仁平典宏『「ボランティア」の誕生と終焉』

あいかわらず、日本の言論は
偽善
を告発するものに満ちている。どうも、学歴が高ければ高いほど、他人の「偽善」を告発することで、なにか「知的」なことを言った気分になれるようだ。

佐伯はかつて、かつてべ平連に対して感じた「気分」として次のように述べている。

ベトナム戦争そのものは、確かに、悲惨な事態には違いない。しかしそうだとしても、それが一体、ベトナムという国も知らなければ、悲惨ということの意味を肌身で感じることもないわれわれにどんな関わりがあるというのだろうか。テレビで見た悲惨から「同情」し、この「同情」がベトナム戦争反対という「正義」へと転化することは、せいぜい自己満足にすぎないではないか。あるいは自己欺瞞であるかもしれないではないか。なぜなら、わたしは、戦争の恐怖にも生命の危機にも全く身をさらしていないからである。(佐伯 1997: 45)

ここに表れている「気分」は、近年のインターネットなどを媒介にした草の根の「右派」のコミュニケーションでも見られる。そこでは「市民」は「プロ市民」と呼ばれ、「偽善者」として貶価される。彼/女らは、「国民」や「普通の人」のためではなく、他者のため(他のアジアの人々のため、社会的弱者やマイノリティのため......)に「善意」で行為しようとするが、その「自己欺瞞」は、われわれ自身の「国益」の損失や、敵対する勢力(?)への利敵行為となるというわけだ。二〇〇四年にイラクの人々に支援活動をしていたボランティア三名が誘拐されたとき、帰国した彼/女らを迎えたのも、この種の声だった。

小田実を dis る佐伯啓思のこの発言は、まさに、近年の右派(リベラリズム)的な左派(プロ市民、ボランティア)批判の典型的な

と言えるだろう。しかし、そう単純でないわけで、脚注でも書いてあるように、小田実の戦中体験(戦中の自らのヘタレぶり)からの「反省」から来る、こういった行動を、佐伯啓思という「戦争を知らない」世代が、その偽善を dis る姿は、なんとも「滑稽」であったりもする(これも、近年のヘタレ右翼の、どこか「幼児」的な特徴とも言えるのだろう)。

次の言葉は「毒舌」も売りにするあるタレントの名前のもとに発されている。

阪神淡路大震災やナホトカ号重油流出事故時のボランティア活動について)「個という意識が確立されていないこの国では、周りが行くと言った時に『俺は嫌だ』と言えないんだね。まして”善意”の人には逆らえない。それで、やらない奴は自然に村八分の状態になったりすることになる。」「ボランティアにあらざれば人にあらずみたいな風潮は嫌になるね。」(ビートたけし1997: 78,80)

彼は続けて次のように言う。「ボランティアという行為には、そもそもパラドックスがあるんだよ。国のやる福祉というのがそもそもボランティアだろう。大震災の被災者の世話でも、重油を肥柄杓ですくうことにしても、本来は全部国の仕事のはずだ。そういった事件が起きたときのために、普段から高い税金を払って、あれだけたくさんの役人を養っているわけなんだから。だからボランティアをやればやるほど、本来働くべき人間に楽をさせ、間ぬけな国を助けているということになる。そのことに、どうしてみんな気が付かないんだろうなと思うね」(ビートたけし 1997: 86)。

こういった形でボランティアを dis るディスコースは、そもそも、明治の頃から、日本のマスコミでは、お決まりの口ぶりであって、あまりにもこの、
定型
的なまでの構造は、ちょっと自分が頭がいいと思っている人の上から目線発言において、必ず、まるで「前座」のように、枕言葉として繰り返される。
こういった構造は一体どんな「正当性」において、存在してきたのだろう。それを著者は「贈与のパラドックス」と呼ぶ。

このように<贈与>とは、外部観察によって、絶えず反対贈与を「発見・暴露」される位置にある。ここで重要なのは、<贈与>は、被贈与者や社会から何かを奪う形(贈与の一撃!)で反対贈与を獲得していると観察されがちなことである。例えば補論二で見るように、近代的な権力は、善意を装い贈与するふりをして、決定的な負債を与えていく存在として概念化されてきた。<贈与>は、贈与どころか、相手や社会にとってマイナスの帰結を生み出す、つまり反贈与的なものとなるというわけだ。この意味論形式を、本書では<贈与のパラドックス>と呼びたい。

なにか「良い」ことをした、という「アイデア」が成立したと世間一般が認識した途端、その「代償」がいつか「必ず」支払われる、と人々は手ぐすねを引いて待ち構える。つまり、払われないわけがないのだから、払われる、という
トートロジー
によって、「観念」的に「先取り」して、その負債の「荒稼ぎ」を告発することが、知性あるインテリの自らの知性を証明する、お決まりの所作というわけだ。

スラヴォイ・ジジェクによると、左派とは----外からの侵略者によって共同体が脅かされていると観察する右派とは対照的に----敵対性によって内的に引き裂かれていると政治空間を観察する立場である(Butler, Kaclau & Zizek 2000=2002: 152)。ここでは被抑圧者は、外敵によってではなく、内部に生じる矛盾の犠牲者であるため、自らの社会構造を批判的に組み替えることで問題を解決することが必要になる。逆に、根本的な解決を求めずに、<贈与>によって縫合しようとするのは、左派の観点からは問題の隠蔽に等しい。

左派の「革新」思想は、現在のシステムの根本的な問題解決を求めるわけだが、そういった視点から見たとき、ボランティアという「弥縫策」は、根本的な問題の先延ばしに見える。つまり、左派にとっても、ボランティアは評判が悪い。
他方、右派にとって、その左派の振る舞いは、社会の「破壊」にしか見えない。絶えず、この社会の「敵」を見付け、この社会の美徳を「破壊」しようとする、秩序破壊者からの「保守」を訴える右派にとっても、上記にあるように、ボランティアという「左派の偽善」は、偽善ゆえに、
倫理
的に唾棄すべき、となる。

一方、右派にとって、左派のスタンスは、「社会的弱者」を盾に、社会の亀裂を過剰に言い立て解体に追いやる所作と映る。さらに、「弱者」と異なるポジションにいるにもかかわらず、その側に立って社会に敵対する自己欺瞞に満ちた立場でもある。例えば、社会批評家の宮台真司は次のように述べる。

じゃあ左はどうか。......不安に煽られて「断固」「決断」に吸収される「ヘタレ右翼」がいるのと同じで、不安に煽られて「救済の神学」にすがる、あるいは、左翼仲間であり続けるべく「弱者の味方」自己イメージにすがる、「ヘタレ左翼」がいるだけじゃないか。(宮台・北田 2005: 321)

日本のヘタレ左翼を見ると、ヘタレ右翼と同様、互いに交わされる言説は脆弱な実存の投射にしか見えません。「ドラえもん」に、ソレをかけると花も木も泣いているのが見えるという「ファンタグラス」というのがある(笑)。ヘタレ左翼が「ファンタグラス」をかけたがるのは、心地よいからです。(宮台・北田 2005: 200)

宮台はこのような「左翼」を、「偽善」でありそれゆえに「非倫理的」であるという。彼自身の政治的立場はここでは検討しないが、注目したいのは、この「左翼を忌避するポピュリズム」(小熊 2003)の典型的な「実存」語りの形式が、自らを非偽善=倫理的とする自己理解を伴っている点である。

しかし、どうだろう。
そろそろ、変だと思わないですかね。
いい加減、あきませんか?
というのは、そもそもこの「フレーム」そのものが、大きく変わってきている、ということが、さまざまに主張されるようになってきていることは、確かだからだ。

現在の多くのボランティア論は、日本におけるボランティア活動の実質的な歴史の始まり----ボランティア元年----を、阪神淡路大震災が起きた一九九五年に設定する。

ボランティアが阪神淡路大震災から変わった、とは、どういうことを言っているのだろう。その大きな一つは、言うまでもなく、NGOとなる。
前の記事では「思想地図」なる題名の本について書いたが、私が読んでいて気になったことは、
NGO
についての「思想地図」について、あまり興味の主題にはなっていないんだな、ということだった。
震災地域の「実際」の、住民へのサポートの活動を行っている人たちには、当然、村の役場の人もいるだろうし、警察、消防署などの公共サービスもあるだろう。しかし、おそらく近年において、その主体は、間違いなく、NGOという、それ以前にはほとんど聞き慣れていなかった集団が、活動していることは間違いないだろう。

結局一九九八年三月に、「特定非営利活動促進法」(いわゆるNPO法)という形で成立し、一二月一日施行と決定された(今田 1999: 101)。設立の要件は準則主義にはならず、形式上は所轄庁の認証を必要とする認証主義の形態がとられたが、実態は準則主義に近い運用を可能としたものだった。また、「公益性」を有することが法人格取得の要件となったが、「公益」の語を「不特定かつ多数のものの利益」とすることで、所轄庁が恣意的に特定の団体を排除できる余地を極小化した(富永 2007)。さらに、二〇〇一年には、税の優遇措置がある認定NPO法人制度が設けられる。NPO法人数は、順調に伸びており、一九九八年一二月一日から二〇一〇年五月三一日までの間に認証されたNPO法人数は四〇、一一二(うち解散が三、七四五)である。
この特定非営利活動法人の制度的系譜とは別に、既存の公益法人制度の改革も行われ、二〇〇六年に「公益法人制度改革三法案」が可決され、二〇〇八年一二月から施行された。これによって、「一般社団法人一般財団法人」になる場合は準則主義が適用され、設立時の財産保有規制も撤廃(社団法人)・緩和(財団法人)された。また「公益社団法人・公益財団法人」になるためには認定が必要だが、公益性の認定は、政府の恣意性に委ねられず、有識者からなる合議制の委員会(公益認定等委員会)によって行われるため、自立性を制度的に保証される余地は格段に広がった。

この驚くべきほどの、このNGOの「増加」は何を意味しているのだろうか。
日本における、このNGOの増大と時代背景が重なる事態こそ、
ネオリベラリズム
と呼ばれる、日本の小泉政権の時代であることは、大変に興味深い現象である。そもそも、NGOとは、以前は「国際貢献」に関係する組織を主に言っていたように思われる。大事なことは、日本の政府はお金も人もいないので、
世界中のあらゆること
に実態として、首をつっこむほどのリソースがないわけである。また、国民の厳しい目もあるので、安易に国民の税金を世界中に使えない。どうしても、国内向けの公共サービスに重点を置かざるをえない。
しかし、そうやって各国のナショナリズムが存在していようといまいと、どう考えても、国際社会で取り組まなければならない、各国の問題というものはあるわけである。例えば、ある国が貧しかったとする。そういった場合に、内政干渉だとか言って、その国への援助を行わなければ、単純にその国は飢えて、大量の死者が生まれるだけなわけだ。
つまり、だれがやるにせよ、結局は誰かが、彼らに援助をしないわけにはいかない。しかし、援助をするにしても、なにをやればいいのか、その国の現状はどうなっているのか、ボランティアの現場は、今どんな困難に直面しているのか。そういった「知識」がなければ、なにかをやりたくてもやれるわけがない。
ところが、国家は上記のような状況で、そもそも、国家のリソースをそそぎこむことの、「国民的なコンセンサス」を獲得するだけでも、相当のパワーが必要で、まず、ほとんど前に進まない。
こういった、ほとんど全ての先進国が直面するアポリアに対して、NGOは一つの解決として、普及してくる。
NGOを政府は、ある意味で、「認可」することで、そのNGOは、ある種の税制などの優遇を受ける。そうすることで、NGOは極端に儲け至上主義の動機から、多少は解放される。募金などに対する税制優遇は、彼らの経済基盤を助ける働きとなる。
じゃあ、政府は税金が少なくなって、損するばかりかというと、そうでもない。上記に書いたように、政府が「やりたくてもやれない」ことを、NGOは「自ら」率先してやってくれる。つまり、そう宣言することで、政府によって認可されているわけで、彼らは自分の「意志」によって、人助けを「企業という形態」で行動する。
つまり、NGOとは、こういった政府に協力的な側面をもつ、言わば、政府の機能を「補助」するような存在として、機能を始める。多くのNGOは、財政基盤だけでなく、人材のリソースも潤沢ではない。しかし、他方において、
属人的
な側面も強くあらわれる。非常に「優秀」な、「官僚的な」能力を備えた人材が、
在野
において、それぞれの「得意分野」において、情報を集め、現場をよく知り、
官僚以上に優秀な存在
として、さまざまな場面で、政府をサポートする。
この現象は、大変に興味深い様相を示していることが分かるだろう。本来は、ネオリベ的な「功利主義」が、こういったNGO的な存在を「歓迎」する形で、利用を始めていたことは強調しすぎてもしすぎ、ということはないだろう。
しかし、こういったものが拡大することは、日本の長きにわたる、不況、経済成長の停止状態と表裏の関係にもある。
上記において、日本のボランティアが阪神淡路大震災を境にして、まったく変わった、という考えを紹介したが、この阪神淡路大震災の特徴は、今回の東日本大震災と同様に、もはや、国内のローカルな事件ではなく、
国際的な「援助」の対象
だということなんですね。そういう意味では、国民全体の問題として、ナショナリズムに訴えるものがあったと同時に、これだけの大災害となると、世界中から援助の手が差し延べられるという意味で、まさに
NGO
的な役割が、本領を発揮する。そういう意味では、上記の「贈与のパラドックス」は、右派の側も左派の側も、この
大震災
という固有名を前にしては、パラドックスの解消の側面の方がめだつ。事実、今回の大震災への募金活動が、さまざまに見られ、多くのお金が集められたことは、間違いない。もちろん、NGOには、人手が足りない。だから、どうしてもボランティアが必要になる。
しかし、(この前も書いたように)、労働力をどこまで、「売買」関係といったような、
比喩
で考えるのかと考えるなら、むしろこのパラドックスパラドックスであるのは、その「労働力を売り買いする」という「比喩」の、自明性がどこまで疑われているのか、に由来すると言えるのかもしれない。
もっと言うなら、そもそも、震災の現場は、「人が足りない」のだろう。だとするなら、「どういう形」であれ、人が集まり、働いてくれることが、まず必要ということであって、人々は必要のある所に、自分を奉仕するという、
種としての人間
の当然の本能のように動いた、といったくらいの意味にとれるわけである。
ボランティアをNGOという存在から考えることにより、ボランティアに官僚的な専門知識を導入し、NGOという経済活動の地盤を提供することで、贈与の客観的な返礼の「圧力」を、「経済地盤」、つまり、報酬と結びつけることで、ボランティアをする他者の心理的な圧迫感をやわらげる。
それだけではない。NGOを設立するということは、「そういうことがやりたい」から、それを通して、飯も食べられて、やりたいことをやる、というわけで、ある意味では、「NGOをやっている人こそ幸せ」という側面を忘れてはならない。

サプライサイド派経済学者の一人であり、経済財政諮問会議間議員や政府税制調査会会長も務めた本間正明は、一九九〇年代を通じて、『フィラン・ソロピーの社会経済学』(一九九三年)、『ボランティア革命』(共編、一九九六年)、『コミュニティビジネスの時代----NPOが変える産業、社会、そして個人』(共著、二〇〇三年)なども積極的に著し、「参加型市民社会」の実効化に向けた発言を行ってきた。彼にとって「地方分権規制緩和とならんで非営利組織の制度改革は、戦後一貫して日本を特徴づけてきたこの官主導型の社会に対する真剣な問いかけ」(本間 1996: 3)である。
すでに、本章第三節(2)で確認したように、政府の社会保障の削減・抑制のもとで、「NPO・企業など多様な事業者の参入・競争等を通じた利用者の選択の拡大」(社会保障構造の在り方について考える有識者会議『二一生起に向けての社会保障』二〇〇〇年)が進められており、透明で健全なNPO組織の構築は、(準)市場を作動させるための必要条件であった。この中で<贈与的なもの>は、(準)市場が円滑に機能する上で、阻害要因となるとされる。前述の二〇〇一年の総合規制改革会議『総合規制改革会議「重点六分野に関する中間とりまとめ」について』では、規制改革=競争とイノベーションがあらゆる領域で重要とされる一方、社会福祉に見られる「善意」は「非収益」であり、これが規制や官業構造の温床となったと厳しく批判される。その上で、契約制度への移行によって、「善意・博愛事業という恩恵的な考えから脱することができた」とされている。
つまり、ここでは、ミクロなライフ・ポリティックスとネオリベラリズムとが、介入する国家、および、善意=<贈与>意思の否定という点で、同じ意味論的形式を有することになる。この両者の邂逅を象徴的に示しているのが、一九九八年に行われた宝塚NPOセンターでの講演であった。ここでは、本間正明上野千鶴子が共に演壇に立っている。上野は次のように、<交換>のレトリック(=自分のため)によって、<贈与のパラドックス>を解決せよと述べる。

でも、たった今言ったことと矛盾するかもしれないけれども、なぜボランティアをやるか----それは自分のためと心得よ、ということです。ボランティアは誰のため? 世のため、人のため......違います。あんたのやっていることなんて、しょせん自己満足やないか。そう言われたってひるむことはありません。それでええやないですか。その通りです、どこが悪い、と言えばいいんです。さきほど本間先生も同じことをおっしゃいました。モノのわかった人って、同じことを言うんですね(笑)。

ラディカルなフェミニストであり、「当事者主権」の観点から、<贈与>の抑圧性を告発し続けてきた上野と、ネオリベラリズム経済学者の調和に満ちた邂逅----これは<交換>の意味論(自分のためと心得よ)の広大さと強度を物語っている。

もしNGOに、なんらかの欠点があるとするなら、なんだろう。しいて言えば、優秀な学生の大企業によるリクルートは、こういったNGOとの競争にさらされ、ますます、厳しくなる、といったところだろうか(もしかしたら、日本の不況の原因の一つなのかもしれない。たとえそうだったとしても、私は今まで以上の
日本のNGO化
は一つの日本の進むべき方向だと思っているが)。
こういったNGO推進が、一方においてネオリベ的でありつつ、他方において「新しい公共」のような、国民主権(当事者主権)の拡大の方向は、非常に弁証法的な発展の方向を思わせる。ボランティアの偽善と露悪の「中間」として、こういった存在が要請され生まれてくる。
言論はこういったアウフヘーベン言語化しうる、より「中間」的な概念が求められているように思われる。私たちには、この「今」を説明する(左翼や右翼の分類を超えた)より強力なイデオロギー的枠組みの発明が、現実の実践の進展と共に要請されているのだろう...。

「ボランティア」の誕生と終焉 ?〈贈与のパラドックス〉の知識社会学?

「ボランティア」の誕生と終焉 ?〈贈与のパラドックス〉の知識社会学?