東浩紀『一般意志2.0』

今回読んでみて、特に、後半が非常によかったですね。この「そっけなさ」が。なんというか、この単行本化の直前のギリギリで、即興で、今、その場で思いついたことを、たんたんと書いたという感じで、むしろ、こういう「今」思ったことを「書く」というスタイルが、共感する。
(近年、311やTPPを受けて、あらためて、こういった(日本や世界の)社会全体を見直して、総括し、次の世代への見通しを展望するような考察が増えてきたような印象を受ける。)
まず、最初に示されている、ルソー解釈であるが、基本的には、書かれている内容にそれほど違和感はない。それどころか、フランス語の原典に戻って考察されていて、蒙を啓かれた。
私も翻訳でではあるが、「社会契約論」を読んだ印象は、ルソーの議論のポイントは、その「直接民主制」にあると思った点で著者に共感する。

ルソーはじつは、ジュネーブのような小さな都市国家での直接民主主義を理想とし、代議制を必要悪だと考えた思想家だった。つまり、わたしたちがいま慣れ親しんでいるような、選挙を介した間接民主主義をまったく認めない思想家だった。たとえば彼は、同書の第三篇一五章ではつぎのように記している。「主権は代表され[representee]えない。それは主権が譲りわたされ[=疎外され alpinee]えないことと同じ理由による。[......]したがって、人民の代議士はその代表者ではありえない。彼らは委託業者にすぎない」。代議士が有権者の権利を代表することなどありえない。有権者の権利は直接に国家に結びついていないといけない。それがルソーの信念だった。彼は、すべての市民が参加する「人民集会」が定期的に開かれ、一般意志が顕現し、統治の正統性がたえず確認され続ける、そのような体制のみが正しいと考えていたのである(第三篇第一三章および第一八章)。

ただ、私の注目するポイントは著者と少しずれていると思う。
つまり、ルソーのイメージの中では、小さな村における、「掟」を中心に、その村の「運営」(どこに道路を作るかなど)を、「全員一致」で決めている姿があると思っている(だからこそ、ルソーは国家の「人数」にこだわる)。
つまり、私の注目するポイントは、ルソーがそういった村落的な感覚を国家レベルに拡張しようとしている、というところにある。
私も以前にこのブログで、民主主義は直接民主制しかありえない、ということを書いた記憶がある。掲題の本を読みながら、私が考えていたのはむしろ、きだみのるの日本の「村落」研究のような、村社会は「必ず」、
直接民主制
の形態をとっているということと、ルソーがイメージしているだろう政治形態との関係であった。
たとえば、掲題の著者は、民主主義は「もの(物)」に近くなる、と言っている。

一般意志は、一定数の人間がいて、そのあいだに社会契約が結ばれ共同体が生み出されてさえいれば、いかなるコミュニケーションがなくても、つまり選挙も議会もなにもなくても自然と数学的に存在してしまう。ルソーはそう考えた。一定数の人間がいれば、だれもなにも調べようと思わんくても、平均身長や平均体重の数値はあらかじめ決まってしまっているように。だからそれは、ある意味では言葉よりもむしろ物質おに近い。実際、ルソーはある箇所で一般意志を「モノ chose」になぞらえている。彼は、『社会契約論』の議論そのものを参照しながら、人間の依存を「自然に由来する事物への依存」と「社会に由来する人間への依存」に分け(ルソーは、子どもはできるだけ前者の依存だけに基づいて育てるべきだと考えた)、一般意志への従属は人間への依存ではなく事物への依存であり、だから強固でよいものなのだと記している。

私はこれについても、村社会の直接民主制をイメージする。たとえば、村のどこかに道路を作ろうと村人が決めようとしているとする。しかし、ある所に道路ができるということは、各家庭にとって、
物質的リアリティ
のある問題であろう。自分が畑仕事をする上で、それは便利になるのか不便になるのか。そしてそれは各家庭によって、事情は違うはずである。そうであるなら、その形態は「直接民主制」によって、無難な所に落ち着くだろうと考えられる。そういう意味で、この関係を「数学的」と言うことは正しいだろう(実際それは、計算して導かれた「最適解」だから、
全員一致
で合意を得られるのだろう...)。
そもそも、言うまでもなく、生活の全ては「物質」である。家があり、道路があり、電気、水道といったインフラがあり...。つまり、政治とは、この「物質」をめぐるなにか、であるわけだ。つまり、村落共同体内でかわされる言葉の一つ一つは、直接にその村の中のある「物質」とリンクしているはずで、だとするなら、言語という政治の道具を物質として扱うのは、自然とも言えるだろう。
掲題の著者は、その「一般意志」を、インターネット上に集積されるビックデータと、ほぼ同値の意味で解釈していく。つまり、その「物質性」において、その「民主主義」を考えよう、ということのようである。
ただ、こういったビックデータは、もはや、一つ一つの「意味」を辿ることもできない、
集合的無意識(キメラ)
であるわけで(著者が言うように)、その「意味」をめぐる議論に意味を見出す「全体主義」に与することはできないが、その物質的な有用性について、今後もさまざまな応用が行われていくであろうことは間違いないだろう(掲題の本にもあるような、グーグル検索のようなものは、その典型だ)。
それでは、こういったビックデータの解釈の妥当性について、以下では考えていきたいと思うが、その前に、まずは、少し議論を脇道にそれてみたい。
ここで少し、自分がイメージしている「政治」のヴィジョンがどういうもので、掲題の著者がイメージしているもとの、どういう点で似ていて、どういう点で違っているのかを簡単にまとめてみる。
まず、私の文脈において、あらゆる発言は意味論的に「決定」できない、という「懐疑論」がベースにある。
それは、まずもって、言語とは意志疎通のためのなにかであって、それが「成功」しているかどうかは、当事者の満足度において決定されるものであるのだから、あらゆる人のあらゆる発言の「意味」が一意にあるかどうかは、
どうでもいい
というところにある。また、人それぞれ生きてきた文脈が違うのだから、完全な概念の一致は不可能となる(それが「意志疎通」として満足と思われている限り、問題とならない、というところにポイントがあるのだが)。しかし、他方において、同じような環境に生きてきた人同士は、比較的に「共感」がうまくいきやすい、ということは言えるだろう(同一の地域で育った人々の対話の「シンクロ率」は高い)。つまり、ここにおいてウィトゲンシュタインのファミリーリセンブランスを重要視する。そこから、私の「地方自治」論(都市国家論)が導かれる。
つまり、私の立場からは、国家の「不可能性」が導かれる。国家(上位機関)による、間接民主制による国民との完全な
合意
は不可能という結論から、始めているところがある。完璧な国家が無理なら、どうするか。その「支配」をできるだけ、
身近
なところにもってくるしかない。つまり、地方自治ということになる。
じゃあ、国家なる上位機関をどうしたらいいのか、という方向に議論は移りがちであろう。しかし、私はそもそも、国家は「不可能」と答えた。つまりそれは、国家「が」問題を解決する、という方向で議論を考えることをやめる、ということである。よって、私にとって国家の課題とは、どうやって国家が「暴走」しないようにするか、と同値になる。なによりも求められるイメージは、国家の機能の制限(最小化)となる。
そういった意味で、掲題の著者が、著書の最期で、ノージック最小国家論に言及していることは、非常に興味深く、共感して読んだ。
掲題の著者は、上記の引用にあるような「コミュニケーションを介さない」、つまり、選挙や議会などの「熟議」を介さない政治への可能性を追求する過程で、ハーバーマスハンナ・アーレントの言うような
対話=政治
との
理論的
な対決に多くの紙幅を裂かれている。その業界的な対決の妥当性をここで考えたいとは思わないが、それに対する違和感として、私はこの本には、ある「視点」が決定的に欠けていると思っている。
そのことの分かりやすい例として、「ソーシャルメディア進化論」の武田隆さんが紹介していた、非常に興味深い例を引用してみる。

一番大きな転換は時間の制約がとれたことなんですけれど、一日一回アクセスしてもらって、回答を返してもらうぐらいの負荷なんで、時間が要は長くとれるんです。二日、三日って、たっていくとそこに、わがこと化も始まるし、お互いに許し合えるような空間化が始まってくる、求められてる、自分の発言が求められてるんだ、と思う、みんなが。で、人の意見も聞きながら、自分の意見も出す。なんで、グループインタビューというよりは、デプスインタビューを、なぜか同時にやってて、人のデプスも見てる。驚くほど饒舌になるんですよ。しかもね、それは、自分の中の声を、ちゃんと求められて出すっていう経験なんです。
screenshot

オンライングループインタビューという名前で紹介していた例であるが、つまり、ここでのポイントが「熟慮」とか「熟考」にあることが分かるだろう。
掲題の著者は、選良と大衆の対立で考えているが、むしろ、大衆が
熟考
する、一日中、そのことを考えて考えて考えることによって、ある、推論結果に至る、その「計算」の「正確」さの「強さ」に関係してくる。
ここが、もう一つのポイントである、言語の「形式化」の、計算性である。どんな素人の発言であろうと、その計算が正しく強力である限り、どんなにエリートが
素人の意見「だから」無視したい
と思っても、できない事態がもたらされる。素人の発言がトンチンカンなのは、基本的な考察のための、条件の諸要素を素人が知らされていないからで、そういったパーツが彼らの頭の中にそろってくれば、「彼らの立場」からの、熟考が始まるのであって、そういったものの計算(推論)の「強さ」は、べつにエリートと変わらない。
ただ、こういった点について、掲題の著者が気付いていないわけではない。

未来の世界は、集合的無意識の可視化が進んでいるだけではない。ソーシャルメディアもまたいまよりもはるかに緊密に張り巡らされている。自動翻訳の精度もはるかに高まっているだろう。そしてそれらのサービスは相変わらずすべて無料だろう。だから彼のまえには、たとえ狭く薄暗い自室に閉じ籠もったままだとしても、世界中の数十億人の人間とのコミュニケーションが驚くほど近い距離で開けている。
むろんその可能性のほとんどは彼の人生を変えない。彼と同じような若者のほとんども、またネットに向かってもなにも人生が変わらないかもしれない。しかし、そこにはつねに「事故」の可能性がある。
たとえば彼があるとき、オンラインゲームで擦れ違ったユーザーから、ちょっとしたきっかけで熱帯雨林の話を聞かされたとする(未来世界でもいまだに地球温暖化が話題になっているとして)。その話がなぜか心に残る。彼は無職だ。時間だけはある。暇に飽かしてサイトを巡回してみる。ネットは独学にはたいへん向いているメディアだ。森林破壊や砂漠化や炭素排出権についてみるみる知識が蓄積していく。問題意識も深まる。ときおり意見も開陳する。数年後、彼はいつのまにか、いかなる学歴も資格もないのに、専門家からすらも一目置かれる論客になっているかもしれない。

近年のソーシャル(社交)論の流行である、「新たな時代」が始まってるみたいな、「繋がり」論は、自分には、あまり興味がないし(自分には関係のない世界の話のように思う)、正直うざい。
あまりにうるさいので、社交のなにが新しいのかと、つっかかってみたくもなるが、つまり社交的じゃなければ人間じゃない、というような「全体主義」的な空気が自分の肌には合わないのだろう。
そうではない。たとえば、「はてな」の新しいブログサービスについて、「ストック」と「フロー」という言葉で説明されていた記事を、ちらっと見たが、むしろ、もっと一般の素人の方々が、こういった日記という形で、
考える。
それは、日常のことでもなんでもよくって、大切なことは、それを
少しずつ
「深めていく」。こういった電子的な媒体に記録し残して「蓄積」させて、「それ」を少しずつ少しずつ考えて考えていって、徹底させていって、さらに、次々と「深めていく」ことの、豊穣さへの勧め、というふうに読んだ(それが「日記」だったはずだ)。その方向に、どういったネット上のサービスを構想されるのか、ということであるなら社交的にも興味のでてくるところだが...。

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

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