原武史『滝山コミューン一九七四』

近年読んだ本の中では、一番じゃないだろうか。
あらゆる、現代の諸矛盾を一瞬で解決する方法がある。
全体主義
である。前回、私は法は守らなければならないものなのか、と問うた。しかし、これはどこか「自明」なことを語っているよう多くの人には思われたであろう。法を守らないなんて、どうして言えるだろう。しかし、私が言いたかった意図は、もう少し微妙なことである。法を守るとは、一体、何を意味しているのか、なのである。
法とはなんなのか。
法とは、「みんなで決めたこと」である。もちろん、法の中身をみんなが決めた、ということではない。そうではなく、内容などどうでもいい。とにかく、みんなで、それに「従おう」と決めたということなのだ。
たとえば、今ある法律に、正面から、これは憲法違反だ。人道の正義に反している、だから自分はこれに従わない、と訴えているケースは、まず、一部の学者が研究の一つとして行なう場合があるくらいで、基本的に、ほとんどの人は何も言わない。言わないということは、受け入れているというふうに受け取られる。
しかし、もし、それを「受け入れる」と言ったとするなら、その言った言葉の重さは、どれくらいのものがあるのだろうか。
もし「受け入れる」のなら、前回も言ったように、まず、その「受け入れる」と言った人が、毎日、それを守っているのかを
監視
しなければならないだろう。だって、そうしなければ、その人が守ったのかを確かめられないのだから。
そこから、こうなるのである。
どのような「システム」によって、この監視を実現させるか。
掲題の本は、1974年に小学校6年生であった、著者の「体験」である。この小学校では、当時、ある若い先生によって、あるクラスにおいて、非常に特異な、集団教育が行われていた。
私は今、それを「特異」と言った。ところが、これは、ある教育団体の「活動」の一つであったわけである。

全国生活指導研究協議会、略して全生研は五九年、日教組教研第八次大阪集会で生まれた民間教育研究団体である。

だが全生研で強調されたのは、集団主義教育であった。「大衆社会状況の中で子どもたちの中に生まれてきている個人主義自由主義意識を集団主義的なものへ変革する」(同)という文面からは、世界が東西の二大陣営に対立していた時代にあって、まだ理想の輝きを失っていなかった社会主義からの影響が濃厚にうかがえる。「個人」や「自由」は「集団」の前に否定されるのである。
このような集団主義教育は、旧ソ連の教育学者、A・S・マカレンコ(一八八八〜一九三九)の著者によるところが大きかった。

六三年には、全生研の教育方針をまとめた『学級集団づくり入門』が明治図書出版から刊行され、七一年には同書の第二版が刊行された。

全生研によれば、集団とは「物理的なちからとしての存在」である。「集団はひとつのちからになりきらなければ、社会的諸関係をきりひらいていき、変更していくことは不可能である。まして、非民主的な力に対抗していくためには、集団はみずからを民主的なちからに高めるほかないのである」。
集団は「民主的集団」、つまり「民主集中制を組織原則とし、単一の目的にむかって統一的に行動する自治的集団」にならなくてはならない。そのためには目的自覚的な教師の指導が不可欠であるが、「集団を民主的なものにするのはあくまでも集団自身であり、子どもたちである」。児童は教師から「正しい指導」を受ければ、必ず集団の担い手としての自覚をもち、自ら集団を変えてゆくとされるのである。
「学級集団づくり」には、「よりあい的段階」「前期的段階」「後期的段階」という三つの発展段階がある。「学級集団はこのような三つの発展段階をたどりながら、その合目的的な発展の法則生を展開していくのである」。ただし実際には、「後期的段階」の実現は「まだかなりむずかしい」とされる。
「よりあい的段階」とは、児童がまだ集団の認識をもち得ず、学級集団が教師の権威によって支配される段階である。これに対して「前期的段階」とは、教師に代わって「核」と呼ばれる児童のリーダーが育ち、学級の諸活動が核を中心として展開されることで、学級集団が「民主的自治集団」としての実質を獲得する段階である。前者から後者への発展が想定されているのは言うまでもないが、それだけでは十分ではない。
その理由は、次のように説明される。

集団づくりは当面する集団の内部の民主化だけで満足することはできない。それは同時に、その集団の外にも絶えず民主的集団を築き出そうとする。たとえば学級集団づくりは、さしあたって学級を手がかりとしつつ、それを民主的集団として形成していくとともに、そこにとどまることなく、他学級へ、全校生徒集団へ、さらに家庭や地域諸集団へとその活動領域を広げていく。このように当面する集団の外に民主的集団を築き出していくことこそ、また、子どもたちをそのような民主的集団の現実的なにない手にまで形成していくことこそ、集団づくりの本来的なテーマなのである。(前掲『学級集団づくり入門』第二版)

全生研の唱える「学級集団づくり」は、最終的にはその学級が所属する小学校の児童全体を、ひいてはその小学校が位置する地域住民全体を「民主的集団」に変革するところまで射程に入っていたのである。
「滝山コミューン」の思想的母胎がここにあった。

ここにおいては、「集団を一つにする」ということと「民主」が「等価」になっている関係が理解されるだろう。「みんなが一つになる」ことが、民主主義なのだ、と。よって、あらゆることは、
集団行動
となる。みんな、一糸乱れる、規律正しく、我々一人一人が、国家の一つの機関としての、役割の果たす。この共同体においては、幾つかのポイントが指摘でいるだろう。

  • この集団を構成するメンバーは「小学生高学年」という、非常に幼い、義務教育過程である、ということ。つまり、非常に微妙な年代を 対象にしていること(例えば、中学生にもなると、体格は大人以上になって、大人の肉体的なアドバンテージがなくなり、上位下達がなかなか、機能しなくなる。教師への「きれる」といった校内暴力も、体力的に教師が抑え付けられなくなる)。
  • 上記の運動則から、教師は、「積極的」に、生徒の「自治」に介入する。これも、中学生以上になると、実際に自我も大人並みにしっかりしてきているので、なかなか、教師が介入できにくくなるが、小学生はそこが容易。
  • 学校の教師という「国家権力」なので、生徒の保護者も、自分の将来になりのされるかが恐く、逆らえない。どんなに共産党に関係してようが、国家権力であることには変わらないので、本気で教師と対立した場合に、自分の将来を、完全に破壊されるパワーが彼らにはあるのではないか、という疑いにとらわれる。

教師というのは、微妙な立場である。
彼らは、基本的に国家の保護の下にいる。ということは、生徒を「監視」する、警察に近い存在と思われるだろう。上記のように、一見「民主」とか言って、自由にやらせてくれるのかと思うと、まったく違う。学校の先生なんて、生徒に勉強だけ教えていればいいんじゃないかと思わなくもないが、むしろ、彼ら先生
自身
が、生徒たちと気持ちなんて関係なく、「反対」なわけである。なんで、休みの時間まで、教師の「強制」するレクリエーションをやらなければならないのか、そんな時間があったら、独学していたいと思う子どもたちがいたとしても、教師が、
ほかの子どもたちを追いてけぼりにして、自分だけ勉強できればいい
といったような、子どもの「性根は腐っている」というイデオロギーの持ち主なわけである。ただでさえ、国家権力とつながる、(内申書になにを書かれるか分からない)学校の先生に逆らえないと思っていることに輪をかけて、「勉強がしたい」なんていく、性根の腐った優等生の根性を根底から叩き直さなければ、それが私の「使命」だ、と思い詰めちゃってるわけで、あらゆる子どもを、「自分だけ」という態度を、矯正して、「クラスの協調行動」を、あらゆることに優先する、「勉強しない」子どもに、矯正し直そう、というのだから、なんとも「本末転倒」にしか思えないわけなんですけどね。
このヘーゲル的な全体主義は、上記の記述だけでも、段階的に具体的なイメージが浮ぶわけだが(それだけ恐しいわけだが)、さらに、実践編が以下となる。

4年5組が行った課外活動の一つに、「おにぎりハイキング」がある。「学級会」の時間に当たる土曜日の四時間目と放課後を使い、七小周辺の公園やグラウンドにおにぎり一つを持参して、歌やゲームをしたり、一緒に食事をしたりするというものである。
この課外活動は学期ごとに行われたが、班ごとに係を決めて行動するものとされた。ふだんの学校生活でも、4年5組は班が完全な単位となっていた。まず男女二人の児童が班長となり、班長以外の児童を教室の外に閉め出しておいて、誰が自分の班に欲しいかを決めた。班長うしの奪い合いになる児童もいれば、どの班からも指名がかからず、売れ残ったままの児童もいた。
そうした児童は、結局どこかの班に拾われることになる。クラスの誰が人気があり、誰が人気がないが、白日のもとにさらされるわけである。班の数は四つないし五つで、班がえも時々行われていたが、売れ残る児童はたいがい決まっていた。
「おにぎりハイキング」では、各班が「レク班」「歌声班」「日直班」「道案内班」と呼ばれる係を担当することになっていた(ただし「道案内班」はないこともある)。活動に際しては、「よりあい的段階」にふさわしくというべきか、先生が原案を作成し、学級会でどの班がどの係を担当するかを決めた。

日直班はもう少し説明が必要だろう。
この原案の日直班の説明には、「目標点5点」という不可解な一文がある。
全生研の主要メンバーの一人である家本芳郎(横須賀市立池上中学校教諭=当時)が編者となっている『日直の指導』(明治図書出版、一九七四年)によれば、それは「学級の現状をふまえた学級の達成目標数」にほかならない。「合図があったら三分以内に集合する」というのが、ここでいう目標に当たる。
この目標を達成できなかった児童は、罰として1点を与えられる。つまり「目標5点」とは、合図があっても三分以内に集合できない児童を各班で最大五人以内に抑えるのを目標とするということであり、日直班とは、この目標が達成できているかどうかを注意深く点検する係なのである。
学級会ではまず、各班が話し合い、どの係に立候補するかを決める。中村美由紀が属する班は九人いたが、レク班を五人が、歌声班を四人が希望した。日直班を希望したのは一人もいなかった。多数決により、中村の班はレク班に立候補することになった。
たかが一クラスの課外活動の係を決めるだけなのに、なぜ立候補などという大げさな手続きが必要なのか。それは、班は四つあるはずなのに、係は三つしかないことに関係がある。つまり、すべての班がいずれかの係を担当できるわけではない。必ず、どの係も担当できない班が一つ出てくるようにできているのである。
同じく家本が編者となっている『係活動の指導』(明治図書出版、一九七四年)によれば、この方式は各班が係を一つずつもつ「班=係制1」に対して「班=係制2」と呼ばれ、「班=係制1」よりもすぐれているとされる。その理由を同書は、次のように説明する。

近頃、班=係活動を総会に基礎をおくものにするため、六班=五係といった実践がすすめられている。つまり、班の数よりも一つだけ少なく班=係をおきいつも一つの班だけは、係をもたないようにしておくことである。そうなると、しごとのない班はなんとかしてしごとを得ようとし、そのために、他の五つの班のしごとを点検・評価し、そのよいところをとり入れたり、悪いところを批判したり、あるいは、総会からしごとを与えられなかった理由となった欠陥を克服しておく。そして次の総会にしごとを得るように立候補する。

つまりこの方式は、班どうしを競争させる「班競争」の一環として考案されたのである。係になれなかった班は「ボロ班」「ビリ班」などと呼ばれたが、各班はそうならないよう、自分たちが希望する係に立候補し、「方針」と呼ばれる声明文を読み上げて、自分の班がその係にふさわしいことを訴えなければならない。

学校の先生が、自分のクラスの何人かを、当たり前のように「ボロ」「ビリ」と言って、馬鹿にする。ちゃんとできない奴らと、嘲笑の態度を示すことによって、他の子どもたちに
模範を示す。
子どもたちは、教師の嘲笑する子どもは、なんだ、こいつらは、クラスの癌なんだから、みんなで好きなだけイジメたっていいんだな、と「確証」を得る。だって、教師が自分でやってるんだから、教師を模範とする子どもたちは、むしろ、そうしないと(そういった子どもたちをイジメないと)、内申書に変なことを書かれてしまう。
しかし、これが「競争」による、子ども自身の「自覚」の覚醒なんだってさ。子どもたちは、このプレッシャーの中で、自らに目覚め、進化論的により求心力が増していく、と。
子どもたちは、いつ自分が教師に落伍者扱いされるかに恐怖し、そのプレッシャーの中から、強くなっていくんだとさ。
そして、彼らの「全体主義」教育は、教師から、一部の子どもたちを、
能なし
呼ばわりするだけでなく、今度は、子どもたち自身が、自分たち子どもたちの中に、「集団行動」をうまくできない子どもへの糾弾行動が
自生
してくる。各所で、子どもたち自身による、「集団の規律を乱す」子どもの、吊し上げ大会が、開かれ、子どもたちは、子どもたちに、土下座し、精神の隅々まで、反省の態度を徹底させる(もう、学校の勉強の成績とか、そっちのけなんでしょうね。そんなものは、どうでもいい、と)。

六八年から六九年にかけての学園闘争では、全共闘の学生が大衆団交やつるし上げを通して、大学のトップや教授に自己批判を強要する「追求集会」がしばしば開かれたが、驚くべきことに、全生研でもこのような行為を「追及」ではなく「追求」と呼び、積極的に認めていたのである。
次に引用するのは、その説明である。

集団の名誉を傷つけ、利益をふみにじるものとして、ある対象に爆発的に集団が怒りを感ずるときがある。そういうとき、集団が自己の利益や名誉を守ろうとして対象に怒りをぶっつけ、相手の自己批判、自己変革を要求して対象に激しく迫ること----これをわたしたちは「追求」と呼んで、実践的には非常に重視しているのである。(前掲『学級集団づくり入門』第二版)

このように、「集団の名誉を傷つけ、利益をふみにじるもの」が特定され、その対象となる個人に「怒りをぶっつけ」、「相手の自己批判、自己変革」を要求するというのは、マカレンコの著作には見当たらない。なぜならマカレンコは、集団が個人と対立している場合、その個人を正面からたたけば、「だめになってしまうかもしれない」として、個人を保護するための「迂回作戦」をとえう必要があるとしているからである。マカレンコが重視したのは、あくまでも「規律の美」であって、それに従わない個人の特定ではなかった(「ソビエト学校教育の諸問題」、『マカレンコ著作集』第六巻、明治図書出版、一九六五年所収)。この点では確かに、大西忠治が「日本の現在の集団主義教育をマカレンコのやきなおし、その直輸入と見ることには反対です」と述べたのは当たっていた。
大西の『核のいる学校』(明治図書出版、一九六三年)では、自ら「追求」を実践した大西が、集団活動に関心を示さない生徒を「問題のある班員たち」として巻末に一括して氏名を掲げ、「成績だけしか興味がない」「遠足の日に『行きたくない』と欠席する」「クラスでもっとも問題のある生徒」などといった言葉を浴びせている。

それにして、すごいですよね。学校の先生が、生徒を、問題児呼ばわり、って。まあ、そんなに先生は「えらい」わけなんでしょうね。社会主義教育も浸透しているわで。また、こういった「全体主義」教師は、ある意味、楽なんでしょう。
だって、学級崩壊したくても、なんないでしょ。だって、生徒自身が自主的に、教師の指示するレクリエーションに励むようにまでなっちゃってるわけですからね、勉強なんてそっちのけ、で。先生にほめられるためなら、勉強なんてやっちゃだめ。他の生徒をさしおいて、勉強してるなんて、集団行動を乱す、「矯正」対象なんでしょうね。
しかし、他方において、上記のような、全体主義的なイデオロギーは、たとえ、もっとマイルドな形になろうと、まったく、同型で、
あらゆる場面
において、存在していそうに思うわけですけどね。とにかく、やっかいなのは、小学生はあまりに幼すぎますよね。彼らには、まだ、明確な自我も形成されていないだろうし。それと、教師という
国家
の媒体ですよね。教師は国家教育制度を通して、親や生徒から見れば、絶対に逆らえない存在ですよね。なにをされるか分からない。教師に睨まれたら、国家の裏から手を回されて、自分の将来を完全に消されかねない。
(もっとも恐しいのは、このように、先生の「暴走」ですよね。先生は、やろうと思えば、かなり過激な「独裁」を行なえてしまえる、というわけだ。まあ、そうは言っても、近年は少子化で、教師の神通力も、いろいろと衰えてはいるのだろうが。)
ただ、ちょっと思うことは、時代が、60年安保の頃ですからね。その頃の「常識」と今を比べるのは、現代の人が、戦中の日本軍人の常識を問うようなところがあって、その辺りは、冷静に考えないと、という部分はありますよね。

私もまた、七小の同級生を見下してはいなかったか、特権意識をもっていなかったかと問われれば、それを完全に否定する自信はない。遠山啓の『ひと』はもとより、七小でもしばしば問題となった当時の受験戦争に対する批判には十分な理由があったが、私はそれに耳を傾けようとせず、4年3学期から四谷大塚に通い続けた。自分の家が、私立中学の受験ができるだけ経済的に恵まれていたこともまた確かであった。
関係者へのインタビューを積み重ねたとはいえ、かつての七小の児童や先生方からの反論もあるかもしれない。この物語は、「集団遊び」の楽しさや、代表児童委員会での体験を客観的に踏まえたものになっておらず、丸山眞男の言葉を借りれば、「『ンデモラッパヲハナシマセンデシタ』式に抵抗を自賛する」(「思想の言葉」、『思想』一九五六年三月号所収)文章になっているのではないか。知らず知らずのうちに、ソ連や東欧が崩壊し、社会主義が凋落した三十年後の価値観に立脚しながら、一九七四年の自らの行動を正当化する過ちを犯しているのではないか、という反論である。

著者は、上記の自らの体験を、こういったセンセーショナリズムによって描きながら、他方において、この体験を「同時代」としていた、同級生や先生たちに接触することで、ある種の、
同じ戦場体験
を彼らに感じ感情移入をする。よく考えてみれば、自分が恐怖したということは、それと同じように生きていた子どもたち(つまり、友達)も恐怖していたにきまっているわけで、だとするなら、もしそのことが「問題」であったならば、それは、自分だけが救われるというものではなく、子どもたち全員がその「全体主義」から逃れられなければならなかった、はずなのだ。
しかし、そう考えるには、あまりに「酷」だと言わざるをえない。だって、まだ、小学生だったわけですからね。
あまりにも、「幼い」、あわい思い出の記録であって...。

滝山コミューン一九七四 (講談社文庫)

滝山コミューン一九七四 (講談社文庫)