トーマス・フリードマン『フラット化する世界』

なぜ、戦後の日本は先進国になれたのか。それは、戦後すぐから始まる冷戦体制による、偶然だったのだろうか。日本の戦後の復興とは、アメリカへの工業製品輸出によるものだったと言えるだろうか。その場合には、なにが成功の鍵を握るだろう。

  • 日本からアメリカに持って行った商品が、比較優位性があり、売れること。輸出で税金がかからないなど。
  • 日本で作る商品をアメリカで売ることで、ちゃんと儲けが生まれること。
  • 日本製品が、ちゃんとアメリカで、「意味」を理解されうるようにすること(つまり、その商品が「日本語」で作られているなら、「海賊版」となるわけで、そういったものでは現地のよほどの日本マニアでなければ、わざわざ買おうとは思わないだろう)。
  • そもそも、日本製品を、アメリカに持って行けること。

では、どのような条件が存在するなら、このことは実現できるだろう。

  • 日本で安く商品を作れること。つまり、日本の労働力が安く(物価や公共料金が安く福祉がない)、過剰かつ不当な労働をとり締まる法律がないこと。
  • 日本国民には半強制的に国に圧力をかけて、買わせることで、アメリカでは、儲けがほとんど出なくても、日本国民に買わせた代金で埋め合わせられる。
  • マニュアルを英語の分かる社員に書かせる。

ということは、どういうことなのだろうか。
上記の項目について、日本を「さらに上回る」国が出てくれば、日本の今までの、アメリカに対しての「比較優位」は、その「日本を上回った」国に、自分たちのステータスを「奪われる」ことを意味するだろう。
日本など比べものにならないくらいに、国民は貧乏なのだが、教育水準が高く、優秀な国民で、勉強熱心でハングリー精神がある。労働条件は悪くても、給料は安くても、みんな文句言わずに、もくもくと一生懸命に働く。つまり、給料が安くても、物価がそれ以上に安いので、そこそこの生活ができる。どんなに労働条件が悪くても、そのための法の整備が間に合ってないから、文句を言えない。

  • 先進国(個人への福祉が高額、物価が高額、税金が高額) - 後進国(個人への福祉が低額、物価が低額、税金が低額)

もしも、こういった「安い」労働力を、「先進国のエリート並み」に使えたら、どれだけ儲かるだろう。先進国の一人あたりの賃金の、おそよ、10分の1だとするなら、先進国の一人を「解雇」すると、後進国の10人も雇えちゃう。つまり、単純計算で、10倍の仕事が、これだけで確保できる。
つまり、日本の企業がやるべきこととは、
日本の労働者
をどうやって解雇するかだったりするのかもしれない。そもそもなぜ、先進国の労働者は、発展途上国の労働者に比べて人件費が高いのか、と問わなければならないのだろう。
では、なぜ「当時」の日本はあれほどの「比較優位」を保てたのだろうか。

  • 冷戦構造から、共産圏には、資本主義圏に対しての競争力がなかった。
  • 貧困国は、そういった冷戦のあおりもあり、国内の政情が不安定であった。
  • 日本は「戦前の敵国」だった関係もあり(特にアメリカにとってそうだった)、日本国内が戦後において、戦場になることはなかった。
  • 発展途上国における「植民地」は、戦後ゆっくりと解決されてきたレベルで近年になるまでは、おおむね「植民地」的な状態だった。

しかし、どうだろう。こういった条件は、言わば、21世紀には「ほぼ」解決されているわけで、ますます日本の特異性を見つけることは難しい。しまいには、日本人の勤勉性だとか、和(協調性)の勝利だとか、ほとんど理由になっていない理由にすがることになる。
逆に、なぜ、日本の特権的な条件は、ここまで急激に「なくなった」のかと問うてみよう。

  • ようするに日本は、「先進国」になってしまった。つまり、国としては豊かになってしまった(国民一人一人は別だが)。
  • 物流の発展により、多くのモノを運ぶことに、あまり地理的な距離の差がディスアドバンテージにならなくなっていった。
  • 通信ネットワークの発展により、瞬時の意志疎通に、あまり地理的な距離の差がディスアドバンテージにならなくなっていった。
  • マニュアルレベルの言語的サービスなら、自動翻訳サイトなどで代替できるくらいになり、より「高次」な言語コミュニケーションに勝負の舞台が移ってきた。

たとえば、掲題の著者は、世界が「フラット」になっている「証明」として、本の最初にもってくる話は、「インド」である(というか、インドの話しか書いてない)。しかし、なぜ「インド」なのか、と問うてみると、その深い意味が分かってこないだろうか。

「いいところを衝いていますね」ラオはいった。「その点については正直にならないといけません。われわれは大きな科学技術の変化のさなかにいる。[アメリカのように]そうした変化の最先端の社会に暮らしている場合、予測が難しい。インドのような国では、それが容易なんです。一〇年後には、アメリカでいまやっているようなことの大半を、われわれがやっているでしょう。われわれは未来を予測できる。でも、あなたがたのあとを追いかけている。未来を形作るのはあなたがたなんです。アメリカはつねに、新しい創造的な波の最先端に乗っている.......そんなわけですから、そういう平凡な会計士の目をまっすぐに見て、これからこうなるときっぱりいうのは難しい。軽視してはいけないと思いますよ。そういったことには対処するしかないし、直視するしかないんです......バリューチェーン(価値連鎖)をデジタル化でき、切り分けることができ、作業をよそふぇ行なえるような活動は、いずれよそへ移されます。『しかし、きみたちは私にステーキを出してくれることはできないだろう』と誰かがいうかもしれません。事実ですが、世界のどこのレストランのテーブルでも予約できますよ。そこにオペレーターがいないかぎり。『ええ、フリードマンさん、窓ぎわのテーブルをおとりできます』といえます。いい換えるなら外食という事柄そのものを切り分けて、一部をアウトソーシングするわけです。基礎的な経済学の教科書をあらためて読んでみると、こう書いてあるはずです。『商品は交易によって動かされるが、サービスは一カ所で生産されて消費される』散髪(ヘアカット)は輸出できません。でも、予約をとることで、そのサービスの一翼を担うことはできる。どういうヘアカットがお望みですか? どちらのお店ですか? こうしたことを、遠いコールセンターで処理できます」

つまり、そもそもインドの人々は、アメリカに「移民」する必要がない。むしろ、アメリカの人の方がインドに仕事をもって来てくれる。へたにアメリカなんぞに移民した日には、仕事がないくせに、やたらと生活費がかかってむしろ大変、となりかねない。
しかし、ここで多くの人が思うだろうことは、この著者の議論の進め方の「戦略」だろう。そもそも、インドをこの「フラット」化の「例」として使われていることは、なんとも皮肉としか思えない。

面接はこんな感じだ。
採用担当1「どんな仕事を探しているの?」
学生1「会計関係希望です。それに、成長できるところが。仕事の面で成長したいので」
採用担当1「話をするときは、もっと自信たっぷりでないとだめよ。あなたは落ち着きがないわ。そのあたりをもっと努力してから、もう一度応募なさい」
別の学生を面接している採用担当2「自分のことを話してごらんなさい」
学生2「SSCを優等で通りました。セカンドPも優等でう(アメリカのGPA[学業平均]やSAT[大学進学適正テスト]に相当するもの)。この二年間、上位七〇パーセントを維持しています」
採用担当2「もっとゆっくるしゃべりなさい。落ち着いて。あせらないで」
コールセンターに採用された者は、有給の社員教育を受ける。会社によって電話を受けたりかけたりする手順が違うので、まずそれを身につけ、次に「アクセント矯正クラス」の授業を受ける。語学教師が一日がかりで教え、新入社員の強いインドなまりの英語を矯正して、アメリカ、カナダ、イギリスの英語らしく聞こえるようにする。どこの英語にするかは、どの国の電話を受けるかによって違う。

インドがアメリカにとってアウトソーシングの拠点となることは、言わば「当然」と言いたくなる。長きにわたるイギリスの植民地として存在してきたわけで、英語を普通に話す人は多いだろう。
重要なことは、圧倒的に多数の「学歴のない」人たちも、「ネイティブな」英語を話せるだろう、というアドバンテージで、そういう意味では、英語を母国語としている国同士を、「国境」で分けることに
意味はない
というふうに問題を設定すべきなんじゃないだろうか。そもそも、インドは
文明国
じゃないか。このような伝統ある国(そもそも、欧米はインド起源の文明じゃないか。文字から数学から哲学から、なにから)の人々が普通に教育を始めれば、そりゃあ、あっという間に「優秀な労働者」になることは、過去の文明が証明している。
同じことは、中国にも言えるだろう。中国だって、ぶ厚い教育が
伝統的
に存在する。というか、日本の労働者と中国の労働者の比較で言うなら、日本の漢字とは中国起源であり、日本人が書いている文字を彼らが見れば、どんなに「ひらがな」がよく分からなくとも、
だいたい意味が分かる
ことは、大きなアドバンテージだったはずだ(大事なことは、こういったことが「インテリ」だけができる、ということではない、ということだ。文字が読める中国人は、ほとんど全てそうだ、ということで、こういった大衆的な部分の意義は大きい)。たったこれだけのことでも、他の地域の労働者よりも有利となっただろう。
そもそも、共産圏とは、非常に「平等」な国民教育制度をもっていたわけで、そういった労働者が「優秀」でないわけがない。冷戦の垣根がなくなったら、共産圏の労働者が優秀で、資本主義圏の労働者が割を食うって、だって、そんだけの教育を資本主義圏の国々はやってないんじゃないですかね。そういった
公共サービス
にお金をかける「動機」をもたない、資本主義圏が当分の間、彼らに仕事を奪われることは目に見えていたんじゃないですかね。
しかし、どうだろう。
正直言って、こういったことは予想できたんじゃないだろうか。日本のアドバンテージがいつまでも続くと思っていた人は少ないんじゃないだろうか。いつかは、周辺国に日本は追い付かれると、あのバブルの頃だって、多くの人たちは思っていたんじゃないだろうか。
なにかを「日本人じゃなければできない」ことって、そもそも存在するのか? つまり、日本人じゃなければできないわけではない、ってことは、普通に考えれば、人件費の安い日本人じゃない人にやってもらえば、
儲かる
ということを意味するだろう。
というか、なんというか、こういうことって少しも新しいことを言っているように思えないんですよね。これって、昔からある議論、つまり、
貧富の差はどこまでも広がる
っていう、実に、普通にマルクス資本論で言ってることでしょう? なにが新しいんだろう?

大規模な整理のことを考えはじめたのは、ハーバード大学の著名な政治哲学者マイケル・J・サンデルと話をした直後だった。私が説明しているフラット化プロセスに似たようなことを、一八四八年の『共産党宣言』でカール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルスが最初に指摘しているとサンデルがいい放ったので、私はいささかびっくりした。私たちが目の当たりにしている今日の世界の縮小とフラット化は、マルクスが当時目撃したものとは程度が違うが、資本主義に関してマルクスが著作で力説している歴史の潮流p----科学技術と資本は、世界貿易を阻むあらゆる垣根や境界線や摩擦や抑制を排除しようと飽くなき進軍を続ける、という理論----と同じだと、サンデルは告げた。
マルクスは、世界が入り組んだ国境などない一つのグローバルな市場になるかもしれないと見た最初の一人だ」サンデルは説明した。「マルクスは資本主義を辛辣に批判する一方で、垣根を壊して世界的規模の生産体制と消費システムを作り出す資本主義の力に畏敬の念を抱いていた。資本主義は封建的・国家的・宗教的帰属意識をすべて解体する力であり、市場の必要性に律される世界共通の文明の勃興をもたらす、と『共産党宣言』に記している。資本が支配的な力を持つのは不可避であると考えていた----不可避でなおかつ望ましい、と。資本主義が国家的・宗教的中世をすべて破壊したなら、資本と労働のあいだに熾烈な闘争が赤裸々になる、と見ていたからだ。徹底したグローバルな競争を強いられた労働者は、抑圧にとどめを刺そうと、一致団結してグローバルな革命を起こそうとする。愛国心や宗教のような、なだめすかしてごまかす手段がなくなると、労働者は搾取されていることに気づいて、それを終焉させるために蜂起する、というのがマルクスの考えだった」
いま『共産党宣言』を読むと、産業革命中に世界をフラット化した力を、マルクスが明敏に指摘し、なおかつその力が現在に至るまで世界をフラット化する流れを予測していたことがわかり、畏敬の念にとらわれる。『共産党宣言』の重要な段階に、マルクスエンゲルスは次のように書いている。

昔ながらの古めかしい固定観念や意見を拠りどころにしている一定不変の凍りついた関係は一掃され、新たに形作られる物もすべて固まる前に時代遅れになる。固体は溶けて消滅し、神聖は汚され、人間はついに、人生や他者との関係の実相を、理性的な五感で受け止めざるをえなくなる。生産物を売るための市場をたえず拡大する必要に迫られて、ブルジョアは地球上をせわしなく駆けめぐる。あらゆる場所で家庭を作り、定住し、つながりを結ぶ。ブルジョアの世界市場開拓によって、生産物と各国での消費には、全世界共通の特徴が備わる。反動主義者は無念だろうが、それは、産業の拠って立つ国家の基盤から生じたものである。古くから確立していたその国に固有の産業は、とうに滅ぼされたか、あるいは徐々に滅ぼされようとしている。そうした産業を駆逐した新しい産業の導入が、すべての文明国の死活を左右する。新しい産業では、国産の原料ではなく、遠隔地の原料を加工する。生産物は国内で消費されるのではなく、地球のあらゆる場所で消費される。昔はさまざまな欲求を国内生産だけで満たしていたが、いまは遠い国や地方の生産物によって欲求を満たすことが求められる。かつては地方や国が閉じこもって自給自足していたが、いまはあらゆる方面と交流し、世界各国が相互に依存している。物質ばかりではなく、知的生産物の面でも同じである。一つの国の知的創造が、共通の財産になる。国家が偏向したり知的生産物の面でも同じである。一つの国の知的創造が、共通の財産になる。国家が偏向したり知的生産物の面でも同じである。一つの国の知的創造が、共通の財産になる。国家が偏向したり狭い考えを持つことは、いよいよ難しくなり、無数の国や地方の文芸から、一つの世界文芸が生まれる。
生産のためのあらゆる道具が急激に改良され、交通手段が飛躍的に便利になると、ブルジョアはきわめて未開に近い国までひっくるめて、あらゆる国を文明社会に取り込もうとする。外国人を毛嫌いしている非文明人すら降伏するだろう。絶滅を避けようとするなら、どの国もブルジョアの生産方式に合わざるをえない。いわゆる文明を取り込むことを余儀なくされる。つまり、自分たちもブルジョアにならざるをえない。ひとことでいうなら、ブルジョアは世界を自分の姿そのままに作り変える。

マルクスがこれを一八四八年に上梓したとは、とても信じられない。『共産党宣言』を引用しながら、サンデルは私にこういった。「あなたの理論はこれとよく似ている。ITの発展が市場とビジネス業務の非効率と摩擦を減らすのに役立つと、あなたは主張している。それがあなたのいう『フラット化』でしょうね。だが、フラットで摩擦のない世界には、長所も短所もある。お説のとおり、グローバルなビジネスにとってはいいかもしれない。あるいは、マルクスが信じていたように、プロレタリア革命の明るい前兆なのかもしれない。しかし、われわれに立場や居場所をあたえてくれるような特定の場所やコミュニティにとっては脅威となるかもしれない。資本主義が活発になりはじめてからずっと、人々は世界が非の打ちどころのない市場になるかもしれないと空想してきた----保護主義の圧力、異なる法制度、文化や言語の違い、イデオロギーの不一致に妨げられないような市場を夢見ていた。しかし、そんな未来像は、いつだって現実の世界と激突するはめになった----そこには摩擦や非効率の源が無数にある。摩擦のないグローバル市場への障害物のなかには、ほんとうに無駄とビジネスチャンス喪失の原因になっているものもある。しかし、社会的な結びつき、信仰、民族としての誇りなど、市場とは無関係な価値観をもたらしてくれるゆえに大切にされている社会制度や慣わしや文化や伝統が、非効率そのものである場合もある。グローバルな市場と新しいコミュニケーション・テクノロジーがこうした差異までフラット化したら、重要な物事が失われるおそれがある。だからこそ、資本主義に関する議論では、無駄と非効率の根源である摩擦や障壁や境界線に加え、守らなければならないアイデンティティと属性が、つねに中心の話題だった。新しいコミュニケーション・テクノロジーは、電報からインターネットに至るまで、いずれも人間同士の距離を縮め、情報へのアクセスをひろげ、効率的で摩擦のない完璧な世界市場という夢により近づくことを保証してきた。そして、そのたびに切実な疑問が社会に投げかけられる。われわれはどこまで傍観し、”計画に同調し”、非効率を締め出せばよいのか? グローバル市場に供給できない価値観を守るために、どこまで流れに逆らえばよいのか? 摩擦の原因のなかには、それらをフラット化しようとするグローバルな経済に逆行しても守らなければならないものがあるはずだ」
摩擦の最大の原因は、当然ながら明確に定められた国境と法を備えた国家だ。近代主権国家は、われわれの生活全般を秩序だったものにする壁と屋根と床を提供するのが、昔からの流れだった。フラットな世界では、国境という摩擦の要因は、残したほうがよいのだろうか? そもそも残すのは可能だろうか? 情報や資本や知的財産の自由な流れを阻む、著作権、労働者保護、最低賃金といった法的な障壁はどうか? 三重の集束の結果、フラット化の力が摩擦や障壁を減らせば減らすほど、近代国家、特定の文化、価値観、民族のアイデンティティ、民主主義の風習、労働者とコミュニティに対して歴史的に保護と緩衝の役割を果たしてきた抑揚のくびきは、ますます厳しい課題を突きつけられることになる。私たち全員がもっと楽に共同作業ができるようにするには、どれを残し、どれを消滅させればよいのだろうか?

たとえば、iPhone は、各パーツ、その組み立て、その
すべて
を「世界中」の企業に競争をさせている。アップルは、ある種のデザインを方向付けているだけのようにさえ見える。しかし、ということは、各パーツは、
グローバル競争
に一歩でも前に出た部品が採用され、全部の iPhone が売れることでの儲けをかっさらって行くということになるだろう。ところが、各企業は熾烈な競争があるから、全然高く売れない。高く売ろうとしても、競合他社はもっと安くしてくるんだから、競争に負けてしまう。
つまり、製造業は、根源的に
儲からない
ということを意味しないか。いや。こういった問いは正しいのだろうか。
私には、こういった問題は、なぜ多くの人たちが「マルクスのテキスト」を読まないのだろうか、と関係しているように思える。
たとえば、インターネットを見ていて、すぐ気付くことは、各サービスを行っている会社が
どこの国にリアルに存在するか
によって、各サイトが縛られている法律が違う、という異様さだろう。日本では違法とされている、アダルトコンテンツにおける、局部の映像はモザイク処理がされているが、ところがそれが、アメリカのサイトが発信源というだけで、たとえそれが
日本から見えても
追求されていない実態は、なんなのだろうか(おそらくこういった例は、笑っちゃうくらいにたくさんあるはずだ)。つまり、このネットの空間がどうあるべきなのか、が各国の法と整合的になっていない。どう考えても、iPhone独占禁止法に触れそうに思うのだが、これだけ世界中で売れると、
どこの国の法律
で、とりしまるのか。ようするに、世界中のあらゆることは、数えるほどの、巨大グローバル企業によって、提供されるようになり、日本国内に
仕事

企業
もなくなる未来図が予想される。すべてのサービスは、日本の外にある、グローバル企業が、その豊富な資金を使って提供するようになる。国内という「ローカル」はグローバル「でない」というその一点によって、競争に負けるのなら、こういった未来は必然となるだろう。しかし、私たちはそんなセカイに生きたいだろうか。しかし、そういった世界を拒否したとして、どういった抵抗運動ができるのだろう(少なくとも「グローバル」な連帯なくして、力強い動きにはなりえないだろう...)。
私たちは、どういったセカイを目指しているのか。それを実現するために、どういった行動をするのか。著者の言う「フラット」化に賛成するにしても反対するにしても、せめてマルクスのテキストを読んで、その
延長
で自らの描く理想世界を語ってもらいたいものだ...。

フラット化する世界〔普及版〕上

フラット化する世界〔普及版〕上