福岡伸一『世界は分けてもわからない』

私があまり好きになれない考え方というのは、自分を俯瞰的な立場に置き、全体を見渡している「つもり」になって、発言するようなスタイルと言えばいいだろうか。
結局、一人一人が、なにを考えているのかなんて分からない。分かると思って、振る舞っても、なにか問題が起きたら「修正」すればいいのだろうけど、そうやって振る舞うとしても(というのも、注意してたって、だれだって、そういう「上から目線」になってしまうことはあるのだから)、謙虚であれ、ということなんだと思うですけどね。
例えば、さまざまな集団は、それぞれに個性的な人間で構成される。言わゆる「キャラ」というやつである。では、ここで問おう。キャラは、
先天的
か、それとも、
後天的
か。また、私は「愚問」を発してしまったのだろうか。しかし、それは少しも「自明」なことではない。ある集団内において、ある個性を見せていた個人が、別の集団内では、まったく違った性格を見せることは、しばしばある。そうした場合、その人の「本当」の個性とはなんなのだろう?
このことを問うことは、次のことに答えることと「同値」である。

  • なぜ、その人は、集団が変わって、「相転移」したのか?

しかし、この疑問は、非常に多くの集団運動において、見られる「現象」だと言えないだろうか。そもそもこれは、「人間」に限られるだろうか。なぜ、ある集団現象は「相転移」を起こしたのか。たとえばこれを、「細胞」において考えるのが、掲題の著者である。

でも読者の中にはこう思う方もいるかもしれない。それぞれの細胞はちゃんとDNAという設計図をもっているはず。どの細胞も同じDNAを持ち、それは全体像を示すマップではないのか、と。
否。DNAは全体像を示すマップではない。実行命令が書かれたプログラムでもない。せいぜいカタログがいいところだ。
すべての細胞はたったひとつの細胞から出発する。受精卵。受精卵は細胞分裂によって二細胞となり、DNAをはじめすべての細胞内小器官がコピーされ均等に分配される。次いで、同じことが起きる。四細胞。分裂は繰り返され、細胞数は倍々に増えていく。八、十六、三十二、六十四、百二十八......。
このとき細胞は何をしているのか。彼らは互いに自分のまわりの空気を読んでいるのである。空気を読むという比喩が突飛すぎるのであれば、交信といってもよい。
細胞は細胞膜という薄いシートに包まれている。最初は滑らかだったシートの表面は細胞の分裂が進むにつれ、徐々に荒れてくる。微小な凹凸が生じてくるのだ。ちょうどジグソーパズルのピースのように。その詳細はなお明らかでない。しかし非常に単純化していえば、およそ次のようなことが生じることがわかっている。
おそらく受精卵が細胞数にして数十から数百になる頃、それは分裂回数にしてほんの数回分の期間だが、 そのクリティカルなタイミングに、ある細胞がその表面に、たまたま他の細胞にわずかだけ率先して、特別な形の突起を提示する。するとそれに呼応して隣接した細胞はその突起の形に陥没を提示し、両者は相補的に結合する。突起や陥没はタンパク質でできた細胞膜上の小さな分子である。それらが結合したとき双方の細胞に交信がなされる。それは次のような会話である。
「君が皮膚の細胞になるのなら、僕は内蔵の細胞になるよ」
「君な内蔵の細胞になるのなら、僕は皮膚の細胞になるよ」
細胞表面の突起物と陥没物とのあいだの相補的な結合は、互いに他を規定するように、つまり排他的に働く。無個性だった細胞群の中に、このとき初めて差異の契機が生まれる。
突起と陥没の結合は、それぞれの細胞に異なる信号をもたらす。突起を提示した細胞は、交信に応答して、その細胞内のDNAという名のカタログのページをめくってそこからAとBという部品を選び出す。陥没を提示した細胞は、交信に応答して、その細胞内のDNAという名のカタログの別のページをめくってそこからCとDという部品を選び出す。AとBは細胞を皮膚の細胞へと導き、CとDは細胞を内蔵の細胞へと導く。

受精卵が分割をし、次々とねずみ算式に増殖をしていくとき、それら「コピー」は、ただのコピーである。「同じ」である。ところが、その増殖が次々と進むと、いつのまにか、
人間
になる。つまり、ある「段階」で、各細胞は「キャラ」づけされていたのだ。では、その「相転移」は、なぜ起きたのか。そのプロセスを上記は、詳細に説明する。これを見るとよく分かるだろう。各細胞は、
どこを見ているか?
自分の回り「だけ」である。

すべての細胞は同じカタログを持っている。しかしそこから選び出された部品のレパートリーが異なる。これが細胞の個性を作る。そしてその選び出し方は、近隣の細胞との交信の結果、互いに他を規制する形で差異化されていく。
この間、どの細胞ひとつとってみても身体の全体像を把握しているものはいない。マップヘイターとはこういうことである。
各細胞は、非常に単純な排他的行動ルールに従って、隣接した細胞とだけ交信し、その結果、排他的に自らを変化させる。しかし、各細胞がこの運動を完成させたとき、俯瞰的な視点から全体を見下ろすと、そこには絵柄が浮かび上がって見えるのだ。まるで誰かが指揮をしていたかのような秩序をもって。しかし指揮者、つまりマップラバーは、このプロセスの最初から最後までどこにも存在していない。

この記述は、非常に人間集団に似ていると言わざるをえないだろう。ある集団が形成されたとき、幾人かの、前の集団においての個性が強烈な個人が、その「慣習」的振る舞いを見せると、必然的に、その回りのメンバーはその人の個性の
サポート
を始める。なぜなら、そうでなければ、その集団は「快適」な
場所
にならないからだ。何人かが、そういった「役割」を務めることによって、
全体
の安穏が可能になるとき、たいがいにして、そういった役割を自ら買って出る人が現れる。簡単に言ってしまえば、こういったプロセスを重層に重ねた結果が、その集団の個性となると言っていいだろう。
しかし、こういった発想は、実に不思議に思える。それは、なぜ人間は「案外」、集団行動が「うまい」のかに答える考えだからだろう。だれかが全体をコントロールして「指示」をだしているわけでも、だれか一人の「パフォーマンス」が全体を「救って」いるわけでもない。みんな
自分の回りの「雰囲気」
にしか興味がない。興味をもっていない。自分の回りの人との関係をどうしようか、しか考えていない。ところが、そうやってみんなが回りの人のことを考えていると、なぜか
全体
が「うまくいく」のである。
未来の社会システムを夢想するとき、おそらく、こういった「自生」的な
中心なき秩序
が、より研究され、一般的なツールとして確立されているのではないだろうか。そこにおいては、国家のような、全体を中空で吊り下げる「神」の役割は、今以上に限定されているだろう。むしろ、秩序とは、その走り始める「最初」において、
遺伝子プログラミング
的に、あらかじめビルトインされている「諸条件」が、自然と私たち一人一人が「回りの人との人間関係」を快適になるように振る舞えば振る舞うほど、世の中が
勝手に
うまくいっちゃうような形で、次々と内部のプログラムを書き換えながら、運動していく、そういった「秩序」となるだろうと思うわけである。
例えば、福島県のあるNGOが、非常に安いガイガーカウンターを採算抜きで製造販売を始めたということが、videonew.com でニュースになっていた。大事なポイントは、福島の事故によって、大きな「需要」が生まれたとき、
自然
とそういった「有志」が集まって、そのニーズに答えようとする「運動」が起きるということである。これによって福島の人なら、だれでも、手に入れたいものが、「手頃な値段」で入手可能になるのだ。
これが「新しい公共」である。
人々の必要に対応して「自然」に、その需要を満たすための「運動」が始まり、集団は「相転移」を起こし、各個人は機能分化し
キャラ立ち
を始める。では、その「条件」とはなんだろう? それはどちらかというと、「環境」といったような「初期条件」ではなく、各運動が規制され、条件付けられていくような
プログラム
の方をイメージした方が正しいのではないか。各プログラムの性質が、そのプログラム自身の遺伝子プログラム的「改変」の
特徴(条件)
を規制しながら、運動はオートマチックに進んでいく。各個人は自分の身の回りの友達とうまくやっていこうと気付かっている「だけなのに」、
自然
と「世界」が「勝手」に平和を維持し続けていくようなプログラム...。

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)

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