私的「リア充」論

巷では、リア充なる言葉が、ろくな定義もされず、人それぞれの都合で使われている。一般には、アキバ事件を起こした、加藤だったかなんだっかが、ネットの掲示板に、いろいろ書きこんだそのルサンチマンが、いかにもリア充を dis ってると認識されたようで、基本的にはこういった延長でリア充を考えるというのが、歴史的定義といった感じのようだ。
(たとえば、

〈リア充〉幻想―真実があるということの思い込み

〈リア充〉幻想―真実があるということの思い込み

なんかは、そういった方面から書いてある。
そういえば、この前、アキバに行ったときに、歩行者天国をやっていたのだが、始めてそこを歩いて、ちょっと感動してしまった。あそこを、車が通らないだけで、非常に便利になる。歩行者天国じゃなくて、常時、車を通さないべきではないだろうか。本当にあそこを車が通る必要があるのだろうか。あと、アキバももっと夜の遅い町、24時間の街になった方がよくないか。こういった分野の、アジアの中心拠点としたいのなら、本気で取り組んだ方がいいと思うのだが...。)
人によっては、この表現を「肯定的」に読んで、そのまま「日々の生活が充実している」ことみたいに読んでしまって(ほとんど誤読だが)、毎日のちょっとした幸せを感じることを、そう呼んでしまうというものもあるという。
しかし定義として、あまり自己言及的なものは、物事を複雑にするだけで、「文学的」すぎる印象しか残らなくなりがちだ。だったら、もっと唯物的にわりきっちゃった方がいい面もある。
たとえば、ネットなどに、顔と名前をろくに「隠す」こともせずに、あっけらかんと「さらしている」人たちのことを「リア充」と呼ぶというのはどうだろう。
いや。もう少し正確に言うと、フェースブックのような場所で、自分が友達としているのは、非常に限られたプライベートな実際に、顔も名前も知っていて、何度も実際に会ったことがある人たちで、そういった親密な会話を、その「閉じた」場所でやっているのであれば、それをわざわざ「リア充」と呼ぶまでもない。
つまり、顔と名前の一致を、「限定された」よりリアルに近い人々と共有するような形での、ネットの利用ということでは、それをわざわざ「リア充」などと、蔑んで言わないわけである(もちろん、そういった「場所」では、常識的な「建前」の発言ばかりになるだろうことは言うまでもない)。
そうではなくて、言わば、テレビのアイドルのように、
自分から
自分のプライバシーを日本全国の人々に日々
発信
しているようなコミュニケーションを「リア充」と呼ぼう、ということである。
どうしてこんなことを考えたのかということで言うと、近年、日本で、非常に興味深い法律が成立している。つまり、個人情報保護法である。この法律がおもしろいのは、つまり、この法律が「成立する以前」というものがある、ということなんですね。つまり、急にこの法律ができちゃったわけです。すると、それ以前ってなんだったのかな、と思っちゃうわけです。
この法律の視点で考えたとき、わざわざ自分の名前と顔を、
日本全国の人に「無理矢理」覚え込ませよう
としているかのように、発信されるような行為って、この法律の「主旨」から考えると、
「無理矢理」日本全国の人に、この法律の「義務」の強制力の範囲にひきずり込ませよう
とされているような、「強引」な印象を受けるわけですね。
私は、その人の顔と名前を「知りたくない」わけです。そんな
個人情報
を「知らされ」たら、それを「管理」する「義務」が発生して
面倒
なわけです。ところが、そういった面倒を強制する側は、逆のことを考えているわけですね。つまり、その人を dis るような行為をされたら、「風評」で評判が悪くなったら、商売あがったりだから、常に、世間の評判に、ぶつくさと文句を言っている、という結果になる(つまり、自分で自分を「アイドル」として、自分ってかわいいって売り込んでるようなもので、つまり、うざい、ってことなんですけど orz)。
こういった視点で考えると、ツイッターはまさに、この両方の使われ方がされているという意味で、興味深いメディアであるという印象を受ける。
一方で、ビジネスの延長で使っている人々は、まさに、顔と名前をさらに、自分を「有名人」にすることで、発言を注目させ、自分のビジネスの発展に使っている(ビジネス利用なので当然、発言はデリケートに抑制的になっている)。
他方で、多くの
無名
の人々は、基本的に実名をさらしていないし、自分の顔写真ではない、アニメ絵をアイコンにしている。しかし、こういった人たちは他方で、かなり「自由」に、自分の感情を吐露する場所として使っている。
ツイッターのおもしろさは、このバランスなのだろう。
もちろん、近年のネット社会の発展は、どちらかと言うと、プライバシーの
解放
ウーマンリブの性の解放の再現のような印象を受けますが)という主張の方が強かったわけだが、こういったことはむしろ
情報強者
の、肉食ぶりを強調する面が多分にあったように思えるわけで、多くの人は、わざわざ面倒なトラブルにはまきこまれたくないわけで、私たちのような弱者には、これくらいのへたれっぷりの方が「気楽」でよかったりするわけだ。
そもそも、政治家だろうが、テレビ芸人だろうが、自分の顔をさらす必要なんてあるのかな。もちろん、声はラジオなどもあるし、さらすことは、それほどの抵抗はないだろう。実際、声でその人を特定するって、そう簡単なことじゃないだろうから。しかし、例えばテレビでも、自分の顔は見せない(見せるとしてもマスクをするとか)ということが、普通の振る舞いになるようなことは、どうなのだろうか。
(そういえば、西尾維新なんて、全然、顔は分からないし、ラノベの挿絵の人も、一人も顔が受かばない。)むしろ、今後はこういった
プライバシー感覚
の方が普通になるということだって、考えられないですかね...。