ゴードン・ベル『ライフログのすすめ』

ライフログという考えについて、真剣に考えたことがある人はどれくらいいるだろうか。
人間には感覚といわれる器官がある。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。もちろん、人間の体内においては、そういったものとは一見無関係に、言わば、自律的に活動している器官が存在している。心臓がもし、人間の意志で止められたら大変だが、逆に言うと、人間の意志によってコントロールしていない人間の内部の運動があると言うことは、ちょっと不思議な気持ちにならなくもない。
私たちにとって、ちょっと気になることは、こういったものが、もし
生まれてから死ぬまで「記録・保存」される
とするなら、そういったことがなにをもたらし、なにを意味していくのか、といったことであろう。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。それ以外の、体内のさまざまな変化も、
記録
することで、自分の健康情報の調査に大きな証拠能力を備えていくのかもしれない。もちろんこういったことは、それがどれだけ一般的になるのか、という話であって、遠い未来においては、あらゆることは小型になって、当たり前のことになるとしても、これが今すぐにだれもが、このレベルの記録を行うということは、常識的には考えられないだろう。
しかし、例えば、著者は以下のような、かなり「ちょっとしたこと」でも、かなりのことが実現できてしまうことを示唆する。

そんな折、英国ケンブリッジにあるマイクロソフト研究所の同僚、リンゼイ・ウィリアムからかなりおもしろい物をもらった。名はセンスカム。たばこ箱大のセンスカムを首からさげておくと、魚眼レンズに写った物を自動的に撮影してくれる。光量の変化を感知して、人が部屋から出ていったとか、位置を変えたと判断すると写真を撮る。パッシブ赤外線センサーが人の体温を感知すると、視界に入ってきた人を片端から写真に収める。加速度計は、ブレを防いで写真を撮るタイミングをセンスカムに知らせてくれる。もちろん、任せておくだけではなく、自分から好きなときに写真を撮ることもできる。
リンゼイは以前、センスカムを開発した理由の一つが、メガネをどこにおいたかわからなくなったときに使おうと思ったからだと教えてくれた。センスカムの画像を調べることで、最後にメガネを外した場所がわかるというわけだ。
センスカムは人生を豊かにしてくれる。この一例として僕が気に入っているのは、アイルランドのダブリン私立大学で講師をしているカハル・ガリンの話だ。カハルは一年間にわたり、起きている間ずっとセンスカムをつけるという実験をはじめた。一年が過ぎ、みんなはカハルがセンスカムに喜んで別れを告げるだろうと思っていた。ところが、カハルはセンスカムを返すどころか、二〇〇六年から毎日センスカムを身につけている。この本を執筆している時点で、センスカムとのつきあいは約三年におよび、撮影された写真の枚数は三〇〇万枚以上。卓上のデジタルフォトアルバムにお気に入りの写真を入れて、次から次へと流している。その熱意ときたら、赤ちゃんの写真を見せびらかす新米パパのようだ。「見ろよ。これがはじめて彼女に出会ったときの写真さ。このときはつき合うようになるなんて思ってもみなかったよ」といった具合だ。
センスカムで撮った画像を一日とか一週間単位で早回しで再生してみるとおもしろい。せいぜい数分しかかからない。生涯の思い出が走馬灯のように浮かぶとは、まさにこのことだ! こんなふうに人生を早送りで見るなんて何とも不思議な感じがする。
僕はセンスカムとGPSを一緒に持ち歩いて楽しんだ。途中で撮った写真を地図の画像上に表示して、後日、旅の話ができる。一番のお気に入りは、オーストラリアのグレートオーシャンロードと熱帯雨林のツリートップウォーク(大樹の上に渡した歩道を歩くツアー)の八時間の旅だ。
僕のセンスカムはパーティーやランチ、展示会など、特別な瞬間をたくさんとらえてきた。二〇〇七年に心臓のバイパス手術で入院したときの写真もある。僕が手術室に入っている間は、妻のシェリダンがカメラをぶら下げていた。

これってつまり、カメラを首からぶらさげて、30秒間隔くらいで自動撮影を続けたらどうなるか、ってことで、こういったことをあまり他人にも邪魔くさくなくできるなら(セキュリティの厳しい所に入る場合は別だが)、やれなくはないとは思うだろう。
遠い未来を考えるなら、こういった技術の普及は予想はできる。
人間はある意味、忘れることで
正気
を保っているところもある。他人にひどいことをやっても、やった本人はそれを忘れる。そのことで、自分を「良い人」というイメージを保つ。自分がそうでないことは、
ライフログ
を見ればいくらでも「証明」できる。しかし、ライフログは、ある意味、恣意的である。嫌な情報は「封印」すればいいからだ。気に入らなければ、二度と「自分が」目に触れないように、鍵をかけておけばいいのだろう。そうすれば、自然と自分がそこに鍵をかけたことも忘れるのかもしれない。
ただ、素朴に思うということで言わせてもらうなら、その「利便性」の議論には、少しも新しさを感じないわけである。
今までであっても、例えば、子供が学校に行って授業を聞く。しかし、人間ですから、まあ、ほとんど忘れるでしょう。そして、テスト前になって、一夜漬けとかいって、朝方近くまで、眠いのを我慢して、勉強してテストに挑む。当然、覚えてないんですから、テストの点数は悪い。
でも、成績の優秀な子供は、覚えなければならないことを、いろいろ復習しているのでしょう。いろいろな場面で、ノートを読み返したり、教科書のいろいろな個所について思ったことを、家に帰って、兄弟や親と、やんややんやと話していたら、けっこう、忘れずに頭に残るんじゃないかと思うわけだ。
でも、こういうのって、ようするに、「ライフログ」をうまく利用している、とも言えないだろうか。そもそも、今聞いたことをその場で咀嚼して、忘れなくなるって、そんなことそう簡単には起きないものだろう(そういった比較的に特異な能力もあるのだろうが)。興味がなければ、「上の空」で聞くだろうから、そもそも「覚えていない」んじゃなくて、半分以上は「聞いてない」わけだ。その中のいくつかのキーワードを心にとめているくらいで、まあ、それ以前に自分が知らない漢字を使われたら、ほとんど文章なんて意味をもって理解できないでしょう。そういった、意味から離れて文章を記憶しているって、そう簡単に人間ができることではないでしょうしね。
つまり、頭のいい子供、いい大学に進学したような子供は、少なからず、そういったライフログ的なことをやってきたのだろう、ということは予想できるわけです。
だから、ライフログ的なことは、今までにおいても、頭のいい子供や、いいところのお金のある家庭では普通にやられてきたんじゃないか、という印象がある。もちろん、これからのIT化のさらなる発展によって、より昔のことを思い出すという行為が、こういった電子化された記録の「検索」によって、より「思い出しやすくなる」のかもしれない。そのことは、私たちの生活を便利にするように思えるかもしれない。
しかし、もしそうなったらなったで、例えば、学校における、学力競争はよりハイレベルなところで激化するかもしれないし、警察などの犯罪立証能力が上り、ちょっとした軽犯罪でも、ことごとく100%、立件するなんてことにもなるかもしれないわけで、つまりは、そういった時代にはそういった時代の悩みがなくなることはないんだろうな、ということだ。
もし、この議論になんらかの「新しさ」があるとするならそれは、こういった情報を
すべて集めて
ある人たちがそれを使い始めたときのことだろう。もちろんこれらの多くは、ただの個人の思い出でしかなく、どうでもいいものだが、こういった膨大な
母集団
には、統計的な情報(つまり、規範)を生み出す可能性がある。
私たち個々人が、世界中の人を「分かる」ことはできない。そもそも、人それぞれの個人的な部分を完全には分かれない。つまり、ある個人について「かなり」分かったとしても、それは完全ではないし、ましてや、そのことが、「世界中の人」を分かったこを少しも意味しない。
ところが、一般にルールというものが生まれているし、存在する。ということは、ある種の合意の形成が存在しうるのかもしれない、と思うことはできる。
このことを、ある「規範」を「生み出す」ことと同値と考えてみる方法はありうる。たとえば、iPhone が世界中で売れる。すると、あの動きやインターフェースが「規範」になるわけである。これが全てのはずはないのだけど、これが全ての「規範」と言っていいんじゃないか、という雰囲気になる。
つまり、あらゆうことは、グローバルスタンダードな「プロトコル」を決めることができるところが、あらゆる利益の元締めになるようなところがあって、ルールを決められるところを押えているところが、つまりは、世界中を支配していると言ってもいい、という感じになる。
このように考えたとき、今のグローバルスタンダードなルールをどこか作っているのかと考えれば、間違いなく、それだけの
情報
を実際に自分のサーバーに蓄えて、提供できている所ということで、グーグルはその一つとなっていく未来が予想できるだろう。つまり、それだけの情報を実際に持っているところが、ここしかないのだろうし、これだけの情報を運用できる大量かつ巨大なサーバをもっているのがここだけなら、そうなるのだろう。
そして、それだけの能力をここしかもっていないなら、つまりは、ここが決めたことが世界のルールになる、ということを意味していくのだろう。
そういった膨大な情報には、ある統計的な真実を生み出すわけで、つまりそれが、グローバルなルールということになる。
近年話題になっていたことは、ツイッターのようなものを、各個人のライフログとして考えることであったはずだ。ネット上で「公開」するかしないかとか、匿名か実名か、なんてことはどうでもよく、ともかくも、
公共
の場所(つまり、クラウド)に、各個人のライフログを置く。すると、だれでも考えることは、それを他人が「利用」する、というケースだったはずだ。
こういったところから、東さんはこれを、政府がさまざまな政策決定に
利用
するという未来を考えたと同時に、このことを逆に読んで、これを国民の
政治参加
と考えたわけだ。つまりは、各個人が、各個人の快や不快の感情を、
全て
ライフログとして吐き出す。そしてその各個人のそれ「全て」集めたものを政策決定側は、「統計的手法」によって、解析していくことで、
自動的
に政策を導きだしていく、と。
(こういった考えでいくなら、むしろ、各個人は自らの「差別感情」を、差別ゆえにライフログ化しないことは、政策の「偽善」性を高めるだけで、本来的な「本音」の政治を実現できない、と言えなくもないだろう。むしろ、各個人は各個人の欲望のおもむくまま、ライフログを吐き出すことで、より実態に近い
一般意志
になる、と。つまり、こういった方向で考えるなら、「無いものねだり」をもっと吐露すべき、となるだろう。なかなか難しい話だが...。)
こういった議論は、今週の videonews.com のソマリアの話とも関係していて、大変におもしろい。萱野さんは、近代とは
脱人格化
のことだ、と言う。つまり、国家機構がどこまで、属人的な性格を脱皮できるか、と。そうすることができるということは、つまりは、政策というものは、なくなる、ということと区別がつかなくなる。
しかしそうなると、例えば、原発政策のように、一度、一つの方向に向かってしまうと、もう誰にもその方向を変えることができなくなる。さまざまな、地方も含めた「利権」の構造が、がっちりできてしまい、なにかを政治家が志しても、次から次から、邪魔が入って、そういった志をつぶしていく。
他方において、ソマリアは国家の「統合」に失敗し続けている、と言える。各部族がどこまでも細かく分かれ、少しも統合されない。各部族はそれぞれに、海外との資金源のパイプを持ち、むしろ統合することは、自らの利益を失うことと同値の意味をもってしまい、たとえば、今のように、国内に多くの難民が生まれていようが、今の方が「自分たち」の利権を維持するには
有利
と考える(つまり、国家による「統合」を信じていないのだ。番組でもシアドバーレ政権の話をしているが、国家が形成されたときにリーダーが。自分の属する部族を徹底して贔屓したら、どうして近代国家の程をなすだろうか...)。もともと欧米列強によって国境を人工的に引かれ、この国境の
内と外
という感覚を持った「ことがない」、ソマリアの人々にとって、私たちがイメージするヨーロッパ思想史的な近代国家形成の弁証法をたどっていない。しかし、これを近代「ではない」と言うことも、どこか正しくない(実際に、近代的な産物である、植民地主義が、こういった事態を規定している、とも言えるわけだから)。
私が言いたかったことは、あるグローバルスタンダードを、だれかが最初に「規定」する。そしてそれは、膨大な情報を押えているところが、統計的な正当性を与えていくことによって、
規範
を民主主義的な「説得」としていく。つまり、これが官僚的な「正当性」のロジックだとするなら、そういった「多数」にまぎれる少数(いや、むしろ、例えばアフリカのような「外側」)の、固有性をこういったシステムが「担保」できなければ、そもそも、こういったシステムへの「信頼」を獲得できない、という問題がいつまでも続くだろう、ということなのだが...。
この問題こそ、日本の原発政策のみじめな結末であり、今後の日本(の原発推進を止められないのだろうといったように)暗く予想させていると言える。一つだけ間違いないことは、私たちはこの、日本の原発政策が生みだした「醜い」結末、福島第一のあの惨状への、くやしさ、や、悲しさ、苦しさ。その、
悔恨
の感情を、つぶやき続ける、ということなのだろう(それだけは、「だれでも」できるし、「だれにも」止められないわけで...)。それが素直な感情なら(それは、悲劇の共有なのだろうし)...。

ライフログのすすめ―人生の「すべて」をデジタルに記録する! (ハヤカワ新書juice)

ライフログのすすめ―人生の「すべて」をデジタルに記録する! (ハヤカワ新書juice)