万世一系?

私は、そもそも、(天皇制の話でよく言われる)「万世一系」というのが、よく分からなかった。ようするに、あんたがいれば、あんたの親(この場合、父親)がいるよね、って話らしい。だから、一系、だと。
つまり、それって、普通の人間じゃん、と思うのだが、ここ日本においては、古くは南北朝時代後醍醐天皇につかえたという北畠親房の『神皇正統記』から、注目されるようになる。
というか、「始めて」日本の天皇の「万世一系」を、(ほとんど)「発明」したのが、この北畠親房だということを、多くの日本人は「分かっていない」。

北畠親房の主著とされる『神皇正統記』はいってみれば、万世一系天皇家ということをはじめて主張した本なのです。

「歴史」を動かす―東アジアのなかの日本史

「歴史」を動かす―東アジアのなかの日本史

ご存知のように、北畠親房が仕えた後醍醐天皇の時代とは「南北朝時代」と呼ばれ、北朝南朝という、
二つの天皇
がいた時代になります。しかし素朴に思わないでしょうか。なぜ、二つの天皇が存在できたのか。たとえばじゃあ、なぜ、それ以前には、こういったことが(ほとんど)なかったようなのか。この関係が成立するためには、お互いが

  • 違った「正統性」

を主張しなければ、起きえないでしょう。どんなに自分が、この人が天皇にふさわしいと思っても、世の中には「ルール」というものがあるものです。無理に押し通そうったって、世の中の人を説得できなければならないわけですから。
そこで(『太平記』などでも、大きく描かれる)当時の日本で、やっと「流行」し始めたものに、
朱子学の「大義名分論
があるわけですね。この理論がやっと、日本に入ってきた。すると、南朝側はこれを「徹底的に」利用し始めるわけです。

朱子学は、江戸時代になって日本でも本格的に定着する儒教儒学の一流派ですが、禅宗のお坊さんたちによって中国から日本へ伝えられたと通常考えられています。そのなかでも「大義名分論」は王権を支えるものとして重要なのですが、それが南北朝時代をたいへんややこしくしている原因でもあるのです。
大義名分論は、南朝存続を支えた論議なのです。自分たちは武家方ではないということを南朝の人たちはとくに強調していました。そして武家を排除します。
「歴史」を動かす―東アジアのなかの日本史

非常におもしろいですね。私たちが、なれしたしんで語っていた、万世一系という考え方が、そもそも、こういった当時の、「輸入思想」によって、主張されたものだということは(本当は、その本家の、朱子学そのものの、中国での歴史。どうやって、この考えが、中国で大きな思想的ムーブメントとなっていったのか。こっちの方もおもしろいのでしょうが、今回は省略。そもそも、天皇制の最初の始まりと思われる、天武天皇の頃から、こういった国家制度に、大きく、中国の儒教的国家システムが関係していたわけですから、大きく言えば、同じようなルーツの話をしているとも言えなくはないんですけどね...)。
では、この北畠親房が「定義」した、万世一系を図にしたものが、この前紹介した本に載っています(興味のある方は、そちらを)。これを眺めていると、ある意味、
ショック
を受けます。

北畠親房が『神皇正統記』を書いたときに天皇だったのは後村上天皇(義良親王)です。親房は彼にとっての今上天皇であるところの後村上天皇から始まって、いまの当今の帝がどういうふうにして、天皇家を相続してきたのか、後村上天皇を起点とて遡っていくのです。『神皇正統記』のなかには、系図が書いてありませんが、『義経から一豊へ』(勉誠出版)のなかで、近藤成一さんが、「『神皇正統記』による天皇系図」を作っていますので、それを参照させてもらいます。近藤さんは「万世非一系の論理」と題して万世一系はフィクションだと主張しています。日本の天皇の地位が一系で伝えられていると思っている人がいまでも多くいますが、歴史学者の間では、皇国史観を受け入れている人は少ないと思います。まずは親房が、どのように考えていたのかをみていきましょう。
親房は、天皇の地位の継承を「おおよその承運」といって、「代」で表し、図ではそれが、名前の右肩に算用数字で書いてあります。また天皇の血筋の継承を「まことの継体」といって、「世」で表し、図では、天皇を四角で囲み、左横(本書では右下)に漢字で世数を入れています。
図で見てみると、まずは神功皇后のとこでズレています。神功は14代の仲哀天皇の皇后で16代の応神天皇のお母さんです。『日本書紀』以来、ずっと江戸時代まで神功皇后は即位していたとなっていたのですが、水戸学が「神功皇后は即位していない」という説を出し、明治時代になって神功皇后は正式に系譜から外されています。
そして、応神天皇の後、天皇の位は仁徳、履中天皇、仁賢、武烈と続くのですが、全員四角がついていません。なぜかというと、武烈天皇の後、仁徳天皇家の血が絶えてしまって脇から継体天皇という人が即位するのです。系譜がほんとうにこのようにつながっていたのかどうかは、古代史研究で疑問視されています。乗っ取りだったのではないかといわれています。しかし、北畠親房の段階でふつうに信じられていた系譜や、現在の宮内庁が信じている系譜ではこのようになっているのです。
親房が「まことの継体」に該当すると思って、四角で囲んでいくと、その子孫に天皇はいないので、仁徳から武烈は全員はずれてしまうのです。その後、兄弟で継承している場合も、その子孫が天皇になっていまに続いている人に四角をつけています。もちろん、後深草以下の持明院統の人はいっさい四角マークと漢数字は付いていません。
北畠親房が『神皇正統記』を書いた段階で天皇だったのは義良・後村上天皇ですから、彼に五〇という数字が振ってあり亀山から直系でつながっていく。この系図は頭から順番に作られているのではありません。今生天皇であるところの後村上天皇から遡って、当今の帝がどういうふうにして、天皇家を継承してきたのかつないでいった、つまり「まことの継体」を示すための系図です。
親房にとって後村上が正統で、そこは動かしがたい事実なのです。そこを起点として、彼の血筋を前前へとさかのぼって、彼が正しいと思う天皇の歴史を書いているのです。ですから、こえは後付けの理屈なんです。
ですので、たとえば第49代、まことの継体では二七世の光仁天皇桓武天皇のお父さんですが)について見てみれば、光仁天皇が即位したからそのお父さんの施基皇子も「まことの継体」を継いでいた人となるのですね。漢数字は書いていませんが二六世になる。この系図に移ったからこそ天智天皇に四角がついて、弟の天武天皇には四角がついていないのです。それだけの話ですが、北畠親房はそのことをあたかも歴史の法則であるかのように書くわけです。
「歴史」を動かす―東アジアのなかの日本史

朱子学大義名分論は、大事なことは「今の世に大義名分があるのかどうか」に興味があるのであって、ということは、それを
考えている人
にとって、そのことが重要だから、「学問」として体系化されているところがある、ということなんですね。つまり、今の私たち、上記の北畠親房のやっていることを見ていると、なんだか、(不謹慎ながら)笑えてきてしまう。だって、
自分(が仕えている天皇)から見て
過去の天皇家の「正統」性を、うんぬんしているわけで、まさに、自分目線の「上から目線」ってやつにならないか、って話でしょう。
この天皇の御時代は、あまり評判のよくない時代で、国も乱れ、仁政でなかったと言われているが、でも、それは自分が仕えている天皇の、子孫「じゃない」から、やむなしかな...。
(私は、今の日本を作った最初の人は、天武天皇だと思っているが、その人が上記の系図から外れるわけでしょう。なんか頭が痛くなるんだけど...。)
普通、歴史って、今の世の「結果」から、過去の時代を「うんぬん」するものじゃないんじゃないか? と思わないか。そうじゃないと、定まった歴史って、いつまでも存在しないことになるだろう。
そして、こういった思考スタイルは、現代においても、また、再現される。愛子さんが「女系天皇」となるべきかどうか(もちろん、そうなったら皇室典範の改正となるのだろうが)。
しかしそれは、今の時代を生きる私たちが、当然のように、浩宮(ひろのみや)さんが次の天皇と考えるからであるが、その弟の方に男の子が産まれたとなると、この「まことの継体」って考えは、非常に「過激な」思想と思えてこないだろうか(少なくとも、日本の和を尊ぶ歴史には、あまり合わないんじゃないかな...)。
私は正直、この問題をこれ以上語りたい気持ちにならない(自分も長男じゃないし)。というか、もういいんじゃないか。彼らをそっとしてあげたらどうだろうか。まさに、当事者主権。彼らがやりたいように、彼らが考えたように、やれる自由を保証する制度はできないものだろうか。そう思っている人の方が、今の日本には多いんじゃないですかね...。