子安宣邦『思想史家が読む論語』

TPPの議論をどのように受け止めたのかで考えるなら、それは一言で、
世界市場
化といえるだろう。両雄相並び立たず。あらゆる「同一」性は、同一の「競争」によって、優勝劣敗を決せられる。一つのセービスを提供するのは、世界に一つでいい。
例えば、今の日本には間違いなく、日本経済圏と呼べるような、日本内に閉じた市場がある。この市場で競っているのは、基本的に日本人同士であって、でもそれでも、ある程度は海外からも商品が入ってくる。
しかし、ここで「入ってくる」とは、何を言っているのか、と考えてみよう。海外の企業が日本で商品を売りたい、と思ったとする。では、どうするか。日本のさまざまな、小売店に物を置いてもらうことを考えるだろう(とりあえず、ネットで売るケースは考えていない)。しかし、その限られたスペースのどこに置ける場所があるのか。もし、置いておけるとするなら、それは今まであった、日本商品の場所を除くことによって、でしかない。
では、もっと進めて、そういった海外物の専門店を作るというのはどうか。それが、マクドナルドのような形での進出となるだろう。
もし商品が、「同一」なら、同じだけ「売れる」ことになると考えられる。そうであるなら、日本の非関税障壁を破る方法として、どういった手段に訴えるだろう。一番てっとりばやいのは、政府間交渉にしてしまうことだろう。
同じ性質の製品なのだから、日本製品と同じだけ、売れなければ道理が立たない。だったら、先取りして、アメリカ製品を日本の政府に買わせるわけである。そうすれば、嫌でも、日本政府はその自分が買ったアメリカ製品を日本人に買わせることに必死になるだろう。
おそらく、今後の世界経済においては、こういった
国力
を利用した、「強制的購買」が主流になるのではないだろうか。もし、そのようにして、政府が一度、海外の商品を国内で売るために買い取ったなら、今度は、それらを小売店に並ば「させる」法律を強行してくるだろう。そして、日本の各生産者は、作っても、どこでも売ってもらえなくなる。どこのスーパーの棚も舶来物しか置く場所がなくなるから。
これも熱力学第一の法則の典型であって、私たち人間は、ある一定のエネルギーしか、一日に消費しない。それ以上やりたくても、それ以下にしたくても、身体がその範囲のものしかこなせないようにできているので、限界がある。海外から大量に輸入された商品を消費するようになると、国内で今まで買っていた商品を買わなくなる。
また、今回のTPPの議論によって、一つだけはっきり思ったことは、実際に「起業」している、自ら経営者、または、社長をしている人(その会社が比較的に小さい場合も含む)たちは、けっこう、TPPに賛成していたことだろう。
こういった人たちが、往々にして、消費税賛成論者と、オーバーラップしていることは、興味深い。
日本の失われた10年と言われていた頃から、起業家の問題というのはよく言わていた。その代表格として、ホリエモンが取り上げられたものだが、そのように考えてみると、今の日本社会について分かりやすいのかもしれない。
なぜ彼らが、TPPに賛成し、消費税に賛成し、原発に賛成するのか。
それは、そもそも彼らの関心がそこにないから、と言えるだろう。
つまり、彼らにとって、そういったことは重要ではない。彼らの関心は、ひたすら、自らが行っている事業の「成功」であって、それらに、こういったことは関係ない。もっと言えば、自らの事業を成功させるためなら、どんな方法を使っても、成功させようとしているのであって、どうしてそれらから、上記を除かなければならないのかが、理解できない。
もともと、そういった社長たちは、どんなに社員をこき使うことによって、大きな儲けになったとしても、決して、社員にそれを「還元」することはない。そうやって得た利益は、
社長の懐
に入る。このお金の金額は膨大になる。往々にして、社長をやっているというだけで、サラリーマンには信じられないような、金満生活をしている場合があるのは、こういうことだろう。
しかし、これは「成功」した場合である。逆に、「失敗」した場合は、非常にドラマチックかつドラスティックに変化が起きる。よく、小さい頃、お金持ちの生活をしていた子供が、親の事業の失敗で、貧しい生活をするようになるケースが、漫画などでも描かれるが、まさに、天と地の差が起きるわけで、そりゃあ、必死にならざるをえないわけだろう。
彼らにとって、なによりも大事な仕事は「自分へのマインドコントロール」である。自分の会社は大丈夫、なんとかなる。こう説得し続けなければやってられない。なにかでヘタこいたら、転落するんだから、どんな屁理屈を、どっかから見つけてきてでも、自分を説得できなければ「ならない」。そうできなくなったときが、自分が自分であることをやめるときであり、つまりは、会社をやめるとき、となる。つまり、基本的に経営者の人たちは、かなり、
強引
な議論の人(彼の持論で相手を押さえ込まないと気がすまない)が多いというのは、こういうところにあるのだろう。私たちは、冷静に相手がどういう人かを見て、話を聞かなければならないのだろう。
しかしまあ、これが資本主義。ですからね。
これが、ヘーゲル的に言えば、「主人と奴隷」なのであって、このように考えてみると、21世紀もどうやら、マルクスの時代が続きそうだな、という印象だろうか。
資本主義とは「構造」である。
つまり、ゲームなわけだ。
人間を、経営者(社長)、と、その他大勢の、賃金生活者に分けて、お互いでゲームを始める。ゲームのおもしろいところは、それぞれのプレーヤーが、その役割に対応して、彼らが受けとる
感情
が非常に似通ってくることだろう。社長は経営が苦しくなれば、
どんな社長
も、苦しく、あせってくる。賃金生活者も解雇されれば、苦しく、あせり、将来の不安にさいなまれる。この構造は、世界中、どこでも、
まったく同じ
である。ということは、どういうことだろう。きっと、その処方箋は一緒なのだろう。

  • お金:経営者 --> 従業員
  • 労働:従業員 --> 経営者

経営者や一般に社長と言われている人たち同士は、往々にして仲が良い。それだけでなく、お互いで懇意な付き合いをしていたりする。では、経営者と従業員は、本当の意味で「理解」し合えるのだろうか?
経営者(社長)とは、言ってしまえば、その人をその会社内での、「天皇」だということにしよう、ということになるだろう。いわば、そういう約束なのだ、と。そのかわり、この場所における、あらゆる経済活動の結果は、その「天皇」が一身に背負う形になる。従業員も、もしそういった形態が、自分にしっくりこないなら、辞めたっていいだろう。経営者(社長)は、その会社という「国家元首」となり、あらゆることを自らの「こと」とするのである。
言うまでもなく、この構造は、資本主義が、この資本の運動の「主体」である、我々人間に要求してくる「役割」なのであって、それを抵抗することなく受け入れようとする方向もあれば、それなりに、違った形態を模索する方向もあるだろう。
社会学者のシャンタル・ムフは、新たな敵対性の復活が必要と言う。それは、つまりは、ゲーム性において、である。
例えば、政治の場において、各利害当事者が自らの利益を要求すれば、当然、他の利害当事者とぶつかり、
ガチンコ
になる。では、どうするのか。忍者をしのびこませて、相手の重要人物を殺すのか。いや、そうではなく、その衝突のフェーズをずらすことが必要だと言う。
つまり、
アリーナ(闘技場)
をセットする。そこで、議論をさせ、議論という「ルール」の中で、「競技」をさせる。ここにおいて大事なことは、お互いが、まるで利害を共有している、「理解し合える」存在であるかのような、外貌を捨てよう、ということである。つまり、お互いが利害が対立するなら、お互いがその点で、意見が一致するはずがない。そうである限りにおいて、お互いはその点では、
敵同士
であることを認めることから始めなければいけない、ということになるだろう。しかし、この敵対性は、あくまで「その点」においてである。つまり、これは「ゲーム」なのだ。あるルールを設定して、その中で「敵・味方」を作り、競わせる。

かつて大学や文壇には、よくも悪くも共同体的なものがあった。学者の場合、すぐに成果を出さなくていいし、博士論文を書かなくてもいい。一度才能を見込めば、職を与えて長い目で成長を見守るというような体制があったのです。もちろん、そのような体制には否定的な面がある。そこでは、競争がないし、一度ポストを得たら何もしないですむ。だから、無能なボスの支配になる。ひどいものです。とはいえ、現在の資本主義的な競争が、創造的な競争をもたらすとはいえません。むしろ誰も彼もが、世間の動向に敏感で近視眼的で凡庸な仕事をすることになる。
だから、望ましいのは、共同体的でも資本主義的でもないような体制です。交換様式Dとはそういうものですね。そこで、競争がなくなるということはありません。競争はある。しかし、利益や権力のためではなくて、たんに自分の卓越性(distinction)を示すためのものです。古代ギリシアには、多くのポリスが競技するオリンピックがありました。それは戦争とは違う。実際、オリンピックの間は、ポリス間の戦争が禁止されたのです。こういう競技のような競争やコンテストは、氏族社会にも、遊牧民の社会にもあります。だから、その意味でも、交換様式Dは、交換様式Aの高次元での回復だといえます。

「世界史の構造」を読む

「世界史の構造」を読む

市場原理主義によって、広大な大地で大量の農薬を使って、大量に作って、世界中にばらまく農業を行っている大陸系の国々の農産物と、日本のように、山並みの開けた平野で、こじんまりと行っている農業によって作られる農産物が、同じ価格で競争を行えば、そりゃ、大陸系にかなうわけがない。じゃあ、日本から、農業なるものを、すべて止めなければいけない、ということになるのか。
大陸の広い大地が、それによって、永遠に農作物をもたらしてくれるなら、もしかしたらその方がいい、という可能性もあるのかもしれない。しかし、それは分からないだろう。不作の年もあるだろう。また、生産性が低くなり、無理な化学肥料で、かなり強引にホストハーバストのような薬で、世界中にばらまかれることになるかもしれない。
しかし、なぜこういった議論になっているのか。
そもそも、農業を代表とした、こういった
社会的資本
には、たとえどんなに非効率だろうと、非生産的だろうと、やらなければならない需要があるのではないか。
農作物の「品質」を競う「競争」はゲームとして必須である。これが必要ないなどということは、たとえ天地がひっくりかえっても起きることはない。しかしそれを、なんとしても、
資本主義的競争
によって実現しなければならないという、いわれもないだろう。だからといって、
共同体内競争
によらなければならない、という理由もない。柄谷さん的に言えば、それは、
交換様式D的競争
として実現させればいい。しかし、どうだろう。あらゆるものは、なにかしらの意味で、社会的資本と考える私の立場からは、むしろ、あらゆるものが、交換様式D的競争として、存在しうる社会を構想すべきなのではないのだろうか。しかし、そんな社会とは、どういった条件が実現させる社会なのだろうか...。
掲題の本は、子安さんによる論語読解が講義形式で、構成されている。日本思想史についてさまざまに言及されてきた子安さんが、あらためて、論語を「テキスト」として読まれているわけである。
といっても、論語を読むとは、どういうことなのだろうか?
論語は、あまりにも昔に書かれたものであり、そもそも、あまりに昔すぎて、これが書かれた以前の、孔子が読んでいたような書物など、詩経とか春秋とか、それくらいしかないわけでして、むしろ、この論語に並んでいる漢字を後世の人たちが、自分たちの時代のそれぞれの概念で、
解釈
してきて、現代の文字体系ができているくらいなわけで、それくらいに、論語を読むというのは、どこか、古代の遺跡の文字の解読をやらされているような感覚さえ、生まれてくる。
仏陀も含めていいのかは知らないけど)、孔子にしても、ソクラテスにしても、イエス・キリストにしても、自ら、本を書いて自分の主張を布教したわけではない。たんに彼らは、他人と
会話
し続けただけで、その会話を彼らをとりまいていた人たちが、聞き、記憶し、次の世代くらいで、一つの対話集、発言集のようにまとめただけ、と言える。
(しかし、大事なことは、そうやって纏められる作業が、すでに、一つの「体系」化であったことだろう。そして、ひとたび体系とされたことが、その後において、大きな影響を与えていくことになる...。)
つまり、彼らにとって、自分が語っていることと、その相手、その相手の応答には、不可分の関係があったことは自明であったわけだ。
では、なぜ彼らは「主張」するのか。
それには、なにか今「そうある」ことに対して、なんらかの、変革がされるべきだという思いからだろう。
彼らがなぜ、相手にそう言うのか。それを言う必要がないと思うなら、言わないのだろう。なんらかの理由を感じて、そのように言うのだろう。
彼らの時代を特徴づけるものがあるとするなら、一つの「社会体制」が完成しているということが、まずある。そして、それと同時に、その社会の
堕落
が始まってもいる。社会体制の安定は、経済的な発展をもたらす。そして、それにともなって、人々の流動性が高まる。流動性が高まれば、人々は相互に衝突することにもなり、それが戦争の危険を大きくすることもあるだろう。
そういった秩序が安定したと同時に、不安定への
兆候
も示す時代を皮膚感覚する人の中から、預言者のように、ある変革(保守)を示唆する人たちが現れてくるのかもしれない(時代の流動性は、変革と保守に「違い」をなくする...)。
それゆえ、上記の人たちは、言わば、「批判」的な言辞となる。批判とは、非難と違い、つまりは、今まで常識と思われていた主張の枠組みの
再構成
を目指すようなところがある。それまでの社会秩序が、経済の発展とともに、人々の流動性をもたらす。田舎者が都会に現れ、働くようになる。そうすると、それまでの、その地域において、自明に皮膚感覚で、なあなあとやっていたことが、通じなくなる。通じにくい人たちがあらわれる。コミュニケーションにストレスを感じることが多くなる。そして、
ある規範が求められるようになる。
今まで、自分たちの村人同士で通用したことは、よく考えてみれば、よそ者は、この村で生まれ育ったわけではないのだから、
共有
していない。しかし、そういった者同士が「一緒」に働くことが、経済発展による、人の流動化によって要求される。
この場合、大事なことは、その「規範」とは、ある意味、以前からあったものとも言えるが、そうでない(それを主張している者のアイデア)とも言える、つまり、その二つを区別することは難しい、ということである。
大事なことは、こういったモチベーションは、こういう事態に至ったから生まれたのであって、それ以前において、こういったことを
意識化
しなければならないという反省的な契機が「必要なかった」ということである。つまり、なぜ上記のような彼らが、なにか大仰な「思想」を「発明」したかのように見えるのかは、そこにある。
大事なことは、彼らが「それ以前」に存在したルールを批判する形で、
超越論的
に、ルールのルールについて語るという形をとらざるをえなくなる、ということである。
たとえば、掲題の本のそれぞれの章でとりあげる「言葉」は以下である。まず、第一部が、

第二部が、

  • 忠信・忠恕
  • 死生・鬼神
  • 君子

こうやって見ると分かると思うが、彼らが語ったことは、たんに「あること」を語ったのではない。いろいろなことを語っている。また「いろんなこと」を語っているだけではない。つまり、一個一個がそれぞれ語られるべきなにか、という感じではなく、
それぞれ「を」語る必要があったし、それぞれによって全体として、なにかが示唆されているような感じがする。
しかし他方において、これが「全体」かと言うとそうでもなくて、これが、全体を「定義」している、つまり、世界、かというとそうでもない。例えば、掲題の本でも強調されているが、孔子が「道」や「徳」を定義していることは、論語の中にはない。ということは、どういうことだろう。つまり、孔子は、

  • それについては、あなたが一番よく知ってるじゃないですか

と暗に言っているということで、彼には当時のだれでも自明だと思えた「言葉」として使っているということである。つまり、
カント的な超越論的批判
として提示されるものだということでもある(こういった、超越論的批判は、一つのフレームとして、示されることになる)。
掲題の本においては、論語の「解釈」として、何人かを紹介している。最も著者が重要視し、この本の本流としているのが、伊藤仁斎である。

私の『論語』の読み方は伊藤仁斎の読み方にしたがうものである。仁斎は『論語』を読み直そうとした。読み直すとは、すでになされている読み方をもう一度読み直すことである。『論語』はすでに朱子によって読まれ、朱子の解釈によって蔽われていた。仁斎はこの朱子の読み方を読み直すのである。これを読み直すことで、『論語』から孔子の教えの本来を聞き出そうとするのである。仁斎のこの『論語』の読み直しを論語古義学という。私はこの仁斎の古義学の方法にならった。
論語』のテキストには先人たちの読みが堆積している。私たちはその先人たちの読みを通してしか『論語』を読むことはできない。先人の読みの痕跡のない真っ新な古典的テキストを真っ新な目をもって読むといったことはありえない。われわれが古典を読むというのは、つねに先人の読みによって読み直している。私はこの読み直しを仁斎にしたがって自覚化したのである。私たちの『論語』の読み方を現代にいたるまで長く規定しているのは朱子の読み方である。この朱子の読み方を自覚的な方法意識をもって批判的に最初に読み直したのが伊藤仁斎である。この仁斎に触発されながら、その仁斎をも批判して新たに読み直そうとしたのが荻生徂徠である。この仁斎や徂徠による『論語』の読み直しの成果は大きな遺産としてわれわれの手許にある。この成果の上に現代にいたる『論語』の読み直しがなされていったのである。この読み直しの過程を自覚的に辿り直すことによって、思想史家としての私は『論語』を読み直そうとした。

日本において、伊藤仁斎は非常に重要である。なぜか。伊藤仁斎論語古義を読むと、とにかく、感動する。こんなものは読んだことがない。というのは、これが

  • 支配者(国家元首天皇、経営者、社長)の側から書かれていない

からではないだろうか。徹底して、当時の京都の町人の側から書かれているのである。
なぜ、伊藤仁斎論語古義というものが成立したのであろうか。それは、逆に言えば、なぜ、伊藤仁斎論語古義のようなものが、世界中にそれまで、ほとんどなかったのか、という問いと同値である。
なぜなのか。
それは、さらに逆から言ってみると、よく分かる。そもそも、伊藤仁斎の読み方は、そうとう常識外れなのだ。それは、そもそも、論語
支配者側
のものだったからだ。

橘樸(一八八一 - 一九四五年)という中国に生涯かかわり続けた人物がいる。橘は昭和戦前・戦中期の中国通として知られた言論人であった。彼はまた中国思想・中国社会の研究者でもあった。彼は独自の視点から中国思想をとらえていた。すなわち中国思想を大きく孔子老子の思想的対立・拮抗としてとらえ、さらに中国民衆の考え方は基本的に老子の考え方だとするのである。「二千数百年後の今日までも支那人の大多数は矢張り老子と同じ考えをしか抱いて居ないのである」と橘はその主著『支那思想研究』(日本評論社、一九三六年)でいっている。このとらえ方は中国社会を官僚による政治と民衆の生活とのまったく乖離ととらえる見方と関連する。「支那では政治と民衆が懸離れて居り、両者の間には兎の毛程の有機的関係も存在し得ないのである。......政治は民衆にとって全く無用の仕事である」(同書、第一章「支那思想に関する一般的考察」)という。この政治と民衆との拮抗を、橘は儒教道教との対立においてとらえている。「一口に謂えば儒教は治者の利益に立脚して組立てられた教義であり、道教はこれと正反対に被治者の思想及び感情に代表するものである」と。そして治者の立場における儒教は天命説をその教義の骨子とするものだとして、橘はこういうのである。
「天は所謂上帝であり唯一神である。天が人類のうちから或る一人を選んで彼に牧民のことを命ずる。即ち天下には唯一人の天子しかあり得ない。而して天子の権力は天命を其の根拠とするものである。......孔子は周の世が乱れた後に生れた人であるに拘らず、彼は伝統的天命説の形式を固守して死ぬまで周室の復興を熱望した。然し古い型の天命説を信仰したのは儒家のうちでも其の第一代の孔子に止った様である」。

橘はさらに天命観に立つ孔子老子を対置させてこういうのである。
老子は之れと反対に神や天や上帝などというもの一切を否認し、人類は其のあるが儘に放任しておきさえすれば、それが一番彼等にとって幸福であるとみた。単に老子が斯くの如く信じたに止まらず、二千数百年後の今日までも支那人の大多数は矢張り老子と同じ考えしか抱いて居ないのである」。
橘は神や天などを否認する老子の思想が中国の民衆のものだというのである。

そもそもテキストとは、歴史的産物である。ということは、それが生まれてから、今の時代になるまで、「ずっとあった」のであって、それぞれの時代で、その役割を与えられる。そこから考えるなら、論語とは、常に、支配する側が使い続けたものであった。そうである限り、その解釈とは、支配する側が用意するものとなり、そもそも、庶民には関係のないものであり続けた、ということである。
支配階層がその支配の正統性を獲得し、庶民を動員しようとするとき、一般にどういったロジックが使われてきたか。そういった視点で考えたとき、最も典型的な例として、以下が言えるだろう。

孔子に「仁を問う」といえばまず「顔淵問仁」章が挙げられる。孔子がその問いに「克己復礼為仁」と答えるこの章は、『論語』を代表するような、もっともよく知られた章でもある。この章が『論語』を代表するものであるのは、その中心的な道徳的概念である仁について、他の章に見ない形ではっきりと規範的な回答を孔子が与えているからである。ここから『論語』における孔子の教えを代表するような規範的な教誡の言語が、この章の「克己復礼為仁」の解釈によって導き出されてくる。その代表的な解釈は朱子のものである。それは圧倒的な影響力を後世に与えていった。『論語』の教えはこれによって覆われたといってもよいほどである。『論語』の教誡的言語への反発や嫌悪感を与えていったのは、この章であり、この章の朱子の解釈である。私に長く仁斎の『論語古義』を読んでも、『論語』そのものを読む気を起こさせなかったのはこの章があるからである。なお現代中国の文革における批林批孔は、林彪が愛用したとするこの「克己復礼」の言句への激しい政治的イデオロギー批判の形をとった(「『克己復礼』----資本主義復活をたくらんだ林彪の反動網領----を批判する」人民日報、一九七四年二月二〇日)。「克己復礼為仁」にひそむ言霊は現代中国をも動かしているのである。

礼とはもともと古代国家における宮廷や宗廟の儀礼から社会的・習俗的儀礼にいたるものをいうのだが、孔子はこれを古代先王の規範として理想化していった。人間社会がもつべき美しく、正しい秩序、すなわち文化的であり同時に倫理的である社会的秩序の体系として理念化したものである。この理念化された礼を朱子は「天理の節文」というのである。すなわち天理にしたがった正しい道理的社会秩序である。ところで朱子学的人間観からすると、人間の心はもともと(本来的に)天理を本性として具えている。だからこの心の本来性を損なうような、それを壊るような私欲に打ち勝って人がその心の本来に十全に立ちうるならば、その人は同時に世界の道理的秩序にも合致することになるのである。それが己れに克って礼に復することである。このように心の本来を、礼的世界秩序に十全に合致する行為として実現していくこと、それが仁にほかならない。孔子の「克己復礼の仁」とはこのことを教えたと朱子は解するのである。ここからは心をめぐる教誡的言語が導かれることになる。

現代の国家主義者も基本的に、このパターンを反復している。あらゆる国家主義者は、このロジックを結果として、再現しているように思える。そして、その多くの場合が、そう自分がしていることに無自覚ということなのかもしれない。
(こういった国家主義者が、ヘーゲルを受け入れるところから始まることも、非常に類似した傾向を見ることができるように思う。)
多くの国家主義者は、そういった規範的なものに反発しようとする庶民に対して、「でも孔子だって言ってるじゃないか」と最後には、ここに戻ってくる。彼らの、最後の拠り所ということになるだろう。
しかし、じゃあ、孔子はどこまでマジで「克己復礼」を言っていたのか。それに対する子安さんの答えが以下である。

『春秋左氏伝』に、「仲尼曰く、古えに志すことあり、克己復礼は仁なりと。信に善い哉」(「昭公十二年」)とある。そこから「克己復礼、仁也」とは古語だといわれる。すなわち孔子顔子の問いに古語をもって答えたというのである。このことは、顔淵篇冒頭のこの章がもつ他章とは異なる性格、すばわち孔子が強い規範的な、そして自己規制的な性格をもって仁をいうことの理由を明かすように思われる。

たしかに、その当時において、こういった慣用的な用法が一般に流布していたのだろう。孔子もその慣用的な用法に、基本的には、従う。その上で、その「外側」から、考える(ウィトゲンシュタイン)。
では、これを伊藤仁斎はどう解釈したか。

しかしそうした成立過程を考えても、この顔淵篇の首章はとりわけ強い規範的性格をもった言葉らなっている。この章から「四勿」という自己規制の禁止の命法が説き出され、人びとを道徳的に拘束していくことになる宿命を、この章自体がすでに負っているともいえるだろう。「克己復礼」の四字は『論語』嫌いを生み出す因ともなり、反革命の標語ともみなされたのである。
仁斎は自己規制的な禁止の命法としてのこの章を読み直した。仁斎は「克己復礼」を自分を捨てて、あるいは自分を抑えて人(あるいは民)と共にする立場に立つことと解した。仁斎は人に対する慈愛の心によって人と我との間を充たし、やがて世界がこの心によって充実することを仁だとした。だから自分を抑えて人(民)と共にする立場に立つことは仁を行うことなのである。私はこの仁斎の読み直しに共感する。

なんとも、あっさりしたものである。
私は、伊藤仁斎論語古義を「常識外れ」と言った。そもそも、孔子は当時の支配階級の人間であり、彼が一緒に学んだ学徒は、言うまでもなく、支配階級の子供たちであったのだろう。そう考えてくるなら、荻生徂徠の批判は、かなりまっとうなわけだ(実際、孔子にとって、周王朝の復活や、それを天と呼ぶことには、大きな意味があったのだろうという点においては、徂徠の指摘の方が普通に思える)。
しかし、じゃあ、伊藤仁斎論語古義は、まったく、トンチンカンのトンデモをやっていたことになるのだろうか。それも違うように思える。
大事はことは、孔子の時代と現代を同じ言葉で語ろうとすることの、異常さだろう。古代ギリシアの民主制にして、孔子の時代にしても、圧倒的に古代である。その時代において、ある人たちをが支配階級と言ってみたところで、それが現代の支配階級と一体、なんの関係があるのか、ということなのだ。
はるか太古の時代においては、もっと人々は素朴に生きていたと考える方が普通だろう。そう考えたとき、孔子の時代の王朝を、江戸時代における、国家支配のタクティクスとして
同値
のものとして考える徂徠の手法の方が、かなり「現代的」すぎて、トンデモだろう。

伊藤仁斎は京都の町人出身の儒家である。江戸時代は町人でも農民でも、もちろん武士でも学に志せば、学者になることができる。これは日本の江戸社会の世界に誇るべき長所である。この江戸社会から、やはり町人出身の本居宣長という学者も生まれる。町人出身の学者が『論語』を読むことによって、その読み方は変わる。仁斎は、彼が「人倫日用の間」という人びとが日常に交わるその場から『論語』を読んでいく。そこから孔子の道とは「忠信 ・忠恕」を根幹にした教えであるという読み方が導かれるのである。仁斎のすごさはこの立場から『論語』を読み切ったところにある。

そもそも、中国において、論語は支配階級のものであった。それを決定的にしたのが、朱子の解釈である。そして、その解釈の延長で、国家体制を形成したのだから、その根幹を
捨てる
ことは、あまりにも、常識外れなわけだ。
だから、そんなことができたのは、そもそも中国の「外」の人であった、伊藤仁斎くらいしかいなかったわけだ。
掲題の著者は上記の引用にもあるように、江戸時代における、「学び」の「普遍性」を強調する。江戸時代においては、どんな身分であっても、志があれば、学者になれた。
ひるがえって、これは現代の日本においてどうだろう。多くの有識者はむしろ、日本の「貴族」化を言祝いでいるように思える。国内の貧富の差が大きくなるにつれて、いわゆる、
教育
は徹底されている。しかし、貧しい家庭の子が、学者になれるだろうか。大学に行けるか。大学で上流過程に進んでいるだろうか。そういったことをやるには、非常に裕福な資産が求められてはいないか。
教育は、国民一律に「調教」するなにか、である。しかし、「学び」はそれを志したものが、実践するなにかである。むしろ、現代に求められているのは、この「学び」の場を
社会的資本
として、存在させ続けることの方じゃないのか(どうも、世間の日本の有識者は、教育という調教には興味があっても、こちらには、あまり興味を示さないようだ...。)
私たちは、この伊藤仁斎の「強引」さにこそ、むしろ、論語の現代性を感じるし、この方向の徹底においてこそ、国家主義者の、あまりにも長きに渡って繰り返され、今だに反復され続ける「教誡的言語」の凡庸さを乗り越える、その答を読んでみたくなるわけである...。

思想史家が読む論語――「学び」の復権

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