいる。それだけじゃない。自分たちだって、いつ難民にならないと言えるだろうか。難民になった。
じゃあ、死ぬのか。
難民になってまで生きたくないか。生き恥をさらしたくないか。そんなに、かっこ悪いことは

なのか。

働く私に名付けて下さい

労働。つまり、自分を売る、ことの意味こそが、「歌舞伎町の女王」で問われていたことであった。そうであるなら、そういった自分の「名前を付ける」のは、だれなのだろう?
「罪の果実」というものを、ある種の、「知的」かつ「魅力的」な(歌という)商品(としての、リンゴという「人間ではない」)自分のことだと考えたとき、そうやって人間に語りかけるリンゴと人間の関係はどうなっているのか。

木通が開いたのは秋色の合図でしょう
季節が黙って去るのは淋しいですか
泪を拭いて顔を上げて下さい
ほらもうじき私も実を造ります

涙を流しているのは人間である。じゃあ、なんで泣いているのか。季節の中で生きる人間だから、なのだろう。じゃあ、そういった季節の涙を生きない、人間ではないリンゴがなぜ、人間に語りかけているのか。

私が憧れているのは人間なのです
啼いたり笑ったり出来ることが素敵

じゃあ、泣いたり笑ったり「出来ない」人は人じゃないというのか。そういった奴は人に向かって歌うしかないというのか。リンゴのように...。

教育

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