加賀考英「尾崎豊の「遺書」」

尾崎豊が自殺してから、20年が経つという。それだけの年月が流れてから、今、こうやって、冷静に彼について語ることは必要なことなのかもしれない。
尾崎豊はいわゆる、アイドルだったと言えるだろう。もちろん、そのありかたは、多少変則的だったとしても、そういった分類で考えることがふさわしいのではないか。いわゆる、シンガーソングライターとして。
私は、芸能界とかには、あまり関心もなく、うといが、そんな自分でも彼の存在を知らないわけではなかった。というか、(少し上の世代ではあったが)同時代を生きた人たちにとっては、なんらかの感情をそれなりに持っていたのではないか。それは、同じ時代を生きるという形で、存在するものであって、そういったリアリティは人々の中に残るのだろう。
記事を読んだ印象としては、昔読んだような内容ではあったが、あまりにも昔のことであるし、自分もある時期から、まったく関心をもたなくなった側であるだけに、なんとも言えない感じではあった。

尾崎豊は一九六五年、東京都練馬区で、二人兄弟の次男として生まれた。父・健一は自衛隊員、母・絹枝は保険の外交員。尾崎曰く、「貧しい家庭」だった。尾崎はそこから東京・表参道にある有名私立校、青山学院高等部に進学。ところが卒業間近に自主退学。喫煙と酒と喧嘩が原因だった。

(私はどうも、学校の中退という制度を認めたいという気持ちにならないのだが、今でも、そういったことは行われているのだろうか。自分は教育関係で働いたことはほぼ皆無なので、なかなかそういった世界のリアリティが実感できないのだが...。)
こんな感じで、毎日のように、お酒におぼれる生活をしていた彼を決定的にしたのが、ニューヨークで覚醒剤に溺れたことだという。かなり肉体的に廃人に近いところまで、行っていたということらしい。
(以前紹介した、高野悦子さんの日記もそうだったが、薬は「危険」ではないのか。あまりにも、簡単に手に入りすぎないだろうか。もちろん、覚醒剤は危険であり、そんなに簡単に手に入るようでは困るが、それ以外の医薬品だって、少なからず、危険ではないだろうか...。)
今回の記事で強調されていることは、そもそも、彼が自殺をするあの時点において、彼の肉体はかなり限界に近いところにまできていた、ということだろう。

それは尾崎が自ら死へと向かう二十日前、九二年四月五日のことだった。尾崎は迫りくる死の足音に怯え、もがき、「女神」に最期の助けを乞おうとしていた。
この日、尾崎自宅に帰ってくるや、トイレに駆け込み、またしても嘔吐を激しく繰り返した。顔が幽鬼のように白くて、血の気がない。
「何で飲むのよ! もう止めて!」
繁美夫人が悲鳴を上げた。その声を聞いて、尾崎の感情が爆発したのだ。
「全部、お前のせいだ!」
と、繁美夫人に怒りをぶつけた。
「うるさいわね!」
繁美夫人が思わずそう言い返した途端、尾崎の形相は一変した。
「お前まで、そうなんだな------ッ!」
近くの電気スタンドを掴み取るや、それで思いっきり繁美夫人の横顔を殴った。繁美夫人が床に吹き飛ぶと、今度は、尾崎は倒れた彼女の身体の上に馬乗りになって、
「頼む。俺と一緒に死んでくれぇ。お前も俺と一緒に死んでくれぇぇぇ。お前を殺して、俺もしぬぅぅぅ------」
一発、二発。尾崎は拳を振り上げた。
彼女の顔を殴った。そして、やおら彼女の首に両の手を伸ばした。尾崎は泣いていた。両の目からぽろぽろと涙を落としていた。号泣だった。
「待って。子供がいるのよ。子供がいるから今は死ねない。お願い、裕哉のお母さんだけは殺さないでッ!」
繁美夫人が下からそう叫ぶと、尾崎は、ハッと目を見開いて、彼女の上から弾かれたように飛びのいた。尾崎は項垂れて、その場にへたりこんだ。

私は人の人生には謙虚でありたいと思う。
彼自身はやはり必死に、生きた、ということでいいのではないか。それはこの記事からも伝わってくるわけだし、そういった人に対して、外野の人間がとやかく言うことではないだろう(死者への冒涜だ)。
彼が言いたかったこと(繁美夫人や息子への愛)は、彼の作品の中に、残り続ける...。

文藝春秋 2011年 12月号 [雑誌]

文藝春秋 2011年 12月号 [雑誌]