「ばらばら」という言葉

楽しみにしていた「思想地図」の最新刊は、前回とは、まったく趣を異にした、まさに、緊急増刊号という体裁になっていて、内容も、まさに、ここ半年の、ほとんど感覚としては、ずっと続いていたように思える、
余震
の揺れのように、絶えず、この身を振るわせられ、恐怖を感じ続けた感覚と同じような、
現在進行形
の問題を、とにかく、今思っているその一瞬の思ったことを「切り取って」いるような、そんな内容の印象を受けた。
私は今も、地震が恐い。余震が来るだけで、なにか、言いしれぬ恐怖を感じる。揺れることは、どこか体の芯が中心としての意味をなさず、ふりまわされ、自分を維持できないこの感覚に自分が慣れることはないように思う。
このような日々の中も、強く、東日本の復興を目指し、「がんばれ日本」をオルグされる人々の力強い言葉には、まだ、自分にはその期待は重く、なかなかついていけない印象がある。
自分は弱い。
この自然の中に、ほうり出された一人の人間は、なかなかその自然の猛威を跳ね返すパワーを自分の中に見出せない。ああ、だめだな、と思う。
しかし、だめであることは、許されないことなのだろうか。たとえ、だめであっても、少しずつ、体をちぢめて、待機しなから、復活のその日を夢見て待つことは、卑怯なのだろうか。
日本はまだ、今は、その復活の時のために、自分の身をちぢこませて、待機している時期なのではないのだろうか。私には、まだ、余震もさめやらない、この日常で、一刻も早く、311以前の状態に戻ろうとする、その拙速さに、ついていけない。そんなに、あせらなければならないのだろうか。そんなに、一刻も早く以前の状態に戻らなければならないのだろうか。
世界中で、地震活動期に入っていると、地震学者は言う。日本は当分の間は、こういった地震が、日常茶飯事に続くのだろうか。だとするなら、とにかく、一刻も早く経済復興を目指すことよりも、とにかく、この地震活動期を、どうやって、みんなでサバイブするか、そういったことを腰をすえて考えたい気持ちにかられるのだが、どうも世間の雰囲気は、まずは、経済的な311以前並み復興を、一日でも早く実現させることが最優先になっていて、それは、福島産の農産物の流通問題での、人々の罵詈雑言の投げ付け合いに、結果していて、
恐い。
もっと冷静に、どういった手続きで、人々の合意は獲得していかなければならないのか、そういった、対話による、当事者同士の合意の過程を積み重ねる
手続き
をもはや、人々は信用しなくなっているのであろうか。そんなにあせって、人をやりこめなければ、気がすまないのだろうか。それはなにか、bump の「beautiful glider」を思い出させる悲しい印象を自分に残す。
ばらばら。
そうなのかもしれない。今回の311は、多くの人たちが亡くなっている。しかし、その死体の姿。死ぬ瞬間は、まず、ほとんど、映像や写真で流れなかった。場所によっては、ほんとうにたくさんの死体が山積みになっていたはずなのだ。

私は地震の日の夕方、ある大きな建物へと出かけた
知人と会わなくてはいけなかったからだ。
知人を待っている間に、警備室のテレビを、盗み見た。
その時からだ。私の本当の震災が始まったのは。

和合亮一「詩の礫 一〇」

思想地図β vol.2 震災以後

思想地図β vol.2 震災以後

おそらく、こういった流れない映像は、たくさんあるはずなのだ。もちろん、見せないことは一つのリテラシーなのかもしれないが、そうやって「真実」に向き合わないことは、本当にそれで正しいのだろうか? なにか根本的な感覚が、そういったことでおかしくなっている、ということはないのだろうか?
videonews.com で萱野さんらが言っていたが、欧州での暴動の多くの原因は、現地の警察が市民を「殺す」ことがきっかけに起きている、というんですね。向こうの警察は、かなり簡単に市民を殺す。日本では、そうやって警察が殺すということは、まず、ほとんど起きない。
起きないことは、大変に結構なことに思われるが、なぜそうなっていないのか、は問うておく必要があるんじゃないだろうか。それによって、トレードオフされている
代償
はなんなのかを。私は、この雑誌に載っている中川医師のある言葉が気になった。

入院したらわかりますが、手術を受ける前には、この検査には致死的なリスクがあります、この手術は死亡するリスクさえあります、と書いてある書類に「はい承知しました」とサインしないといけない。こうした書類には、「大丈夫です」「治ります」とはひと言も書いてない。たしかに、インフォームド・コンセントは望ましいことではあります。しかし、実態は、医療者側のリスクヘッジという側面がすごく強いんです。それから、説明を受けただけで患者さんがきちんと理解できるものではない。だから、医療者は患者さんに「大丈夫ですよ、心配いりません」っていって、肩を押してあげないといけない。後でよくないことが起こった場合に「大丈夫っていったじゃないか」っていわれたとしても。

「東大病院放射線治療部門 中川恵一氏インタビュー」
思想地図β vol.2 震災以後

こういったロジックが原発は「安全」「大丈夫」と言われ続けてきたことに似ていることを、この人に向かって言ってもしょうがないのだろう。医者と患者に圧倒的な知識の非対称性があることを前提にするなら、そういった間での、
対話
とは、そもそも成立するのだろうか? また、こういった問題を考えてきた人たちが一体どれだけいるのだろうか。そういった、自分たちが問題を立てて、問うことをやってこなかった怠慢を無視して、その非論理性にふきあがってもしょうがないのだろう...。
病院は、人が最後に死ぬ場所である。ここで、多くの人たちが、最後の死の場面を迎える。しかし、その場面を、外の人々が見ることは、ほとんどない。人が死ぬ場面に、医者以外の
こちら側の人
が、じっと目をこらして見ることはない。そういうコミュニケーションはほとんどなくなったのだろう...。