マッケンジー・ワーク『ハッカー宣言』

私には、311以降に、いわゆる世間で「経済学」なるものを自らのバックボーンにしている人たちが、「さらした」醜態は、一体なんだったのかな、という気持ちが強い。
彼らは、さまざまな屁理屈を並べた後、結局のところ今は原発を動かすことが「経済合理的」なるトンデモに落ち着く。まあ、あれだけ「高価」なものを、そのまま捨てることが
もったいない
という日本人が昔からもっている「美徳」について言っているのなら、分からなくはないが、彼らの言っていることを聞くと、どうもそういうことではないようなのだ。
まずはその彼らのロジックを整理してみよう。
原発を動かすためには、事故が起きたときの、保障を「どこかのだれか」がやらなければならない。ところが、電力会社は、
法律によって
その役割を免除されている。つまり、今、電力会社がやろうとしている「保障」も、なんちゃってレベルであって、そもそもその主体は「国」だって、法律で決まっているんだから(つまり、一定金額以上は電力会社の「責任」じゃないのだから)、彼らが「真面目」に、やるわけがないだろう。これは、電力会社を責めていてもしょうがない話で、つまりは今の法律がある限り
絶対に
電力会社は原発で何度も事故を起こし続けることが決まっているわけだ。大事なことは、これは「構造」なんであって、だれが悪いとか言っていてもしょうがない。今の法律の下で原発がある限り、人間の活動であれば、必然的に続くシステム的な結論と言える。
では、このフレームをそもそも「破棄」したらどうなるか。つまり、なんで電力会社の保障を国が手助けするなんていう仕組みになっているのだ(それこそ、社会主義国じゃないんですかね)。こんなもの、やめてしまえばいい。すると、どうなるだろう。電力会社は「必然的」に、保険会社に保険を賭けてもらえなければ、事業が成り立たなくなる。これだけの大きなリスクのある原発をやるには、自社のお金では、まかなえないから、である。そして、実際に今までも、電力会社は保険会社にそういった契約をお願いしてきた歴史がある。ところが、保険会社はことごとく、断り続けてきた。なぜなら、
あまりにも割に合わない
からだ。事故が起きたときの保障が、天文学的数字すぎる。実際、「あの程度」の事故でさえ、福島県はまるで民族大移動のような様相を示していて、県民は今後の身の処し方に苦しみ続けている。一つの県がまるごと、このような苦しみに陥れるようなものを、どうやって「保険」するというのだ。
じゃあ、原発は一基残らず日本から無くすのか。経済学者は「それも悪くない」というのが、上記から導かれる結論だろう。
しかし、だからといって、今すぐに、今ある原発の即時廃止となるか、となるとあくまで「消極的な理由として」違う、と言う。
一つの理由は、上記の「日本人の美徳、もったいない」論だが、それだけではない。
もう一つの理由が、世界的なエネルギー資源の「安全保障」的な意味が大きい、と。石油も天然ガスも今後の新興国の発展によって、必然的に高価になっていかざるをえない。また、こういった資源が採掘される地域は限られていて、そういった国々と日本との貿易が、いつまでも「平和」に続く保障はない。つまり、そういったエネルギーのポートフォリオとして、完全に放棄するのは「しのびない」と。
(もう一つあるとすれば、日本の核保有に関係する、もう一つの「安全保障」だろうが、こちらは、政治学的と言える。)
だいたい、こんなところが、経済学者の言うところとなるわけだが、どう思うだろう。なにか、さまざまな「観点」が欠けていないだろうか。経済学とは「この程度」の学問なのだろうか。
本当か?
なぜ、さまざまな「抽象的」な議論をやろうとする人たちは、マルクス主義に言及しないのだろう。いや。マルクス主義に言及しないことは、まだいい。
マルクス
のテキストに言及しない、というのはありえないだろう。つまり、彼らは何を話しているのか。彼らの関心の焦点はどこなのだろう。今世界中にある、テキストの中で、一つだけ、体系的な世界観を示したをあげるとするなら、マルクスのテキスト以外にありえないだろう。もちろん、それを否定されるのもかまわない。だったら、あんたはそれをどう読んだのか。どう総括したのか。まずは、そういった自分の立場を鮮明にしてから、別の課題なり、なんなりに言及したらどうだろう。
私が上記で、経済学とは「この程度」なのか、とくさしたものは、一般には、「近代経済学」とマルクス経済学以外を総称して呼ばれてきたものを言っていると言えるだろう。この中には、新古典派経済学も含まれているわけで、こういった人たちが、かなり徹底した、経済学の「数理」化をやってきた、と言えるだろう。
しかし「数理」化とは、つまりは、「さまざまな仮定」を定義する過程のことを言っているのであって、その数理モデルが、どんなに「きわどくて」美しかろうと、その美しさは、そこで定義した「仮定」が生み出しているにすぎない、とも言える。
つまり、なぜ経済学が「合理的」かは、むしろ、なぜそういった「美しい」理論に魅了されてしまったのか、つまり、その「合理性」は、あんたが選んだ「美学」が帰結させているとも言えるわけで、つまりは、
トートロジー
なんじゃないか、と。
私に言わせれば、近代経済学、つまり、新古典派経済学とは、
マルクスという御神体
によって、「権威付け」されることによって始めて成立している、(数理)「モデル」だと言いたいわけだ。マルクスが「この経済的な考え方は正しいよ」と言ってくれたから、彼らはその仮定を、
あらゆる場面
で使うことを「正当化」している。
しかし、そういうものだろうか。もしそうであるなら、私たちはむしろ、マルクスが「語れなかった」その「向こう」を考察することの重要さに思い至らないだろうか。マルクスのテキストを
より徹底
したその先を考察すること。つまり、マルクスのテキストの「(カント的な意味での)批判」の方向にしか、その「可能性」はないんじゃないか。
もちろん言うまでもないことだが、マルクスの時代と今は違う。さまざまに変化している。もちろん、変化しているのなら、彼が考えていたことが、今では通用しなくなっていることもあるだろう。しかし、じゃあ、彼の理論は現代では、無用の長物なのか。たとえそうだったとしても、それをそうだと証明する作業をやらないで、
分かれ
って無理だろ、って、私の言っていることは、この回りを、ずっと廻っているようだ。
しかし、そういった消極的な検討ではなく、逆に、積極的に、マルクスのテキストを
救済
する方向だってあるのではないか。つまり、マルクスのテキストの「拡張」である。
そういった視点で、これを、エコロジカルな観点から検討しているのが、柄谷さんの、以下の論文だろう。

玉野井は宇野学派の一人でしたが、一九六〇年代に、宇野弘蔵が考え及んでいなかった領域に進みました。
宇野が重視したのは、資本制経済が労働力商品という特異な商品にもとづくという事実です。この商品は、資本が生産することができない「自然」です。それは必要だからといって急に増やすことができないし、不要だからといって廃棄することもできない。つまり、産業資本主義では、本来商品化できないものが商品となっているのです。宇野は、このことが不況、好況、恐慌といった産業資本主義に固有の景気循環をもたらすと考えました。

宇野のほかに、資本主義市場経済が商品化できないものを商品とすることによって成立していると考えた人がいます。カール・ポランニーです。ただ、彼は宇野と違って、本来商品化できないのにフィクションとして商品化されているものとして、労働力のほかに、自然(土地)、貨幣の二つをあげました。そこに注目したのが玉野井芳郎です。
その場合、労働力の商品化に関してだけでなく、貨幣の商品化に関しても、宇野派はよく考えていました。たとえば、貨幣の商品化、つまり、金融によって市場経済が拡大すると同時に、その危機が不可避的になります。したがって、マルクス主義経済学者がこの問題に取り組むのは当然です。しかし、それに比べて、自然(土地)の商品化という問題、あるいは、それがもたらす環境破壊の問題は、重視されなかった。宇野も例外ではありません。その理由は、マルクス自身がさほど重視しなかったからです。玉野井はそのことにちて、つぎのように述べています。

このようにマルクスは、”人間の自己再生産”が人間と自然とのあいだの物質代謝の過程を通してはじめて確保されるというそのことを洞察していた。けれども彼は、この物質代謝の過程そのものを自然・生態系の基礎上にとらえるという研究をこれ以上に進んでは行なわなかった。その理由としては第一に、資本主義という経済体制の”特殊歴史性”を明らかにするという接近法をとっていたマルクスにおいては、人間と自然とのあいだの物質代謝が資本主義のもとではすべて商品形態を通していわば「回り道」によって行なわれる。その商品経済危機を解明することが経済学の主題とされたからである。
第二に、一九世紀のイギリスの紡績業という工業化段階を対象としたマルクスにおいては、物質の連続的な再生産が自然に可能となるような生態系の循環システムが暗黙に想定されていたということがある。原料と労働エネルギーを投入して生産される産出物は、一部は個人的消費に、他の一部は生産手段の補填にあてられていて、それ以外の生産=消費の過程に生じる排泄物はすべて母なる大地という自然の手に無事に返還されるものと見なされている。二〇世紀末の現代におけるように、産出物の一部に、物質循環の起動をはなれてゆく汚染物質や処理困難な老廃物が出現して投入源泉そのものを撹乱しはじめている異常な状況は当時としては予想もされなかったことであろう。経済体制を超えるような生産と消費の危機はまだ生起していなかった。他方ではまた、肝心の自然・生態学的研究そのものがまだ十分に展開されていなかったということもあげられるだろう。
(『エコノミーとエコロジー』新装版、みすず書房、二〇〇二年、p.42)

こうして、玉野井はマルクスがやり残した仕事をやろうとしたわけです。具体的には、これは宇野派が見逃してきたことを、ポランニーを媒介しつつ再考することです。これまでの経済学は、物質の連続的な再生産をもたらす生態系を自明の前提にしていました。たとえば、『資本論』のマルクスは、使用価値はあるが、交換価値はないものの例として、水や空気をあげています。これは古典経済学における認識と同じです。しかし、今や、水も空気もただではない、ということは明白になっています。また、かつては川や海に物を捨てればよかったけれども、もはやそうはいかない。経済学は廃棄物の処理、環境の維持というコストを入れて考えなければならない。さらに、玉野井は、マルクスのいう「物質代謝」が微生物を含むエコシステムの中でなされることを考慮しました。こうして「エコノミーとエコロジー」が結びつくような”広義の経済学”を考えたのです。そのような研究をしているうちに、彼が出会ったのが、槌田敦エントロピー論です。

柄谷行人「自然と人間」

atプラス 09

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多くの人たちが素朴に思っていることで、しかしわざわざそんなことを人前で言おうとしないことは、

  • 労働と商品は、どう考えても「違う」ものだろ?

だろう。だって、商品の売り買いは言わば、「自分が直接は関係しない」まさに、物と物との「やりとり」であって、そういったものと「労働」というような、
自らがやる行為
を一緒のものとして、議論することはどこか変じゃないだろうか。
こういった「変な」商品の、フィクショナルな商品性に注目したのが、カール・ポランニーだと。

  • 労働力
  • 自然(土地)
  • 貨幣

(例えば、近年の金融商品の隆盛は、むしろ、こういった「貨幣」のようなものを商品化すればするほど、セカイは、よく分からない「混沌」さが増している印象を受けなくもない。)
その中でも、自然というものは、これを「商品」の延長で考えることの「限界」をどうしても考えざるをえない。私たちは水と空気がなければ生きていけないわけで、なにもかもを、商品交換の「延長」によって説明しうるし、「できる」と考えるのが、「新古典派」的な経済学作法だとするなら、そういった
原理主義
をどこまで、私たちはまともに扱わなければならないのか、ということなのかもしれない。言わば、そういった商品交換の
外部
が無くなっていく、その印象への違和感なのである。本来の商品交換のアイデアは、市場で服を買うときのような、もっと素朴なもののはずである。それが、そういったものを遠く離れた、よく分からないものにまで、

  • 売る
  • 買う

という、

  • 「比喩」

を使い始めていることの是非が問われているのではないだろうか。
さて、この話はどこまで続くのだろう。
例えば、近年、その勢いを拡大している、ネット社会。つまり、コンピューター社会とは、こういった
マルクスのテキストの「延長」
という視点から、どのように考えられるだろう。その一つが掲題の本だと言えないだろうか。
よく、情報という言葉を使う。しかし、情報というものがなにか「静的」に存在するという言い方は、非常に違和感を感じる。それは、プログラミングを考えてみてもいいだろう。
さまざまな分野において、情報は、あるデータベースなりファイルなりとして「対象」として管理される。しかし、そのデータベースなりファイルなりに入っている情報が「動く」とき、それはプログラム内にメモリとして、保持され、加工される。しかし、ここまで来るとそれを、情報と呼ぶことには、どうしても違和感を感じる。あきらかに、「それ」によって、プログラムの動きが変わる。つまりそれって、
プログラム
じゃん。情報とは、一種のプログラムであって、だれかが言っていたと思うが、情報をプログラム化することも、プログラムを情報化することも、どっちにとっても、一種の

のことを言っているってことになるではないか。つまり、どっちが情報量が多いか(ファイルのバイト数が大きいか)といった話であって、効率的に「圧縮」できてれば、その「暗号」(つまり、抽象化)は、有用なのだろうし、そういった視点から見れば、どっちだっていいわけだ。
それぞれの場面での用途(有用さ、扱いやすさ)によって、さまざな「抽象化」は別の抽象化に、暗号化され、復号化される。
そえは、私たちの脳内での情報処理においてこそ、考えられるだろう。脳内に残っているのは、「記憶」でしかない。記憶とは、感覚の「連続」である。そういったものを、ある「対象」として考えることは、なにかを間違う。私たちがその記憶を「思い出す」とき、多くの場合は、その体験と「似た」感覚を、追体験したときなのかもしれない。つまり、それは、まるで一連の
プログラム
のように、連続して、結果を吐き出し続ける。私たちが記憶を「プログラム」のような形で、脳内に保持していると考えることは、不自然ではないんじゃないか。
ここで私がさかんに「プログラム」と書いているのは、もちろん、プログラミング言語のようなものをイメージしている。つまり、記憶とはある「解釈」による「理解」であり、つまり一種の
生産
行為に当たると考えられるからである。
著者の問題意識ははっきりしている。

ハッカー階級----新しい抽象性の生産者----は、支配階級が資源としての情報へとより一層依存するようになるがゆえに、それぞれの支配階級にとってより重要な存在となる。

マルクスが定式化した、ある種の「対立的理性」、つまり、農民にとっての牧羊階級、労働者にとっての資本家階級、に対しての、
新しい抽象性の生産者
として、ハッカーという存在を定位する。しかし、それは上記にあるように、ある種のプログラマー、つまり、そういった意図をもった、言論活動すべてが、ハッキングという、この世界のさまざまな、コードの変更(改変)を意図し行為していると考えられるという意味で、ハッカー階級と定義できる。
「生産」という行為は、もちろん、「自然」と対立する。つまり、ハッカー階級においても、その問題の所在はその「所有」にあることは変わらない。

プルードンが言うように「所有することは窃盗することだ!」。所有とは抽象化された窃盗であり、自然自体から自然を盗み出すことなのだ。そしてそれは所有形態の内へと束縛された共同的な社会的労働者たちによって為される。所有とは自然のうちに生じるものではない。所有とは自然権なのではなく、歴史的生産物なのであり、アンビヴァレントな帰結を強力にハッキングすることによる生産物なのだ。何ものかを所有せしめるということは、その何ものかを連続体から切り離すことであり、特徴づけ境界づけることであり、有限な何ものかとして表象することなのである。そして同時に、その何ものかが分離されたものであり有限なものであるという表象を通して。ひとつのプロセスから切り離されたものであり有限なものであるという表象を通して。ひとつのプロセスから切り離される何ものかが、別のプロセスへと接続し、自然であったものが第二の自然となる。

ハッカーたちによる、ある種の「抽象」活動。つまり、プログラミング活動は、このコンピュータ社会においては、一つの「自然」の、ヴァーチャルリアリティ化、つまり、
第二の自然
を生み出す。これは、言わば、人間の「抽象」活動の「生産物」でありながら、もう一つの自然という姿を表す。しかし自然とは「階級闘争」の舞台について言っていたのではないか。
もう言うまでもないだろう。著者はハッカー階級に対立する勢力を「ベクトル階級」と呼ぶ。

ベクトル階級は第三の自然を世界へと放ち、世界から直接的あるいは間接的に利益を得る。ベクトル階級は生産階級から、あるいはまたその他の支配階級から利益を得るのであり、このときこれら支配階級はベクトル階級から、その対象化の形態における世界を理解するためのベクトル的能力----沿革透視能力----を売りつけられるのだ。時として、ベクトル階級は資本家階級や牧羊階級と競合する。それゆえベクトル階級は、それらの階級と共謀し連携するのだ。国家形態は自らに合わせて調整される。ベクトル階級の国家への関係を示す指標とは、放送電波やネットワークといったベクトルを管理し、特許や著作権それに商標を規制する諸法の変化のことなのである。思想それ自体が、そして放送それ自体が所有という表象へ従属させられるとき、ベクトル階級は主導権を握っているのである。

この本の原本は、2004年のようだが、その頃は、OSの WindowsLinux の区別が言われていた頃であった。世界の「ハッカー」という有志によって開発が行ってきたさまざまな、フリー・ソフトウェアの世界に対して、商用の世界というのは、今もそうだが、ある
人類の可能性
を、徹底して「遅らせる」ときもあるだろう。今の地球上の人々の営みには、さまざまな問題があると言われている(絶対的貧困もその一つだろう)。そういったものに、さまざまに手をさし伸べたいと思う「ハッカー」たちの動機は、
それまでの時代の、牧羊階級や資本家階級による
囲い込み
と同じく、妨害され、ますます難しくなっている部分はないだろうか? つまり、この本も、マルクスのテキストを現代において「延長」する、もう一つの野心的マニフェストと言えるだろう...。

ハッカー宣言

ハッカー宣言