構造主義的ジャーナリズム論

ネットではないマスコミで、原発問題が、安全厨と危険厨に完全に国民を二分した、あの311以降のネットの状況について分析したものを、寡聞にして私は知らない。
つまり、ああいった完全に「党派」が分かれてしまうというのは、これだけソーシャルネットが言われているのに、なぜ、その意見の「統合」。つまり、「対話」による、

  • 分かり合い

が起きなかったのかは、興味のあるところだ。多くの人たちは、自らをそのどちらかの党派に属させていることを忘れて、相手が反対の党派に属していることを、ののしり罵倒する。そして、自らを悲劇のヒーロー(ヒロイン)に重ねて、ソーシャルネットへの幻滅のパフォーマンスをさんざんやった後に、同じ党派の「戦友」たちに向かって

  • みんなで「良い」ソーシャルネットを作っていこう!

と呼びかけて、その人の溜飲が下がる。こんな場面を何度眺めたことか。
そう考えてみれば、なぜ、世の中には、いつまでも対立し続ける問題というのが、なくなることがないのかというのは、不思議なことだ。そのために、「対話」という
人間にしかできない
能力があったんじゃなかったかな。だから、人間は動物じゃない、と。他の動物に比べて優秀だ、と。
そう考えてくると私なんかは、

  • 対話など幻想だ

と言いたくなる欲望にかられるのだが、まあ、それはともかく、その文脈に沿って考えてみようではないか。
そもそも、私たちはマスコミが流す情報を完全に自分に遮断して生きられるだろうか。ちょっと変なことを言ってみよう。たとえば、地デジというのがあった。明日から、テレビが使えなくなりますよ。しかし、これを広報したのは、同じテレビだった。じゃあ、テレビを見ない人は、明日からテレビが使えなくなるということを知ら「され」ない、ということになるだろう。つまり、私たちは、非常に間接的な民主主義的意志伝達をしている、ということにならないか。
国が法律を変える。すると、国民は大きな影響を受ける。もし、こういった事態が起きることが「問題」だと考えるなら、国は国民にその事実を「伝え」なければらないだろう。

  • 国の規則の変更:国 --> 国民

しかし、私たちは、こういった国との「ホットライン」をもっていない。つまり、多くの場合は以下の過程によって、この事実を受益する。

  • 国の規則の変更:国 --> ジャーナリスト --> 国民

(もちろん、国自身が自分で広報をしていない、ということではない。例えば、国のサイトに行けば、そこに、さまざまな発表が載っていることを知っている。しかし、その情報を自分が読むかは、自分が RSS に登録するなり、「自分からその情報をくれ」というアクションを起こすことによって得られる、というにすぎなく、「国がこの情報を国民は知れ」という形になっていない。ところが、国民はその情報を知らないで犯した犯罪の「罪」を問われる...。)
つまり、ジャーナリストは、国民が「求める」情報を提供してくれる、という行為によって、生計を立てている人たち、と言えるだろう。

  • 情報を売る:ジャーナリスト --> 国民

しかし、このフレームは、よく考えると「おかしい」。だって、ジャーナリストが何を自分に提供するかは、

  • ジャーナリストの「利益」

に依存するから、である。
(まず断っておくと、私がことで「ジャーナリスト」と言っているのは、一般には、
マスコミ
と呼ばれている人たちのことを意味して「きた」。そして、そのマスコミがなぜ、マスコミと呼ばれていたのかと考えれば、それは、さまざまな許認可権と関係していた。テレビ局をもつためには、その電波を使用する権利を持っていなければならない。電波の周波数は限られていて、国民の各自が勝手にその周波数を使うことは、さまざまな干渉が起きて通信の品質の劣化になるため、禁止されている。つまり、国民は許可なく電波を使えない。
ところが、もし、その限られた電波を独占しているマスコミが、ある偏った報道をしたとき、もしテレビしか私たちの情報を得るツールがなかったら、国民の知る権利が侵害されないだろうか。
そこから、ジャーナリズムでは「価値中立」ということが言われる。ある問題に対して、国民の間で意見が割れるとき、片方側だけの意見を報道すると、国民に偏った価値だけを刷り込んでしまう。そこで、両方の側をバランスよく報道しなければならない、となる。この極端な例が、選挙の時だろう。テレビは意地でも、各候補の名前を最低一回は、一つのニュースに盛り込もうとする。
しかし、ネットのマスコミ以外のツールが発展してきたことで、自称ジャーナリストたちが、ネットでジャーナリズム・ライクなことを始めるようになった。では、そこにおける「価値中立」とはどうなるだろう。「価値中立」とは、限られたメディアの許認可に関係した概念であったのだから、当然、こんなルールに従う理由は感じないだろう。それを「偏向報道」と言ってもいいが、ようするに、その人にとって「当たり前」と思うことを自由に報道を始める。その人のイデオロギーだけが、唯一の基準となっていく。
そもそも、その人の語ることが、なんであるという定義はあるのだろうか。その人は、たんに自分が言いたいことを言っているのであって、それがかなりの割合で、事実と
反する
ことだとしても、だからなんだというのだろう。もちろん、あまりに「ひどい」場合は、多くの方から、注意があり、修正するかもしれない。しかし、そういったはっきりした問題でなければ、けっこうグレーなところで、かなり、偏向した方向から書かれるだろうことは、それなりに予想のつくことだろう。
しかし、ここで、はたと立ち止まるわけだ。それは、「意識的」なのか「無意識的」なのか。大事なことは、これを字づらから区別することはできない、ということであろう。
もともと、ジャーナリズム学というのがあったのではないだろうか。しかし、ネットの登場は、その根本的な再考を促す事態に至っているのではないだろうか。
例えば、「誰」がジャーナリストなのか。または、「どれ」がジャーナリストの記事なのだろうか。一般の人たちが書いているものは、少なくとも、本人はこれが「ジャーナリストの記事」だとは思っていないだろう。ブログで記事を書いてたら、急にジャーナリストなんて呼ばれたら、迷惑この上ないだろう。
ところが、こういったブログには職業ジャーナリストと自称している、例えば、一時期でも、新聞記者としてどこかの新聞社に務めていたことのある人は、自分がSNSなどパブリックなところで、実名で発表しているものを、どうして「ジャーナリストの記事」でないと言う必要があるだろうか。彼らが、パブリックに発表する「作法」は首尾一貫して、ジャーナリズムの実践だと思っているだろうし、そうやって
教わってきた
ことを日々実践している、つまり、ネットでジャーナリズムを実践している、ということであろう。
じゃあ、こういった自称ジャーナリストたちが、「引用」するブログの記事は「ジャーナリストの記事」にならないのだろうか。もちろん、先にした定義からは、そうはならないことになるが、その自称ジャーナリストにとって、そういった「記事」を二つに区別することに、なにか意味があるだろうか。
たとえば、ある職業ジャーナリストがいるとする。彼が「売る」ものはなんだろう。

  • 情報:ジャーナリスト --> 国民
  • 金銭:国民 --> ジャーナリスト

ちょっと待て。その「情報」ってなんだ? つまり、これこそ、そのジャーナリストが「取材」によって集めた、この人にとっての「商品」だろう。じゃあ、この「商品」はどのように手に入れるのだ?

  • 取材機会の提供:国民 --> ジャーナリスト
  • 金銭:ジャーナリスト --> 国民

(この関係を、商品の流れで記述するなら、

  • 情報:情報提供元 --> ジャーナリスト --> 国民

となる。)
そのジャーナリストは、どこかの業界の情報が欲しいと思ったとする。その人がまずやることは、その業界の人にアポをとって、内情を教えてもらうことだろう。しかし、その人はどうして、そのジャーナリストからの取材をOKするのだろう。もちろん、
なんらかの「利益」
があると思うからではないだろうか。一つのケースが、そのジャーナリストがお金をくれる、というのがあるだろう。しかし、こういったジャーナリストが払える額などたがしれている。じゃあ、なんだろう。まず、そのジャーナリストと情報提供者が「友達」だという場合がありうる。友達なら、気軽に相談に乗ることは、不思議じゃない。次に、その情報提供者が、世間への説明責任を考えて、自分たちの立場を公にするために、いい機会だと考える場合があるだろう。
しかし、である。こんな場合ばっかりだろうか。私は上記で、ジャーナリズムがジャーナリズムでなくなってきている、ということを書いた。ジャーナリズムはネットとともに形骸化が進み、その姿は見る影もなくなってきている。
たとえば、上記の取材機会の提供者が、原発関係に深くコミットしているとしよう。その人にとって、最も、深刻な課題はなんだろう。国民が原発を「安全」だと思ってくれることだろう。だとしたら、その人にとって、お金をもらうことなど、むしろ「どうでもいい」些事にすぎなくなる(別に、これ以上ないくらいの金額を保障されているわけだし)。いや。むしろ、
自分からお金をあげたいくらい
なのだ。お金をあげて、「国民が原発を良いものだと思ってもらえるように報道」してくれるなら、国民は原発関係者への今の風当たりを弱める効果があるかもしれない。
つまり、「桜理論」である。さまざまな利害関係者は、一見、だれもが、なんの思惑もなく、純粋に、やることが楽しいから、やっていると思っている所に、さまざな

  • スパイ

を潜り込ませて、その場の空気を「操作」する。こういったことは、例えば、2チャンネルでの議論など、さまざまな場面で疑われてきた事態であろうし、今後のソーシャルネットにおいて、今まで以上に、高度かつ過激に行われる近未来が予想できるだろう。
ここで、問題を進めてみよう。上記の原発に対しての、報道「攻撃」も、もし原発推進が国民全員のコンセンサスになっていて、誰も疑っていないような命題なら、そういった「桜」の行動は、だれにも注目されることはないだろう。じゃあ、なぜ、こういった「桜」を問題視されるのか。

  • 原発推進が国民の利害と対立する面があると思っている人がいる

からだろう。原発は、そもそも、非常に多額のお金が動く、一大国家事業である。多くの国民が原発でのエネルギー生産までに関わるわけで、多くのお金が動き、多くの国民に仕事とお金が渡る。これだけの、大きな存在が、たんなる「危険」だからという理由で、今すぐ全部「捨てます」となっては、ものすごいお金の無駄が生じたことになり、大きな責任問題になる。
産業関係の人を中心に取材をしているジャーナリストが、原発関係者に完全にシカトされる状態では、取材にならないだろう。だとするなら、そういったジャーナリストも今後の自分の取材活動を円滑にやるためには、あまり対立的な位置に自分を置きたい、とは思わないだろう。原発に懐疑的なことを言うとしても、なるべく、多くの人のコンセンサスにまで至っているレベルのことを言うに、とどめたいという抑制が働くだろう。

  • お金をあげるかわりに原発を「安全」と報道してもらう:原発関係者 --> 産業系ジャーナリスト
  • お金をもらうかわりに継続的に他の人には出さない原発「レア」情報を今後とも提供してもらえる「約束」をしてもらう:産業系ジャーナリスト --> 原発関係者

もう言うまでもないだろう。つまり、

  • 原発関係者 <-- --> 産業系ジャーナリスト

いわゆる、

  • 談合

は、こんなにも簡単に成立するのだ。
朝日新聞がなぜ、311以降もなかなか、脱原発路線に踏み切れなかったか。読売や産経や日経がなぜ、今だに、原発推進なのかは、こういったところに関係している。)
逆に、こういったジャーナリストが「敵」として、徹底的に「たたきのめせる」人たちとは誰だろう。言うまでもない。その人が取材対象と考えない人たちになる。つまり、上記の議論の延長で言えば、自分の取材先を「dis っている」人たち、ということになる。実際に市民運動には、有象無象の人たちが集まる(また、上記の「桜スパイを潜り込ませて、滅茶苦茶やらせるということもないとは言えないだろう)。隙が多すぎて、つっこむネタに尽きることはない。しかも、彼らはお金を持ってないのだから、自分が彼らに経済的に依存することはない。徹底的に
いじめられる。
私が言いたいことは、この問題を「問題」として、取り上げることは、本質的ではない、ということだ。つまり、「構造」だということである。
たとえば、上記の産業系ジャーナリストは、こういった問題にどこまで自覚的だろうか。いや、それを他の人がどうやったら分かるだろう。つまり、分からないのだ。人がなにを考えているのかというのは、本質的に分からないのであって、そういったことに問題を集約させることは建設的ではない。
なぜ、上記のような問題になるのかは、言うまでもなく、このセカイが、

  • さまざまな利害対立の場

であること、そのものに原因しているのだから、たとえこの問題を告発してみたところで、後から後から同様の問題に悩まされ続けるだけ、とも言える。
こういった問題は、数学的には、非常に「ゲーデル不完全性定理」を思い出させる印象がある。つまり、自分をメタの立場に置いて、さまざまな対象をくさしていたつもりが、いつの間にか、自分が議論の中心にひきずり出されていて、さまざまな個人的な利害が意識されてきたとき、
なにかを話すことが恐しくなる。
人はセカイの外に出ることができないのだから、必然的に、当事者性を免れることはできない。そう考えるなら、上記の問題は、「消費者」の問題だと定義することができるだろう。
つまり、あまりに「ナイーヴ」な読者というのも問題なのだ。どんなに「いい人」そうに思ったからといって、そう簡単に人は心を許さないものだし、そうされることを喜ぶ方もどうかしている。あらゆることと、どう距離感を保っていくのかは、これからの、ソーシャルネットにおいてこそ、重要になるだろう。
こういった(ヒューム的な)当事者性に対して、人間のとりうる態度とは、どういったものなのだろう。それを(ある種のカント的な意味での)「裁判所的理性」と読んでみたくなる。
このセカイから、利益相反を完全に消し去ることができないとするなら、私たちは、ある種の「対立的な」理性の可能性を考えてみたくなる。つまり、むしろ、「対立しているがゆえに」人間は、理性に近づくことができる。裁判所がなぜ、ああいった現国と被告と、検察が弁護士や裁判官が、ああいった三角関係を劇場的に「演じる」形になっているのか。それは、間違いなく、対立によって、浮かび上がる理性があるからだろう。そうであるなら、私たちは「対立」を恐れるべきではないのかもしれない。
むしろ、そうすることで、辿り着く地平があるとするなら...。