福島の子供たちについて

今の日本で最も大きな問題は、間違いなく、福島の子供たちではないだろうか。
しかし、それは「どういう意味で」問題なのか。
非常に残念なのは、そもそもこういったときに、子供の教育政策は、どういったものであるべきなのか、という方向で語る論者が見当らない、ことではないだろうか。つまり、こういった事態に、どう振る舞うかのコンセンサスがないのだ。
そういった問題提起を、地元からの声として紹介しているのが、今週の videonews.com での、福島の地元の記者である、藍原さんのレポートである。

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(このサイトでの、藍原さんのレポートは無料公開しているみたいですので、福島に関心のある方は過去のバックナンバーから見られたら、と思いますね。やはり、大事なことは「地元発信の情報」ではないでしょうか。もっと、地元からの「発信」が全国に届いてほしいと思うんですけどね。もっともっと、いろいろなメディアから。ということで、こちらも大変に貴重に感じているんですけどね。)
番組でもやっていたが、福島では、今、多くの子供たちが福島県を離れて、他県に行っている。もちろん、それについて人それぞれ意見はあるのだろう。しかし、実際に多くの子供が福島を離れていることは厳然たる事実なのであって、そこから目をそらすことはできないはずだ。
しかし、大事なことは、たしかに多くの子供が福島を離れたとしても、実際に、まだ福島に子供がいることも事実なわけである。ある、南相馬市の小学校の取材での教室の風景などが、流れていたが、たくさんあった6年生のクラスが、一つだけになってしまった、と。
すると、どうなるだろう。
子供の気持ち
になって考えてほしい。
たくさんの自分の友達が、いなくなった。また、いつ会えるとも分からない。
これほど
ショック
なことはないんじゃないのか。
世の中の有識者と呼ばれている方たちに聞きたいのだ。こういう場合に、
教育政策
というのは、どのようにあるべきなのか。聞きたいのは、原発がどうだとか、エネルギーがどうだとか、市民活動家がどうだとか、そんなことじゃねーんだよ。
子供
の教育はどうあるべきなのか、なんであって、どうしてそれが分かってもらえないのか。はっきり言って、311以降、こうやって、福島から、多くの子供たちが自主避難をすることは
予想
できたわけだろう。しかし、そんなことになったら、福島に残る子供たちも、福島を離れる子供たちも両方
つらい
んじゃないのか。なんとか一緒にいられるように、大人たちが工夫してやれなかったのか。今からでも遅くないんじゃないか。なんとか
元の状態
に戻してやれないのか。みんなを
同じクラス
に。
(たとえば、ケータイや家のインターネットで、各クラスの子供が繋がってもらえれば、と思うかもしれない。しかしまず、それ以前に、学校という公的制度の上で、集い一つになっていた、子供たちなのだろう。そうであるなら、その中心として、学校がそういった子供たちの架け橋となれるような、教育体制であってほしい、と思うわけだが、転校していった子供たちと、そういった関係を密に築いていくような形は、今までの教育制度には、あまり感じられなかったように思う。
学校教育は、非常に機械的に、クラスで子供を分ける。すると、各クラスに分かれてしまった子供同士には、あまり交流がなくなる。これと同様に、転校していった子供は、クラスが分かれた子供と同じような位相で、あまり付き合わなくなる。そう考えるなら、なるべくなら、同じクラスの子供は、せめて一年間は一緒に勉強させられないか。それが子供を思う大人たちの人情じゃないかと思うんですけど。)