デバッグ的生き方

私たちは、だめ、である。
私たちは、だめ連、である。なんちゃって。なにが言いたいかというと、私たち自身の能力には、限界がある、ということである。
熱力学第一法則によって、私たちは、どんなに体をフル回転させても、使えるエネルギーには限界がある。やれる仕事には限界がある。
ということは、私たちには、学習能力に限界があるということになる。どんなに勉強しても、私たちは「疲れて」、途中で根を上げる。途中で、リタイアしてしまうわけだ。だから、私たちは、「あらゆる」仕事を完成させられない。それは、私たちの肉体的限界が要請するものであって、だれもこれに逆らえない。私たちが作る芸術作品は「必ず」完成しない。つねに、
失敗
するのだ。完成しないということは、つまり、バカだ、ということである。いつも、トンチンカンなことしか言えない。
みんな、人それぞれ仕事がある。みんな、自分の仕事に忙しく、「そのほか」のことは、どうがんばっても、おざなりになる。これは、
資本主義
が「要請」するシステムである。私たちはこの、資本主義によって、そうであることを強いられている。
しかし、こう考えてくると「不安」にならないだろうか。どこかに完璧な人がいてもらわないと「困る」んじゃないか。たとえば、原発がそうだった。どこかのだれかが、あれを完璧に管理していてもらわなかったら、大変なことになったんじゃないか。ところが、だれも、あれをどうコントロールしなければならないのかの
仕事
を「完成」させた人はいなかった。未完成な管理システムを、だれかが、「なあなあ」で作って、それを完璧「だということにしよう」と、みんなで
崇め奉っていた。
しかし、そんなことでいいのか。今の、福島の農産物のセシウム問題もそうだ。ちったー名の知れた、有識者が、まるで、ダダっ子のように、福島の農産物を心配で忌避している母親を「嘲笑」し、「あざけり笑う」コミュニケーションがネットでは毎日のように繰り返される。そんなに普通の主婦が
無知

無能
なのが、おかしいか。おもしろいか。あんたの笑いの壷か。そういう人だって必死で毎日を生きているんじゃないかという想像力もないのか。そんなにお前は、そういった母親なんかと違って、頭が良くて、「善い」のか。だったら、彼女たちを徹底的に「啓蒙」する、「完璧」な安全規準、安全マニュアルを作ってみたらだろうだと、ちょっとは挑発したくもなるが、どうも彼らには、どうしてそういった作業が必要なのかすら分からないのだろう。
だれもが馬鹿である。
だれもが、「それなりに」知能指数が足りない。問題は、
「それでも」回る社会
を、どうやったら作れるか、なんじゃないか。
こういうふうに考えてみたら、どうだろう。私たちが毎日、日常的に行っている、プログラミング言語を書く行為(書くといっても、PCでということだが)において、まず、
当たり前
に、
必ず
間違って書く。というか、能力のあるプログラマーほど、「わざと」間違えて書くのである。というか、正しいとか、間違っているとか、そういうんじゃない。書いているときは、その
意図(アイデア
を形に「まず」すること(クリアにすること)が大事で、微細な部分なんて、いくらでも後から、とりつくろえる。それが、
デバック
である。例えば、ある文字をタイプミスしていたとする。しかし、そんなことは、
機械が教えてくれる。
コンパイルしてみれば、機械が勝手に、「こんなのコンパイルできねって」と教えてくれる。じゃあ、なんか知んないけど、全部のチェックをすり抜けて、実行バイナリができちゃったとしましょう。
でも、なんの問題もない。
テストすればいい。仮想的な単体データをつくって、そいつに喰わせてみればいい。そいつが吐き出すものが、使いもんにならなきゃ、どっかがバグってるということであって、つまり、バグがある、ってことが分かるってことで、そうなりゃ、ブレークはるなり、ステップ実行するなりして、想定通りの動きをしているかを確認すればいい。
でも、でも、ですよ。そのチェックさえすり抜けちゃったら、どーしよー。
ま。いんじゃね。
いや。もちろん困るんですけど、でもそれって、「まずほとんど起きない」ってことでしょ。だって、起きれば分かるわけだから、起きないから気付かないということなんだから、つまり、起きないんでしょ。
どうせ起きないことを心配しても、しょうがないでしょ(もちろん、ほとんど起きないことが、起きないことではない。それは、福島第一を見れば分かる。つまり、それは「リスク」であるが、ウルリヒ・ベック的なリスクであって、つまり、これを行うべきだったのかの部分に、綿密な(シュミレーションの)「デバック」が必要だったのだ(実際、多額のお金もかかっているわけですし)。つまり、そもそも、原発を日本で50基超えを許してしまったことが問われているわけである)。
つまり、上記にあるような、古典的なステップは「けっこう」強力だということなのだ。上記のようなステップによって、「かなり」完璧に「なっちゃう」。なんか、テキトーなことしかしてなかったよーな気もするけど、なんだかんだ言って、
人間と機械の「相性」はいいんだな。
機械は、なんてったって、人間と違って「完璧」だから、いつも「正しい」ことを教えてくれる。ということは、どういうことか。機械を
日常
とする人間は、そういった人間が本来、備えていた、その「機能」を、機械に
代替
させて「いい」ということを意味する。つまり、人間のその「機能」は「退化」するのである。能力が衰えるなどと言うと、人間も堕落したな、とか思うかもしれないが、そういうことではない。上記で言ったように、そもそも、人間には能力的な限界がある。人間のある機能を機械に代替させるということは、まずもって、その人間の能力の壁を
超える
ためのステップなのであって、つまり、人間は「さらに」バカになることに「よって」、その人間の肉体的限界を超えるのである。
今後、こういった、むしろ自分が「不完全」であることを、恥じることのない、「新人類」が増えるだろう(まさに、ガンダムにおける、ニュータイプである)。しかし、そのことは上記の意味で、悲観することではない(かもしれない)。
上記のことは何を意味しているのだろうか。
つまり、これはコンピュータだけの話じゃない、ということなのだ。つまり、「信頼」だ。みんな、「あらゆること」を、完璧にこなそうとしすぎなのかもしれない。もっと、他人に頼っていいわけだ。他人に甘える人は、それだけ、自分のエネルギーを、瑣末な作業に使わないですむ。まさに、分業社会で、
お願い(ハートマーク)
と、一言言える人が、さまざまな場面で「余力」を残し、本来の自分の作業に集中できるのかもしれない。
ここでの大事なポイントは、テキトーにやるという所ではない。人々のテキトーを「サポート」するシステムをうまく使いこなす、ということである。そうすることによって、自分が集中したい場面に集中できるようになることが、より生産的だということで、私たちは上記で、有識者の批判をしたが、逆に言えば、世間の有識者が、自分の専門以外で、まったく、どうしようもない、だめな存在であっても、あまり逆上しない方が賢いのかもしれない、ということでもある。まあ、いつかその人も理解してくれるかもしれない、と気長に待つくらいが、ちょうどいいのかもしれないということなのだが、私たち自身が欠点が多いですからね。どこまで、気長でいれるんですかね...(ちょっと、荻生徂徠的な結論になったな)。