津田倫男『日本のマイクロファイナンス』

みんな、だれでも思うことは、お金持ちになりたいなあ、ではないだろうか。ところが、これについては、実は、だれでも実現できる。つまり、お金を
借りる。
借金すれば、だれでもお金持ちになる。つまり、だれだって裕福な暮しができる。しかし、多くの人がそうしていないように、この方法には幾つか問題を抱えている。
一つ目が、まずもって、貸してもらえるのかが怪しいことである。なぜ、その人は自分にお金を貸してくれるのか。よく考えたら、これほど不思議なことはない。その人と私には、なんの接点もない。他人なのに、そんな人がなんでお金を自分に貸してくれるなんて思えるだろう。
お金の貸し借りほど、その「社会」性が問われる問題はない。この問題を避けた、
ソーシャル
論は、凡庸かつ無益である。つまり、そんなものは、お金持ちの暇つぶしにすぎない。結局、なぜ、専門家は信頼されないのか。お金の問題を避けて、空理空論に遊ぶからだろう。どうお金を回すのか。このグランド・デザインを提示することなく、理想社会をイメージすることは、反動的である。
なぜ、現代の日本のような社会において、この問題が難しいのか。

繰り返しになりますが、収入の確保というのも難題です。インド亜大陸で広範囲に行われている「針仕事」で零細個人がまとまったおカネを得るというビジネスモデルを日本で再現するのは、ほぼ不可能だと思われます。社会人の多くが給与所得者であり、彼らが失業や不況によって資金を必要としている状況下、ちょっとした仕事で日銭を稼ぐというのはなかなかに難しい問題をはらんでいます。

日本のように、あらゆるインフラが高価格になってしまっている国では、そもそも、この国で生きて呼吸をしているだけで、毎月、多額の出費を迫られることになります。私たちは、その状況を「貧困国かわいそう」とか、慈善たれているが、むしろ、かわいそうなのは私たちの方でしょう。だって、働かないと、どんどん出費がかさみ、
貧困国では考えられもしない
ような高額の借金が増えていくのですから。私たちは、彼ら貧困国の人とは比べものにならないような「高付加価値」の仕事を「選んで」やらなければ、それだけの出費に耐えられないというのですから。
しかし、そんな仕事はどこにあるんでしょうかね。TPPで、日本の仕事は「すべて」海外の人にやってもらうんでしょ。どうするんですかね。
私には、新古典派経済学者たちは、巨大企業以外の企業は、すべて滅んじまえ、と言っているようにしか聞こえません(私には、新古典派経済学者たちは、奴隷制の復活、身分の復活をなんとか実現したい、と言っているようにしか聞こえません)。
つまり、彼らは「財閥」主義者だと思っています。つまり、中小零細企業は、そもそも、収益力がないんだから、この日本社会には、いらないと言っているんだと思っています。彼らに言わせれば、そういう存在は、税金も払わない、金食い虫であって、社会の癌なのでしょう。彼らが興味があり、目を向けているのは、そういった財閥企業だけであって、そういった企業だけが、この日本社会の浮沈を左右する
英雄
的な存在なのであって、あと他の、そういった存在と関係なく、細々と生きている人たちは、福祉にばかりお金のかかる、社会の無駄、なのでしょう。
今後、TPPによって、日本国内のサービスは、海外の巨大財閥によって、提供されるようになるでしょう。地方のショッピングは、巨大デパート以外は存在できなくなり、そういった巨大デパートが、その地域の、保育園への、お出迎えなどの、公共サービスさえ行うようになるでしょう。
そういった巨大な資本だけが、その地域のあらゆるサービスを独占するようになり、その他、大勢は、なにもすることがなくなります。出費ばかり増えるのですが、困ったことに、稼ぎ口がありません。あらゆるサービスは海外財閥が、安価にみんなに配るので、だれも、自分たちでなにかを生み出す気力を失うのです。どうせ、そんな安価な価格で提供できるわけがないから。
しかし、あらゆる企業は、小規模から始まります。なぜ日本のバブルからの復興が実現しないのかは、単純に日本社会の閉塞にあるでしょう。日本に新しい産業が生まれれば、その分、既存の企業の収益は減少します。しかし、たとえそうであっても、新たな産業の活性化が必要だと考えるかどうかでしょう。もし、日本にこれ以上の企業が必要ないというなら、これ以上、会社を増やしてはいけないという
規制
をすればいい(まさに、法の支配だ)。そうすれば、日本には、財閥しか企業はなくなり、その財閥にだけ、優秀な企業戦士が安価な給料で集まるようになり、日本の財閥は、世界競争力を身につけるかもしれません。しかし、それによって犠牲になるのは、日本の人々でしょう。
日本が、恐しいほどの、失業社会となったとき、なにが起きるのでしょうか。
たとえば、日本の2006年に施行され、2010年に実施された、いわゆる、総量規制によって、日本社会は、ますます、小規模経営が難しくなっているようです。

この総量規制がなぜ零細企業やあまり豊かでない個人を苦しめているのか、というのはこういうことです。
銀行や信金、各種公庫(労働金庫など)による貸付は総量規制の対象外となっていますが、銀行傘下の貸金業者は対象に含まれているのです。つまり、銀行子会社であるクレジットカード会社からのキャッシングや貸金業者消費者金融会社=サラ金、不動産ローン専業会社など)からのローンは、総量規制によって縛られるということです。

ショッピング枠で買い物をさせ、品物を安く買い取って、迂回融資している集団のことが話題になりますが、サラリーマンであれ、主婦であれ、本当にカネに困るとこうした割に合わないことにまで手を出してしまう恐れを総量規制は助長しています。ショッピング枠は規制外というのもこうした悪辣な手口をのさばらせることになっているのです。

繰り返しになりますが、サラ金、クレジットカード会社によるキャッシング規制として施行された総量規制にも銀行は無縁ではありません。銀行グループに反省を求めたいと私がいうのは、銀行はこうした子会社(サラ金、クレジットカード会社、不動産ローン専業会社など)を親会社としてコントロールしているからなのです。

よく考えてみると、銀行とは、おかしな組織である。国家の保護により、特権的な地位を与えられていながら、彼らは、中小零細企業にお金を貸しません。どんなに彼らが困っていてもです。じゃあ、彼らはどうするか。
自分たちの傘下の子会社である、高利子のサラ金に、彼らを誘導しようとするのだ。なぜなら、その方は利率が高く儲かるから、である。つまり、銀行とサラ金は、
グル
なのだ。彼らの巧妙な連携プレーによって、中小零細企業は苦しい経営を「法的」に強いられている。しかし、もしそんなことがあるのなら、銀行に公益性などないことになるだろう。こんな存在に国家の保護を与える必要などなくないか。そもそも、銀行なんているのか。こんな国家とグルになって悪徳商売しかやらない存在が。
あらゆる権力は堕落すると言ったのは、マックス・ウェーバーだったと思いますが。平和は、社会の「規制」を増長し、社会の規制は一切の既得権益の安穏を目指します。頽廃し滅びる社会は、底辺からの成り上がりを、徹底して防止する、究極の
身分
社会だと言えるでしょう。身分とは、だれかが制度として決めるものではありません。そうではなく、制度の方が、人々に絶対にそれぞれの身分間の移動を「許さない」ような制度にしていくことであるからです。そうでなければ、それを「身分」とは呼びません。
究極的に言って、平和は必ず身分化に向かうでしょう。なぜなら、現在の高身分の人たちの目標は、その階級の維持だからです。私に言わせれば、近年言われる「ポピュリズム」など笑止です。なぜなら、そうならないように、絶対に権力はそのパワーを使って、その方向に向かう(つまり、身分化に向かう)に決まっているからです。彼らの方が、圧倒的に社会的な実行力をもち、社会を動かせる資本をもち、そういう運動をするための「余暇」もある。それで、ポピュリズムによって引っくり返ると思っている方が、どうかしてる。むしろ、そう言うことで、逆に向かう推進力を得ているのでしょう。
しかし、たとえ、そういった日本社会の「頽廃」の慣性力の中においても、私たちは、その圧力に抵抗していかなければなりません。つまり、貧乏人はそれでも、この日本社会で生きていかなければなりません。
では、どうすればいいのか。
大事なことは、新たなイノベーションにもとづいた、起業が増えなければ、社会の活性化は生まれない、ということでしょう。つまり、人々は起業をしなければならない。つまり、貧乏人はお金を借りて、会社を起して、新たな
価値
を生み出していかなければ、ジリ貧だということです。つまり、それだけが、唯一の社会を活性化する突破口だということです。
最初の問題に戻りましょう。お金を借りるという行為こそ、その「社会性」が問われる行為はありません。

  • お金X円:ある人A --> ある人B

ある人Bは、ある人Aからお金を借りました。借りたということは、いつか、お金を返さなければなりません。しかし、同額というわけにはいきません。せっかく貸してくれたのですから、色をつけないと、貸してくれた人は、なんの得もなかったということになって、貸す行為のモチベーションを失うでしょう。

  • お金X+Y円:ある人B --> ある人A

この二つの関係は、一見、「安定」しているように思えます。なぜなら、お互い、「得したな」というのが、伺えるからです。前者の関係は、ある人Bがお金を欲しかった、ということを意味します。欲しかったものを手にできたのだから、意味があったでしょう。後者の関係は、ある人Aは損をしなかった、ということを意味します。人にお金を貸すのも悪くないな、という感情を残すでしょう。
ところが、この関係は、砂上の楼閣です。実に「不安定」です。まず、最初の関係において、後の関係が実現される保証はないからです。借金はいつも、踏み倒される可能性にみちています。その可能性を乗り越えて、お金は貸されなければならないという、難しい問題を常に抱えています。
では、この困難を打ち破る方法はないのでしょうか。もしそれが存在しないとするなら、今の日本社会はないでしょう。つまり、私たちは産まれなかったということになります。
例えば、日本には昔から、頼母子講(たのもしこう)と呼ばれる仕組みがあったことが、掲題の本でも紹介されています。大事なことは、各自がさし出す金額が少量でありながら、それぞれを合わせると、かなり大きなお金を動かせることです。また、損失を踏み倒した人は、村八分になり、排除されますが、しょせん、多くの出資者の中の一人にすぎないので、
大勢
に影響を与えるものではない、「無視できる」影響だということです。
銀行が国による保護を受けながら、貧乏人を相手にしない「貴族」身分になったということは、私たち貧乏人の「ため」の金融が今、求められています。そういった、マイクロファイナンスを、どのような「理念」によって実現すればいいのでしょうか。難しい問題です。つまり、現代日本
頼母子講(たのもしこう)
をどのように実現すればいいのか。
たとえば、掲題の本ではソーシャルレンティングの例として、アメリカの会社でプロスパー社(Prosper)を紹介していますが、この企業はまず、貸し手と借り手の情報を集めます。そして、それを人材派遣会社のように、データベース化します。あとは、それぞれを、お見合いのように、紐付けていくだけです。お互いの条件の合う人同士が契約すれば、あとは勝手にやってくれ、手数料はちょっと、いただくけど、というところでしょうか。
これのいいところは、すでにここには「銀行」が介在していない、ということです。役に立たない銀行は無視して、貧乏人に経済活動を行う可能性を与えていることでしょう。
しかし、この方法だけでは、昔からある、借金踏み倒しの問題などは、まったく解決されていません。
結局は、この問題に立ち向かうには「正攻法」しかないのです。
まずは、各投資家の投資先の分散化でしょう。これは、一種の頼母子講であって、これによって、たとえ、一つの投資先が焦げ付いても、全体の中での影響を極小化するわけです。このためには、できるだけ多くの投資家の参加が求められる、と言えるでしょう。
そして、掲題の本が重要視するものに、プロジェクト・ファイナンスがある。

以上の説明で、PFにおいては、通常の借り手対貸し手の関係がより複雑になっていることがおわかりになるでしょう。これは一つのプロジェクトは、一つの会社よりも複雑な事業を行っている訳ではないのに、事業そのものを細かく分割して、事業に潜むリスクを明らかにしようとするためです。有り体にいえば、貸し手である銀行が自分の負うリスクを極力減らそうとしているのです。
このくらい細かく融資に伴うリスクを分析し、分散しようとしているのですから、金融のノウハウとしてはより高度なものです。日本の銀行がこうしたPFにもっと目を向ければ、通常の融資に関してもリスクをより適切に判断できるはずなのですが。
さらにいえば、PFのノウハウをマイクロファイナンスに活かすこともできるかもしれません。借り手を一種のプロジェクト主体として捉え、彼らの置かれた環境の変化によって返済可能性も払える金利もどんどん変わってゆくと考えるのです。言うは易し、行うは難しもしれませんが、こうした見方が零細企業や低所得個人に対してまったくなされてこなかった点は思い出す価値がありそうです。

一般にお金を貸してほしいと言った場合、貸す側は、どうやって、その後、利息を含めて回収するかが、問題になります。多くの場合、それは、「担保」によります。自宅や所有物を差し押さえたり、連帯保証人をつるしあげるわけです。これは「安心」でしょう。とにかく、そいつが、担保物件を大事にしていてくれる限り、とりっぱぐれることはないのですから。しかし、これでは、この
資本
の運動を活性化することにはなっていないと言わざるをえないでしょう。担保がなければ、資本の運動が始まらないのなら、日本の資本の運動は担保によって「制限」されていることを意味します。担保の量が日本の資本の運動の量を決定していることになり、ダイナミズムに欠けるでしょう。そもそも、貧乏人をどうやって起業するのかの、今まで論じてきた主旨に矛盾している。
つまり、こんな金貸しは「邪道」なわけだ。
お金を借りたい人は、未来において、それだけの金額を返せると思っているから借りたいのであって、そのお金を今返せるのなら、なんで借りたりするわけ。だとするなら、そのリスクは、当然、その未来のプロジェクトのリスクでなければならないだろう。
もちろん、あらゆるリスクは時々刻々と変化する。その変化によって、リスクも変化する。その流動性を含んで、確率過程によってコントロールする必要がある。つまり、ダイナミックな日本社会を実現するためには、難しいがこういった作業をだれかが実現しなければならない。それによって、上記の「担保」の必要性を、少なくできるのだから。
そして、最初に言った問題にも関連するが、もっとも大事な問題は、多額の借金が残ってしまった、つまり、事業に失敗した人でも、その後、働き口を見付けて、働いて借金を返せるような「社会」を実現することだ、と言えるでしょう。
(現代の知識社会において、どのように雇用の流動性を実現するのか。こういった問題を軽視し、お金持ちにしか興味をもたない功利主義的な経済学者って、必要なのかな? うるさくて邪魔なだけのように思えるけど。)