ステマとポジション・トーク

金融ストラテジストは、ポジション・トークという言葉を使うのだそうだ。

実際、日本では、為替相場の予想に感情が入り込むケースは少なくない。「どちらに動くと予想するか」ではなく、「どちらに動いて欲しいか」に基づいた解説が行われることがよくあるのだ。これを通常は「ポジション・トーク(例えば、自分が米ドルを買い持ちにしている場合、自分に利益が上がることを期待して米ドルが上昇するだろうと予想する)」と呼ぶが、日本の場合、「ポジション・トーク」というよりは「感情トーク」のように感じることさえある。つまり、米ドル高・円安に動いても自分は特に利益は出ないのだが、「そうあるべきだ」と思い込んで米ドル/円相場が上昇すると予想するのである。

弱い日本の強い円 (日経プレミアシリーズ)

弱い日本の強い円 (日経プレミアシリーズ)

つまり、自分が得になるように、「パブリック」に自分の考えを発信することで、「こうなれば、自分が儲けられる」という方向に向かってほしいので、「今の経済状況は、こっちの方向に向かうと思われます」といった、世論誘導的な発言をすること、ということらしい。
そもそも、金融ストラテジストは、別に学者ではない。こういった人が言うことが、自分の利害と関係なく、物事の真理を探求したくて(他人と合意したくて)、話すことが、必ずいつも、というのはどうかしているだろう。
人々は、お金儲けができることで、やっと、毎日を生きることができる。だとするなら、その人の言うことが、そういった延長において、発言されると考えることは自然であろうし(そういうバイアスがかかっている)、そうであれば、いつも、物事の真理の探求を目指した発言ばかり、というのは、ちょっと考えられない。
他人と話すときは、なんとかその人に自分が売っている商品を買わせたいと思って、話を誘導するだろうし、それが人間なのだろう。
こう言うと、人間はだれもが「詐欺師」だと言っているような感じがする。なぜなら、そう発言している人は、自分がそうやって、相手に自分が売りたいものを買わせようとして、発言を誘導しようと発言しているとは、まさか思っていないだろう、という意味において。
そう考えるなら、あらゆる、その人の「パブリック」な発言は、「その目的」を達成するために行われている、とさえ言えるのかもしれない。
今年の流行語大賞は、この年初から決定とまで言われる。
ステマ
である。ここのところ、急激にその使用頻度が広がっている、この言葉は、(私見でしかないが)今年を占う「大問題」になる可能性を感じなくはない。
食べログの口コミが、企業の宣伝活動の場となっていた事実は、この問題が、相当に根深いことを意味しているだろう。2ちゃんのまとめサイトが、一見個人が運営しているように見せながら(少なくとも、最初はそうだったのだろうが)、実際は、企業として運営されていたということがばれて、非難されるということもあったらしい。
これだけネットが人々に普及してくると、このネット上の「マーケティング」が、さかんに研究されるはずである。特に、マスの人々「から」利益を上げたいと考える場合(その場合は、大量の商品を大量のユーザでさばく方向と、高額の貴重品をネット上の「奇特」な少数のディープなお客を見つけてきて、長期的につかまえる方向がある)、そういった、今までの、新聞やテレビで行っていた「広告」というマーケティングを超えた、さまざまな手法が考えられるだろう。
今までの日本の商売は、ある意味、「素朴」で「正直」で「純朴」であった。
店頭に並ぶ商品は、無粋なまでに、その「スペック」が羅列されているだけで、買う側は、そこに書かれている内容に違わない、性能に、
満足
し、その商品を売ってくれた日本の企業を日本人として「誇り」に思い、信頼する。
つまり、日本の白物家電に代表される、商品は、いわば「理系」的(学者的)だったと言えるだろう。
ところが、ネット利用者の激増に合わせて、ネットは、

の「洪水」となった。人々は競って、「詐欺師」の手法をふんだんに使って、ネットの向こうの視聴者に、サービスを買わせようと、甘い言葉を尽す。
つまり、ネット上は、「文系」マーケティングの草刈り場の様相を示すようになった。
K-POP がヒットチャートの上位に行くように、それなりに、組織的に行動する(スパムを送り続ける)ことで、あるネット上の統計情報を
だます
ことによって、操作できるなら、そのヒットチャートという「事実」が人々の今、なにが流行しているか、の印象を変化させることになり、全体のマーケットの動きを変えることにもなるのだろう。
興味深いのは、これだけ、この問題が話題になっているのに、まったくこの問題を話題にしない人々がいる、ということではないだろうか。
(同じことは、この前紹介した、「東大話法」なるものについても、自分が東大出身なのに、この問題に反応しない人たちがいる、というのと似ているかもしれない。)
ということは、特に、社会的に影響力のあるような人たち(ツイッターのフォロワーの多い人たち)は、少なからず、「ステマ」的な振る舞いをすることで、ある社会的に「その影響力を使いたい」と思っている勢力から、お金などをもらうことで、その勢力に有利になるような発言をしているのかもしれない、と勘繰ってしまうところだろう。
(私は、ネット上で影響力のある高学歴な有識者には、経産省などの国家官僚と深い関係(それは金銭的なものを含む)にあり、「一つの生計の口にすることで」、ネット上の言論に影響を与えようと行動している人は、けっこういるんじゃないかと思っている。
例えば、ツイッター上で、なにげない、会話が行われたときに、その相手が、こういった経産省のやってほしい発言を行うための「桜」同士であったなら、しかも、そういったものが、(この前紹介した「東大話法」にあったように)日常の
悪ふざけ
の「純朴」さと、交互に行われたとき、そのことに、一体、誰が気付けるであろう。
つまり言いったかったことは、ステマというのは、非常に「高度」な世論誘導であって、効果が「絶大」であるだけに、日本の倫理的な根幹に影響してくると考えられるわけである...。)
しかし、このことと、日常的にビジネスでお金儲けをしていることと、自分がある「考え」をもつことは、それなりに関連しているわけで、簡単には区別できないという面は少なからず、あるとは言えるだろう。
今までのマーケティングとは、新聞の広告やテレビのCMという形で、フレーミングがされていただけに、ある意味、その中で、飼い慣らすことができたが、ネット上は、たんに情報の洪水だけに、いっくらでも、ここでのマーケティング手法が、使い放題になってしまっている、ということは間違いない。
また、新聞の広告やテレビのCMは、それなりに大きなお金が動くわけで、かなり、だいそれたプロジェクトになるわけで、そうであれば、その中での、グラデーションは、ターゲットをはっきりさせやすかったわけだが、ネットになると、非常に小口のお客からなにから、ちょっとしたことから、なんでも好き放題になるわけで、下手すると、ネット上のあらゆる書き込みは、なにかの、
ステマ
なんじゃないか、と疑わないと読めないような、そんな環境と考えざるをえなくなり、ステマ・コミュニケーションが発達していく、ということになるのかもしれない。
一般にこういった問題をどう考えればいいのかについては、さまざまな論説がネットには、溢れているので、興味のある方はググってもらうとして、ここでは、ちょっと、視点を変えて考えてみたい。
近年のネット言論においては、ジャービスの「パブリック」に近い考えが、一般的と言えるだろう。つまり、
素直
であればいーじゃん、ということでしょうか。
自分の上記にあるような、ポジション・トークや、利益相反
素直
に発言することの方が「正直」なのであって、もっと言えば、ステルス・マーケティングなんて、当たり前じゃないか、と。K-POP がそういったステマによって流行したものだろうと、それに踊らされているバカな日本人だろうと、いずれにしろ、だまされたにしろ、それに
満足
している人の眠気を起こすような方向じゃなくて、「だったら、自分のその悪辣非道な手段を勉強して、人々を誘導できれば、お金持ちになれるじゃん」と、その
素直
な欲望をさらけだして、邁進することの方が資本主義強者だ(つまり、日本人も韓流ドラマに出てくる韓国人のような悪辣非道さをマネして、儲けるべきだ)、と。
こういった問題について、過去をさかのぼって、普遍的に議論したものってあるのかな、と思って考えても、案外、思い付かないんですよね。
それって、結構、この問題が人類にとって、かなり根深いことを意味しているんだろう、とは思うわけです。
一つ思い付いたのが、カントの「啓蒙とは何か」だと思うんですね(つまり、この論文は、マーケティング批判になっている...)。
この論文は、今までも、いろいろ議論されたいきさつがあるわけですけど、一つ言えることは、この論文における、プライベートとパブリックは、私たちが今、一般にその用語を使っている意味と(例えば、ジャービスの「パブリック」の意味と)、完全に
反対
になっているわけです。

ここで私が理性の公的使用というのは、或る人が学者として、一般の読者全体の前で彼自身の理性を使用することを指している。また私が理性の私的使用というのはこうである。----公民として或る地位もしくは公職に任ぜられている人は、その立場においてのみ彼自身の理性を使用することが許される、このような使用の仕方が、すなわち理性の私的使用なのである。

啓蒙とは何か 他四篇 (岩波文庫 青625-2)

啓蒙とは何か 他四篇 (岩波文庫 青625-2)

例えば、ジャービスのパブリック論では、問題は、自分がネット上に、自分が知りえた、他人が公表されると嫌がるプライベート情報を、どこまで「さらせる」のか、が問われていた。
もしその行動が、大きく制限されているのであれば、ソーシャルネットの使い勝手が悪くなる。思ったことを書けなかったら、やっていて面倒だと思うかもしれない。そうするとソーシャルネットは普及もしないだろうし、人々の満足のプラットフォームと思われず、このネットの進化を止めてしまう。
だとすれば、基本的に、他人の隠したいことを書くことが取り締られるべきではないように、社会システムは定義されるべきなんじゃないか、と。
しかし、こういった視点は、言ってみれば、理性の「私的使用」を巡る論点だと考えられないだろうか。
つまり、私たちは国家に所属する国民として、その立場において、どこまでのことが許されるべきか、と問うている、と。
マーケティングにおける、ポジショントークも同様と言えるでしょう。マーケティングとは、ようするに、宗教の手法だと言える。カントの時代に国内を二分する勢力であった、キリスト教会に従って行動する牧師は、つまりは、教会における「公務員」であり、その範囲で、理性の「私的使用」を行っている。
現代においても、それは変わっていない。私たちは自分が所属する企業「の」公務員なのであって、その範囲で、理性の「私的使用」を行って
ポジション・トーク
を行っている。お金儲けをするということは、言わば、そういう
組織=立場
を代表する、ということになるでしょう。それは、たとえ、個人事業主であろうと同じで、自分がどこに所属していて、その「立場」から行動し発言する、ということは、つまりは、なぜそこに自分が所属しているのかと考えれば、自分の利害に関係しているからであろう。
大事なことは、それが一見、利害に関係していようといなかろうと、ある
所属=依存
がある限り、同じことだということです。それは、そういった所属が悪いということを言っているのではなく(キリスト教徒として教会に所属してはいけない、ということではなく)、理性の公的使用(つまり、パブリックであること)とは、そういうことではない、というだけのことです。

未成年でいることは、確かに気楽である。私に代って、悟性をもつ書物、私に代って良心をもつ牧師、私に代って養生の仕方を判断してくれる医師などがあれば、私は敢えてみずから労することを用いないだろう。私に代って考えてくれる人があり、また私のほうに彼の労に報いる資力がありさえすれば、私は考えるということすら必要としないだろう、こういう厄介な仕事は、自分でするまでもなく、他人が私に代って引き受けてくれるからである。大多数の人々(そのなかには全女性が含まれている)は、成年に達しようとする歩みを、煩わしいばかりでなく極めて危険であるとさえ思いなしているが、それはお為ごかしにこの人達の監督に任じている例の後見人たちのしわざである。かかる後見人たちは、自分の牧している家畜をまず愚昧にし、よちよち歩きにふさわしいあんよ車の中に入れられたこの温和な動物どもが、それから一歩でも外へふみ出すような大それた行為をしないように周到な手配をととのえたうえで、さてその次は、もし彼等が独り歩きを企てでもすれば、すぐさま身にふりかかる危険を見せつけるのである。なるほどこの危険は、それほど大きなものではない、----二、三遍ころべば、けっこう歩けるようになる筈のものだからである。しかしこういう見せしめでも、やはり彼等に気おくれを起こさせ、もう二度とやらないのが普通である。
それだから個人としては、殆んど天性になり切っている未成年状態から、各自に抜け出すことが困難なのである。それどころか彼はこの状態に愛着をすらもっていて、いまでは自分自身の悟性を使用することが実際にできなくなっている。
啓蒙とは何か 他四篇 (岩波文庫 青625-2)

上記の部分はカントがなにを言いたいのかが、よく分かる部分であろう。カントは、「パブリック」を、人々が「学者」として語ること(論文を書くこと)、と言います。大事なことは、これを
自由
において、行うことが「啓蒙」だと言っていることです。つまり、彼の言う「大人」になることとは、こういった「実践」において、考えられるのだ、と。
つまり、私たちは、どのように、体制からの「圧力」を撥ね除けて、自分を「学者」として考えを発表するか(論文を書くか)、その難しい課題が問われている、と言えるでしょう。
だれもが動物であり、組織に従順に生きることは、安穏であるだけでなく、愛着さえ湧いてくる。しかし、そうであることは、カントの言うパブリックと矛盾する。
そういう意味で、カントの意味でパブリックであることは、どうしても、「反体制」とレッテルを貼られがちであることと、区別がつかない。
なぜ、カントにおいて、プライベートとパブリックが逆転してしまったのか。
それは、ジャービスのパブリック論と比較すると分かると思う。ジャービスにおいて、パブリックとは、国家の規制を巡る神学論争に関係していた。つまり、国家という組織を
特別=普遍的
と考えていることを意味している。しかし、カントの議論で大事なことは、国家と教会を、あまり区別していない、ことである。ここにおいて、国家も教会も、同じような、「私的」組織であることを喝破している。
だとするなら、私たちが、どうしても国家に見てしまう、そういった「特別な組織」というものは、存在するのだろうか。普通に考えれば、それは、国連ということになるだろう。しかし、これも違う。
つまり、カントは、そういった「特別な組織=自分が依存できる組織」というのは、存在しない、ということを暗に示唆している、と言えるだろう。
どんな組織も、「ローカル」な組織であり、私的な組織であり、そういう意味において、企業も教会も国家も区別はない。カントは、私たちが、たとえ、そういった私的組織に経済的にどんなに依存していようとも、
パブリックに(一個人の「自由」の立場から)
発言「できなければならない」、という「格律」の話をしているわけである(なぜなら、だれもが組織に従順に意のままに動き発言することに、安穏で、愛着をもつようになれば、今回の福島第一のように、悲惨なカタストロフィーに気付けないまま終わる可能性があるから、であろう)。
しかし、そうカントは言っても、そんなことは可能なのだろうか(つまり、啓蒙とは可能なのか?)。これは、

という問いに変えることもできるだろう。
それは、どういった認識が、どういった「システム」が、このことを可能にするのかと問うことになるのだろうが...。