原発推進「逆ギレ」派

例えば、どういった時に人は
怒る
のかを考えてみよう。あいかわらず、インターネットには「怒っている」人で、あふれかえっている。怒る、とは、どういった行為なのだろう。
もちろん、このように言ったときに、私は親が子供をしかることを問題にしているわけではない。親が自分の子供にしつけをするのは、当然のことだろう。ところが、世間には、それ「以外」で「怒っている」人がたくさんいる。怒る理由はなんでもいい。近年であれば、その典型は、反原発に「怒っている」人たち、だろう。
私たちは、子供時代を通って、一年一年と、大人になっていき、いつの間にか、老人となり、死んでいく。大人になるということは、ようするに、他人に扶養の義務がなくなるということで、例えば、子供は少年院には入れられるが、犯罪者として扱われず、そのかわりに、社会から「強制」される存在として定位される。しかし、大人は、そもそもそういった枠組みがない。つまり、どんなに大人が、子供みたいなだらしない毎日を送っていたとしても、だからといって、その人を
強制
する権利は「だれにもない」。つまり、大人は大人となることによって、勝手に自由になってしまっているわけだ。しかし、その代わりに、大人は、だれからも相手にされなかったとしても、だれかにその責任を追求する権利はない。
つまり、大人は大人となることによって、必然的に「孤独」になっていることを意味する。たとえば、その大人の人を、
日本中の人
がシカトしたとしても、だれもその罪を問われない。大人は、だれも相手にしなくてもいいかわりに、だれからも相手にされなくても、その孤独を忍従しなければらない。
では、その大人の世界に存在するものとは、なんなのだろうか。それが「ルール」である。大人は「強制」されない代わりに、「ルール」による監視と、ルールに違反したときに、そのルールにのっとった、手続きによって、強制されるという、
ルールによる「発見」的強制
の世界に生きることになる。ルールに違反したかどうかは、警察などの、ある種の人々が監視し判断するわけだが、あくまで、そういった権限をもった人たちが「発見」し「証明」することによって、この手続きは進行する。
そのように考えたとき、上記で問題にした「怒っている」人たちとは、具体的にどういった分類になるのだろうか。私たちは、もう大人なのであって、だれかに強制される
繋がり
は、もう子供時代になくしているわけだ。怒ってもそこに、なんの「強制」もない。つまり、怒るという「行為」は、
別の何か
と考えられても、しょうがないだろう(そういう意味では、近代市民社会とは、本質的に、アンモラルだと言いきっていいだろう)。
このように考えてみたらどうだろう。怒っている人たちとは、別の「ルール」作成に、自らが「参加」する、という意志を表明しているんだ、と考えるわけである。
つまり、大人は、別の大人を強制できないわけではない。それは、「ルール」を介して強制するわけである。ある大人の振る舞いが、気に入らなかったら、そういう大人の振る舞いを取り締る「ルール」を作ればいいわけである。そのための、一番てっとりばやい方法はなんだろう。そのルールの作成に自分が関わればいい。
こういった流れで、近年注目されたのが、東京都の非実在少年規制条例であった。しかしこれは、さまざまなネットを中心とした国民の反対によって、ほとんど意味がないくらいに、骨抜きにされたわけだ。
たとえば、これを反原発に「適用」してみようではないか。反原発派の中のほんの一部のチンピラのような振る舞いを見付けてきて、反原発派はこんなにも「アンモラル」な連中なのだから、彼らを「取り締る」べきなんじゃないか、と。そもそも、反原発などという「非合理」なことを言っている連中が、まともな人間のわけがない。こんな連中と会話が成立するわけがない。日本の未来を考えたら、原発が必要に決まっているのに、反原発なんて言っているということは、この日本を壊すことだけが目的の、秩序破壊集団に決まってる。
私は今、日本で原発を「もっと作れ」と言っている人たち(その中には、単に作れと言う人もいれば、古いのを壊して、「そこ」に新しい「安全」なものを作れ、と言っている人もいるわけだが)が、結局のところ、どういった
動機
で、そのように言っているのかを考えたいわけである。
私は個人的に原発推進に反対だが、つまりは、それに心よく思わない人たちというのは、311以降も一定数いるわけで、そういった人たちに私は「怒られる」ということになるわけだ。
たとえそうだとしても、私はこれからの選挙では、できるだけ、原発の縮小に努力するという議員に投票するだろうし、他の人々にもそういったことを呼び掛けるだろう。また、デモがあれば参加するかもしれない。もし参加しなかったとしても、その呼び掛けに「賛同」はするだろう。
つまり、どんなに「怒られ」たとしても、こうやって近代市民社会は廻っていくのであって、つまりは、ねばり強い取り組みが、どちらの立場にしても求められていることだけは確かで、つまりはこれが、市民社会の要諦なのだろう。
正直に言って、原発を作れ派に対して、私自身が個人的になにかを言いたい気持ちはない。そのように主張したいのなら、すればいいだろう。しかし、そういった人たちは、どこまで「国民に分かってもらおう」という努力をしているだろうか。そもそも、この問題を「議論の問題」と考えているのだろうか?
私はある仮説を立ててみたくなる。よく言われるように、歴史的に、日本の原発には
、右翼や保守派が多く関わってきた。それだけでなく、山谷などの日雇い労働者が多く関わってきた歴史がある。
そのように考えたときに、今、原発を「もっと作れ」と言っている人たちに、この前の芸能界の島田紳助のように、なんらかの形で、そういった人たちに弱みを握られている人というのは、ある程度はいると想定することは、憶測すぎるだろうか。
私は、この日本社会の歴史的な流れを考えても、いろいろな形で、闇の世界と関係を切れないで生きている人は非常に多いのではないか、と思っている。もしかしたら、それこそが日本の長い不況の根本的な原因になっているのかもしれない。
私は近年の、友達こそ「人々の生き甲斐」といったような、例えば、ライトノベル的な若者的感性に、全面肯定したい、という気持ちにはならない。つまりそれは、人間の繋がりこそ本質だと言っているわけで、闇の世界に関わったが最後、一生足を洗えないんだ、と言っているようなものであろう。
人間関係を他人を拘束するものと考えることは、近代社会のシステム設計としても、あまり適当ではないようにも思う。
人によっては、それは「さみしい」と思うかもしれない。しかし、この人間社会に生きるということ(つまり「大人」になるということ)は、そういうことなんじゃないだろうか。ディープな人間関係を求めることは、今度はその関係を断ち切って何かをやりたいと思ったときに、重しとなる。ディープな関係を一度でも求めたなら、今度はそれを断ち切りたいと思ったときには、相手は「裏切り」と思うだろう。大きな心理的軋轢がそこに生まれないとも限らない。
こういったことは特に、実名で、しかも、自分の顔写真をあけっぴろげに公開している人たちに対してこそ、心配になる。一般にそういった人ほど、原発推進的な傾向のことを語っている印象を受けるのは、気のせいだろうか。
それは、自分の素性をさらせばさらすほど、「本音」を語ることはできなくなるからだ。自分の社会的な立場を意識して発言せざるをえなくなる。今後の仕事の関係を考えれば、原発を全否定することは、あまりに、いろいろな業界に角が立つということもあるだろう(そういう意味では、できるだけ、他人に依存することなく、稼げる先を多くもつことが、自分を
自由
にする第一歩なのかもしれない)。
例えば、もし、あなたが、ある人が稼いで来るお金に依存して生計を立てているとしたとき、その稼いでくる人を「怒れる」だろうか。もちろん、その人の稼ぎが不景気で少なくなって、自分のもらえる分が少なくなることに、愚痴を言うことはあっても、本質的に依存をしている相手に本気で文句を言うことはできないものだ。
このように考えると、「怒る」ということが何を意味しているのかが、少しは分からないだろうか(歴史的にも、自分の糊口を稼いでくれる人が「大人」だったわけだろう)。
人間関係とはこういうものなのであって、私たちはむしろ、より自分を「自由」にする「からくり」とはなんなのかを考えることこそ、このソーシャルネット社会において、「むしろ」求められているのではないだろうか...。