なぜ近年の文学作品は「おもしろくない」のか

近年、文学なるものが、どうも、おもしろくない。じゃあ、過去において、おもしろかったのかと言われると、答えに困るが、とにかく、おもしろくないなー、という感じなのだが。
なぜなのかな、と考えてみると、逆に、この人は何が書きたいのだろう? と思うことがある。正直、その、「おもしろさ」の「つぼ」が、なんなのかなー、という感じなんじゃないだろうか。
では、さらに、逆に、問うてみよう。どんな作品が「おもしろい」のか。
言うまでもない。
「人間」が描かれているから、だろう。
「人間」が「おもしろい」のだろう。
それは、「ねた」がおもしろいんじゃない。「キャラ」がおもしろいんじゃない。
その「人間」が、そういった「ねた」なり「キャラ」なりという
記号
を、その属性を、「現勢化」させていることは、その人の「ひととき」の現れであって、こういうものを「おもしろい」とか言っている奴は、そう言っている「自分」という先鋭な感性に酔っているにすぎない。

無限小はこれを手にとったり、計ったりすることのできるデカルト的な「外延量」でできた実在の中には、そのままの姿であらわれることがない(現勢化することがない)。それは、実在するものにとっては「潜在態にあるもの」を意味する量である。またそれは力であり、実在するものの世界を生産する力能をあらわしている。ここまで考えてきたライプニッツは、そこで非外延的なるものについての新しい概念によって、彼の微分思想を完全なものにしようとした。その新しい量を、彼は「外延量に先立つもの」(「モナドジー」)と呼んだが、それについては、すでにガリレイが彼に独自の微分の考えをうまく表現するために使った「内包(Intensio)」というスコラ哲学に由来する概念のほうが、ずっと便利だということがすぐにわかった。

フィロソフィア・ヤポニカ (講談社学術文庫)

フィロソフィア・ヤポニカ (講談社学術文庫)

(話はそれるが、ライプニッツの「無限小」解析は、数学基礎論のモデル理論によって、正当化されている。つまり、私たちは、ライプニッツ流の方法で、微分積分をやっていい(矛盾にはならない)。
このことは、何を言っているかというと、そもそも、私たちが日常使っている文法において、「無限小」を実体と考える「ロジック」がビルトインされていたって(そういうパラレルワールドがあったって)、別になんの困難も発生しない、ということなわけだ。だから、今から「そうしよう」と決めても、なんの問題もなく、世の中は回る。
大学に入って、最初にやらされる、イプシロン・デルタなんか使わずに、もっとシンプルに微積分をやれるということなのだが、かといって、それによって、一般の解析学を超えるような証明が、こっちの方法から現れたという話はついぞ聞かない(そういう性質のものみたいだ)。
数学基礎論は言ってしまえば、数学文法を、数学の「対象」にして、その数学の結果の、「もともとの」数学文法の意味を考えるような形をとるので、かなり「普通」に自己言及的になるし(数学においては、実に、さまざまなところで、自己言及が現れるだけでなく、こういった自己言及的記述を排除しようとすると、かなり初等的な概念さえ、記述できなくなる(例えば、実数のようなものでさえ))、まあ、非構成的であることはまぬがれない。それだけに、直感的じゃなくなるので、解析学の専門家であっても、あまり好んで超準解析をやるという人はめずらしい、ということのようだ。
そりゃあ、イプシロン・デルタであれば、代数的にやれるわけだし、慣れた世界なわけで、よほど超準解析を使った大発見でもないかぎり、あまり日の目を見ることはないんだろーなー。)
こういった「おもしろくなさ」は、どういった「ブランド」化によって促進されたのかと考えたとき、素朴に、ゼロ年代だとか、セカイ系だとかいった、一連のカテゴリーが、こういった分野の豊穣さをかなり減殺してしまったんじゃないか、と思わなくもない。
まあ、ヘーゲル的と言ってもいいんだけど、とにかく、「自意識」しか失くなってしまった、と言えばいいのだろうか。村上春樹を代表として、ああいった
アプローチ
でしか、文学を定位できなくなってしまっている。優等生的な「認識論」、主観と客観の一致を、ひたすら、ナルシシズム的に記述していく
間違えない
優等生文学が「試験の回答」としての「文学」なんだ、と。
しかし、そういった「定義」は、あまりに狭すぎる。もっとハイデガー的な「存在」の文学だって、ありうるはずだ。
ここのところ、アニメ化もあって、

明治開化 安吾捕物帖 (角川文庫)

明治開化 安吾捕物帖 (角川文庫)

を読んでいる。以前から、評判は知っていたが、一連の坂口安吾の評論関係は読んでいたのだが、文学は幾つかしか読んでなかっただけに、この機会に読んでみて、非常にショックを受けた(さまざまな可能性を今読んでも感じますね...)。
いわゆる、ミステリーの分類に入るのだろうと思われる作品であるが、日本のミステリーの歴史においては、ほとんど、創成期以前と言っていい、古典になるだろう。
なんと言うか、非常に、「独特」な変わった印象を受けた(後書きで、花田清輝が絶賛したということが書いてあったが、今度、その批評文を読んでみたい)。
素朴に思うことは、文学を書いている人は、そもそも
人間
に興味があるのだろうか。一人一人の人間を興味深く、インタレスティングに思っているのだろうか。
人間を書くことは、非常に「おもしろい」と思っているのだろうか。
人間観察をやっているのだろうか。
どうも近年の作品は、なんか「自分の自意識」をたれ流しているだけなんじゃないか、と思わせるものが多い感じを受けるわけで、もちろん、そういったものを、とことん突き詰めることも一つのスタイルなんでしょうけど、でもそれって逆に、そういったものの狭さも意味しているわけでしょう。
坂口安吾がどこかで、バルザックについて書いていたと思うが、ああいったおもしろさは、一見通俗的な面があったとしても、ドストエフスキーにも通じる、興味深さを感じるんですけどね。
もっと、もっと、チャレンジングな作品があっていいんじゃないか。
例えば、近年であれば、コンピュータ業界で働いている人は、毎日、仕事場で、どんなことをやっているのか。どんな人間関係になっているのか。どんな「労働」なのか。
こういったことに興味ないのかな。
じゃあ、医学関係はどうか。金融関係はどうか。政治家たちはどうか。
ミステリーにおいて、死は、人間である限り、必然的に、いつかは訪れる事態であるわけで、それが起きることは、逃れられない。そうであれば、それが「起きた」ことは、いつか起きることが起きたという必然にすぎない。しかし、そうしたとき、その死が、「なぜそうなのか」は、本人が自ら答えられない、というところに、
社会性
を生み出す。つまり、その人の死を「原因」する、その人の「人間関係」が照射される。そこには、実にさまざまな
人間
が介在する(さまざまな「場所」で殺人事件が起こる)。下層階級から上層階級から、あらゆる人々が。そして、その「死」を問うことが、必然的に彼らの人となりを問うことを要請する。
推理
とは「共感」である。探偵は容疑者を尋問する。尋問とは、病院における医者と患者の関係と「同型」である。精神分析は患者との対関係において、患者の「反発」において、治療を画策する。そこに患者の無意識が反映されるからだ。
探偵も同じである。
容疑者との対関係において、容疑者の観察とは、容疑者への「共感」であり、そこから生まれる、「違和感」である。
さまざまな、階層のさまざまな、日々の日常を生きている一人一人の、それぞれの場面で生まれる感情への、素朴な共感感情(違和感)が、さまざまな「視差」を生み出す。
きっと今の「自分がかわいい」作家たちは、こういった「人間」を「おもしろい」と思わなくなったのだろう...。