仲正昌樹『いまこそハイエクに学べ』

ハイエクといえば、保守派の御本尊のような扱いで、ミルトン・フリードマンのネタ元みたいなイメージだが、実際のハイエクが何を言っていたのかを、彼の全集「全体」から見えてくるような、その主張の全貌をあぶりだしていくのが、掲題の本であるようだ。
ただ読んでみた限りでは、あまり「積極的」なことを言ってないってことなんですよね。首尾一貫して、抽象的な範囲で議論をしているから、なんとでも読む側の都合で読めてしまう。つまり、一般論なんでしょう。そういう意味では、冷戦時代の産物と言いたくもなる。

ハイエクの言う「集産主義」とは、「自生=自発的 spontaneous」な諸力から成る非人格的で匿名のシステムとしての市場を廃し、社会に存在する様々な力を「意識的 conscious」に管理・組織しようとする考え方である。「市場」を重視する「自由主義」とは、基本的に相容れない。

つまり、社会主義のときに言われた、計画経済を否定するものだと。そういう意味では、ナチスだろうとなんだろうと、集産主義的なわけで、なにか積極的なことをやろうとすると、ハイエク先生のヒステリーが始まって、やめろやめろの大合唱になる。
ということは、どういうことか。ハイエクはそもそも、
合理的
な人の理性を信じていないわけだ(だから合理的に政策を推進しようとしたり、他人を説得しようとしている人を見ると彼のヒステリーが始まる)。今回の原発の問題でも、ようするに、原発推進派も反原発派も、その錦の御旗は、
合理的
かどうか、なわけで、どっちも同じ穴のムジナなわけだ。

個人主義」の”敵”は、「集団主義」だけではない。社会全体を単一的な”知性”の基準によって合理的に設計することが可能であると想定し、その設計図に基づいて個人の行為を制限しようとする立場は、たとえ社会的集団を実体視していなくても、本来の個人主義ではなく、集団主義に通じる要素を多分に含んでいる。ハイエクは、そうした偽りの個人主義を、「合理主義的な疑似個人主義 rationalistic pseudo-individualism」と呼び、あくまでも、「個人」に定位して社会を考える「真の個人主義」と峻別する。「真の個人主義」は、「集団主義」という分かりやすい”敵”と対決した次の段階では、”味方”に見えなくもない「合理主義敵な疑似個人主義」と対決しなければならないのである。

自分が頭がいい、これはニセ科学だ、なにが「真の科学」かを自分なら提示できる(福島のニセ科学にだまされる学歴のない一般大衆と違って、それだけの教養が自分にはある)、という「合理主義的」個人主義者たちで、原発推進派と反原発派に分かれて、丁々発止の議論をやっているが、ハイエクに言わせれば、どちらも彼の立場からは、認められない
傲慢
な議論となる。
例えば、もし「公正」なルールなるものが、「これである」と言えると仮定すると、大変に困ったことになる。つまり、だれもが、ある種の利害関係の中を生きている限り、自分にとって
有利
なルールを公正と言い始めるだろう。つまり、そもそもそういうことを言っている人自体が「うさんくさい」となる。

つまり、人々が事前にその「ルール」の「効用」をはっきり知らないことが、「進化」の観点から重要なのである。これは一見、逆説的であるように聞こえるが、「ルール」の「効用」を予め承知であった場合、どうなるかを考えれば、理解しやすくなる。もし、どういう「ルール」がどういう効用をもたらすか予め分かっているとすれば、自分たちの特定の利益を実現するためにある特定のルールを採用しようとする人が出てくると考えられる。当然、それとは別の利害関係がある人は別のルールを採用すべきだと主張することだろう。そうなってしまったら、公正なルールを選びようがないだろうし、仮に一部の人々が自分たちに都合の良い”ルール”を採用し、他の人びとに押し付けることに成功したとしても、それでは、本来の意味での「ルール」ではないだろう。

あるルールを採用した場合に、どういった結果になるのかを、「計画経済」的に考える「集産主義者」は信用ができない。というか、そもそも人は信用できないのだ。それは、人が人である限り、避けられないことであって、それをあたかも、
自分は例外
と思って、俺の言うことを分かれないやつはバカとか言っている連中の方が、ハイエクから言わせれば、傲慢なバカということになるのだろう。

こうしたハイエクの心的秩序論の視点から考えると、「精神」としての「私」が、自らの環境を”外”から客観的に観察し、かつ操作しているつもりになっていたとしても、実際にはそれは幻想にすぎない、ということになろう。「私の心」は環境の中に深く組み込まれていて、環境から全く独立に思考することはできない。デカルト的合理主義は、合理的な設計によらない慣習的なものを蔑視するが、その蔑視している「私の心」自体が慣習的なものと不可分に絡み合っていて、慣習から自由に、自分の環境を把握することはできないのである。

そもそも、人間はバカなのであって、つまり、バカでも生きられるし、がんばらなくてもダメでも生きることに挫折していても、そこそこ「まとも」な行動を「しちゃってる」のが人間なんだから、そんなちょっとのことで、自分が上だどか言ってみたところで、
五十歩百歩。
まあ、がんばって、いい大学入ったその努力まで否定はしませんけどねー。

自生的秩序の基盤となってい「振る舞いのルール」の体系は、試行錯誤を経て蓄積された社会全体の集合的英知が結晶したものであり、それに従って振る舞うやり方を「知っている」限りにおいて、各人は(”合理的”に振る舞うのに必要なはずの知識を持っていないという意味で)無知でありながら、社会の集合的英知を利用して、利益を得、自分の目的を実現することが可能になる。

そもそも、各個人は、なんらかの意味で「同じ」と最初から想定して、なにかを語りたがる(説教したがる)連中が多すぎないか。むしろ、
無関係
と考えてみたらどうだろう。みんな勝手に、ビジネスをやっていて、まず、ほとんどの人と自分は
本当の意味で
関わることはない。しかし、だからといってそれは「無秩序」だろうか。そんなことはないだろう。そういった、各自が無関係に自分勝手に振る舞うとしても、その各自の振る舞いには、ある、その地域に一般的に見られる慣習的な、作法に自分を合わせることで、さまざまなストレスの回避を行っているように思われる。言わば、ハイエク的な「秩序」はそういった、
中心なき秩序
であって、そういった「結果」によって帰納的に発見されるものにすぎないのだろう。

ここでハイエクが強調していることは、交換に関する一般論にすぎないように思えるが、注意すべきは、交換の両当事者が、単に異なるニーズ(欲求)や価値(観)、選好を持っているだけでなく、異なる目的(purpose)を追求していることを強調している点である。異なった、相互に独立の「目的」を追求している二人の個人の間には、基本的に接点はなく、協力して何かを成そうとするインセンティブは働かず、そこからは、いかなる共同体も生まれて来ないはずである。共通の目的の下に、一つのエコノミーを築いている「小さな社会」とは異なる。
にもかかわらず、進化した「ルール」の下で交換することによって、双方がそれぞれの「目的」を変更することなく、間接的にお互いの利益の増進に貢献することができるわけである。むしろ、お互いの目的がより異質であり、それゆえ異なった知識や経験を蓄積している方が、そうした知恵が、それぞれが交換しようとしている物に反映していて、交換によって得られる利益が大きくなると考えられる。いずれの側にも偏しておらず、特定の方向に誘導することのない、一般的かつ抽象的な性質の「ルール」があることによって、各人は安心して、本来共通目的がない相手と取引できるのである。

なんか書きながら、これって原発推進派のことを言ってるよな、というふうにしか思えなくなってくる。原発こそ「典型的」な
集産主義
ではないか。これ以上の集産主義など、どこにある!
もう一度、思い出してみませんか。311以前に、だれが何を言っていたのかを。

安全で安心だったら、避難訓練をやる必要ないね。ところが311以降に何を言い始めたか。

(つまり、池田信夫を始めとした原発推進派が、いつまでたっても分かってないのは、お前ら
「が」
信用されていない、ということなわけでしょう。こういった、めちゃくちゃな、まともに文章も読めない「誤読」を繰り返しておいて、学者だって言うわけでしょう。ますます国民は、この国の学問の「レベルの低さ」に、自らのこの国への誇りを穢された思いをするんじゃないですかね。経済的な「もったいない」の
ため
に、原発推進の理屈を後から持ってきたのが丸分かりの、明らかに本末転倒な議論を繰り返している「から」、国民は信用できないのであって、そしてそれは、311以前から繰り返してきた
愚民思想
なわけでしょう。自分で愚民を
騙してやる
っていう意図が丸分かりじゃないですか。)
もういいんじゃないですかね(実際、原発推進派の言ってることは、結局最後は「安全保障」しか言うことがなくなってるわけでしょうし...)。戦後のドイツでナチスがタブーとなったように、戦後の日本では「放射能」がタブーだったわけでしょう。この一線を超えると、日本の
悲劇の共有
がなくなりますよね。どんどん、この国を一つにする理由も理屈もなくなっていきはしませんかね(結局、原発推進派って、その「経済」性にしか興味のない、儲かればいいだけの、非国民なんでしょうね...)。
今、日本から原発放射能生産装置)を減らしていったら、国民は自らの日本へのアイデンティティを深くするんじゃないですか。だったら、たったそれ「だけ」の理由でも日本にある原発を一基でも少なくできれば、少なくする方がいいと思いませんかね...。

いまこそハイエクに学べ: 〈戦略〉としての思想史

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