西尾維新『少女不十分』

久しぶりに、西尾維新の小説を読んだのだが、うーん(まあ、これを読んだ、この人の読者はみんな同じように、考えこまされただろうが)。
この小説を書くのに、10年かかった、という言葉が何回か出てくるが、そういう意味では、彼の作品の一つの橋頭堡になるようなものなのだろうが(小説として、というより、その内容を著者の「実存」として考えたとき、ということですが)。
たしかに、この作品の風景には、どこか、著者のゼロ年代を通して次々と出版された、ある種の、個人倫理から「離れた」
人間性

人間性
を一貫して追い求めてきた作品群の、バックグラウンドを覗かせる一面を感じなくもない。
というか、この小説は「おもしろい」のだろうか? どう表現したらいいのだろう?
私たちはだれでも、生きてきた間には、何回かでしかないのだろうが、予測を「超えた」出来事が起きることがある。しかしそれは、自然災害ということではなく、
他者
との、突然の「因縁」がつきまくる、一連の出来事である。道で、チンピラみたいな連中にからまれて、一時間近くやりあうとか、まあ、特に、子供時代ですよね。よく分かんない大人が、急にからんでくる、というような。
こういった「事件」を、一般にどうやって、人々は考えているかといえば、まあほとんどの場合は、記憶の忘却の彼方に置いてきてしまう、というのが本当のところのようだ。それは忘れるとは違うけど、まあ、ほとんどそれから、思い出すということもない。
掲題の本はそれの、かなり極端なケースということになるだろうか。
この小説のおもしろいところは、やはり、Uという少女が、「子供」だというところでしょう。言わば、小4という非常に「微妙」な年齢の子供としている。
子供というのは、最近も書いたが、非常に微妙な扱いを受ける存在として、今の人間社会のシステムに定位する。子供は、基本的に犯罪者というカテゴリーに入れられることはない。あくまで、
教育
的存在として、少年院のような場所で「更正」を促される存在として扱われる。つまり、罪を犯せない存在であるとされる。
しかし、こういった扱いは、この社会システムにおいて、「当事者」性をもたない、非常にへたれな存在と考えられなくもない。しかし、そのように思うことは、そもそも、
だれもが「必ず」子供時代を通過して今がある
ということを忘れている。
子供の頃の自分。
果して、彼らは、まともな判断のできる何かだと言うべきなのだろうか。その、子供の頃という、なんとも、なにもかもが「ふらふら」して、曖昧な、ぼやーっとした感じの中で、それでも、なんとか、さまざまな「判断」をしていた、子供という
曖昧
な存在。それが、年齢を重ねることによって、少しずつ、なんとなくの「輪郭」が、事後的に見出されるようになる。だからこそ、大人は子供が苦手であり、ということはつまりは、大人は子供を真に理解することはできない...。

二十歳のこの頃は、人生で一番推理小説を読んでいた季節である。大袈裟に言えば、推理小説しか読んでいなかったと言ってもいいくらいだ。誰に、というよりも自分に対して見栄を張りたい年頃でもあり、かなりの乱読振りだったので、その内容を今ではほとんど覚えていないというのが悲しい話だが...。

(ここで著者は、そもそも、この作品のストーリーは「普通」は成り立っていないことを明言していると言っていいだろう。どう考えても、しょせん小4の少女がナイフをふりかざしていたとしても、これだけ長期に子供の集中力が続くわけがない。そういう意味では、これは推理小説的な「状況」であり、主人公はあくまでも、この状況を興味本位でこそ、維持しようと「努力」する。なぜなら、まだ
疑問
が解決していないから。問題はあくまで、この今の「状況」のうまい「説明」であって、常に世の中の視点はそれ以上でもそれ以下でもないのだろう...。)
しかし、だからこそ、常に物語の主人公は子供なのだろう。矛盾していて、曖昧で、ふらふらしていて、方向が定まってなくて、だからこそ、凡庸な常識人の大人とは、まったく違う
魅力
が子供にはある...。

大丈夫なんだと。
色々間違って、色々破綻して、色々駄目になって、色々取り返しがつかなくなって、もうまともな人生には戻れないかもしれないけれど、それでも大丈夫なんだと。そんなことは平気なんだと、僕はUに語り続けた。
英雄の話ではなく、救世主の話えもない、異端者ばかりの話を、いつまでもいつまでも、果てることなく語り続けた。

そもそもDVを受けた子供を、どうして「普通」に考えることができるだろう。大人は、自分の理解を「超える」存在と、「まとも」に対峙できない。いや、できないから、大人なのだ。大人とは、そういった
マニュアル
を超えた生き方ができなくなった存在を、そう言うのであって、マニュアルに書いていない現実を受け入れない(「見えない」と同値の意味で)ことで、大人という「殻」を維持している。
しかし、そういった大人は自分にも「大人になる前」があったことを「忘れて」いて、
その時の記憶
が常にその人の「常識」を脅かし、突然、脅迫してくる。つまり、常に子供という「異端者」という「他者」が私たちに考えることを強いてくる...。

少女不十分 (講談社ノベルス)

少女不十分 (講談社ノベルス)