ニコラス・シャクソン『タックスヘイブンの闇』

私たちは、世の中には、さまざまなルールというものがあって、人々はそれに従って、ルールの中で生きている、と思っている。
もし自分が、そのルールの外に、「気付かずに、思わず」出てしまったとき、「親切な」おまわりさんが自分に「注意」してくれて、それがちょっと度を越していたら、「罰金だぞ」とちょっと罪が発生するくらいで(車のスピードの出しすぎや路駐自転車の取り締りのような)、ほとんどの人はその中で生きている、と。
そうだとすると、懲役で牢屋に入るような人というのは、「相当」な
気づかずに、思わず
の度が過ぎる「うっかり」さんということなわけで(偶然に偶然が次々重なるような)、ずいぶんな話だなあーと、「びっくり」する。
これが、「性善説」である。
つまり、ここで言う
ルール
なるものが、本気で「機能」していると思って信じ、そう信じたまま、年をとり、死んでいく、ということである。
しかし、そのルールは、その人が考えているほど、自明かどうかは、まったく別の話のはずであろう。
この一番分かりやすい例こそ、タックス・ヘイブン、であろう。

オフショア世界はわれわれのまわりのいたるところにある。世界の貿易取引の半分以上が、少なくとも書類上はタックスヘイブンを経由している。すべての銀行資産の半分以上、および多国籍企業の海外直接投資の三分の一がオフショア経由で送金されている。国際的な銀行業務や債券発行業務の約八五パーセントが、いわゆるユーロ市場----国家の枠外のオフショア・ゾーン。これについては第5章で取り上げる----で行われている。IMF国際通貨基金)は二〇一〇年に、島嶼部の金融センターだけで、バランスシート(貸借対照表)の合計額は一八兆ドル----世界総生産の約三分の一に相当する額----にのぼると推定した。しかも、これはおそらく過少評価だろうと付記したのである。アメリ会計検査院(GAO)は二〇〇八年に、アメリカの大手一〇〇社のうち八三社がタックスヘイブンに子会社を持っていると報告した。タックスヘイブンを監視する国際市民団体、タックス・ジャスティス・ネットワークが翌年、オフショアのより広い定義を使って行った調査では、ヨーロッパの大手一〇〇社のうち九九社がオフショアの子会社を使っていることが明らかになった。どの国でも、こうした子会社を最も多く使っているのはダントツで銀行だった。
タックスヘイブンとは何かについて、衆目の一致する見解はない。実を言うと、タックスヘイブンという言葉は少し間違った呼称である。これらの場所は租税回避だけを提供しているわけではないからだ。守秘性、金融規制の回避、それに他の法域、すなわち世界のほとんどの人が居住している諸国家の法令から自由になるチャンスも提供しているのである。本書では、「人や組織が他の法域の規則・法律・規制を回避するのに役立つ政治的に安定した仕組みを提供することによって、ビジネスを誘致しようとする場所」という、タックスヘイブンの広い定義を使うことにする。要は、社会のなかで暮らし、社会の恩恵を受けることにともなう義務----納税の義務、まともな金融規制・刑法・相続法などに従う義務----からの逃げ場を提供するということだ。それが、これらの場所のコアビジネスであり、これらの場所が実際に行っていることなのだ。
この広い定義を使うことにしたのは、主として二つの理由からだ。一つは、ある地域が他の地域の法律をないがしろにすることでカネ持ちになるのは容認できるという、広く行き渡っている考えに異を唱えるため。もう一つは近代世界の歴史をとらえるレンズを提供するためだ。この定義は、オフショア・システムはグローバル経済の単なる興味深い副産物ではなく、その中心に位置するものであることを明らかにしていく助けになるだろう。
いくつかの特徴がタックスヘイブンを見分ける手がかりになる。
第一に、私の同僚たちが丹念な調査によって発見したことだが、これらの場所はすべて、何らかの形の守秘性を提供しており、程度はまちまちながら、他の法域との情報交換を拒否している。「守秘法域」という言葉は一九九〇年代末にアメリカで登場したものだが、本書ではその言葉を「タックスヘイブン」同義で使う。どの側面を強調したいかによってどちらの言葉にするかを決めることもあるだろう。
タックスヘイブンのもう一つの共通の特徴は、もちろん税金がまったくないか、税率がきわめて低いことだ。これらの場所は人々に合法的に、もしくは違法に、税金逃れをさせることによって、マネーを引き寄せているのである。

ルールとは、基本的に「ローカル・ルール」のことを言う。たとえば、村の掟、と言った場合は、その村に生まれ、その掟を生き、その村で、そのまま、死んでいく人にとって、「自明」なものだ。
しかし、そのルールの「外」、つまり、村の外において、これらは少しも自明ではなくなる。
農民は年貢を納めなければなんねえ。
これは、その村の一つの「自明」なルールであろう。
じゃあ、こう思考実験してみよう。
ある、異国のキリシタンが日本に黒船でやってきて、その村の田んぼを買い取って、その村の農民を従業員として雇い、米を作らせたとしよう。そのキリシタンは、異国に住み、その米を中国にある自分の別荘から、中国本土で売りさばき、その売上を自国にもってきて、その人は自国で遊興三昧の生活をした、と。
えーと。
この場合は、「どこ」に「利益」が発生するのかな?(どこで「税金」を取ればいいのかな?)

バナナの房はどれもみな二つのルートを通ってあなたの家のフルーツボウルに入る。一つのルートには、多国籍企業に雇われているホンジュラスの労働者が絡んでいる。その労働者がバナナを収穫し、それが梱包されてイギリスに輸送される。多国籍企業はそのバナナを大手スーパーマーケット・チェーンに販売し、そのスーパーマーケット・チェーンがそれをあなたに販売する、というわけだ。
もう一つのルート----会計士が作成する書類上のルート----は、もっと回りくどい。ホンジュラスのバナナがイギリスで販売される場合、税務上の観点から見ると、最終利益はどこで生み出されるのか。ホンジュラスか、イギリスのスーパーマーケットか、それともその多国籍企業アメリカ本社か。経営手腕やブランド名や保険はコストにどれくらい寄与するのか。確かなことは誰にもわからない。そのため会計士は、多かれ少なかれ話を慕てることができる。たとえば、仕入れネットワークはケイマン諸島で、財務サービスはルクセンブルクで運営されていることにしたほうがよいと、会計士はバナナ会社に助言するかもしれない。バナナ会社は、自社のブランドはアイルランドに置き、輸送部門はマン島に、経営部門はジャージーに、保険業務を行う子会社はバミューダに置くことにするかもしれない。
さて、この多国籍企業ルクセンブルクの金融子会社が、たとえばホンジュラスの子会社に融資して年間二〇〇〇万ドルの利子をとるとする。ホンジュラスの子会社はその額を自社の利益から差し引いて、利益(およびそれに対する税金)を削減もしくは消去する。だが、ルクセンブルクの子会社がこの取引から得た二〇〇〇万ドルの所得は、ルクセンブルクのきわめて低い税率で課税されるだけだ。会計士が魔法の杖を一振りすれば、高い税金は消え去り、資本はオフショアに移動するのである。
大手多国籍企業は、移転価格操作と呼ばれるオフショアを使ったごまかしも多用してきた。アメリカのカール・レビン上院議員は、移転価格操作を「個人の脱税者の秘密オフショア口座に相当する企業のごまかし手段」と呼んでいる。社内移転価格を人為的に調整することで、多国籍企業は利益を低税率のタックスヘイブンに移し、コストを高税率の国に移して課税対象額を減らすことができるのだ。このバナナの例では、税収が貧しい国ら奪い取られて豊かな国に入っている。税務官に十分な給与を払っていない貧しい国々は、高い報酬を得ている多国籍企業の強引な会計士にいつもやられてしまうのだ。
ルクセンブルクの子会社から二〇〇〇万ドルの融資が本当の市場利率で貸し付けられたと主張する人がいるだろうか。それは概して主張しにくい。これらの移転価格は、ときとして現実味がまったくなくなるほど強引に調整されることもある。中国のトイレットペーパーが一キロ当たり四一二一ドルで買い取られたこともあるし、イスラエルのリンゴジュースが一リットル当たり二〇五二ドルで買い取られたこともある。また、ボールペンが一本八五〇〇ドルでトリニダードから仕入れられたこともある。

グローバル化とは、こういうことを言う。
世界は「まだ」、諸国家が群雄割拠する時代であり、世界共和国は実現していない。だとするなら、諸国家には「主権」があり、内政不干渉の原則が働き、こういったアナーキーな地域が生まれる。
では、こういった動きを止めることはできないのだろうか。少なくとも、今までの、ゲームの延長線上では、以下のような形で、ほとんど、不可能に思えてくる...。

たとえば、ケイマン諸島が新しい巧みなオフショアの抜け道を編み出したら、アメリカは対抗措置をとり、ケイマン諸島はその新しい措置の裏をかく新しい抜け道を生み出すだろう。戦いはさらに続き、アメリカの税制はますます複雑になる。その結果、富裕な人々と彼らの狡猾なアドバイザーたちが拡大した法の茂みの抜け道を見つける新しい機会が生まれてくる。租税回避産業を顧客とする巨大な産業が成長し、世界経済に途方もない非効率が生まれることになる。

どうして、こういうことになるのか。
それは、「単純」に考えるなら、上記の「ルール」が、必然的に「ローカル」でしか、ありえないからであろう。
あるルールを決めると、次には、そのルールが「想定」している範囲の
少し外
において、そのルールを適用することが、なにを意味しているのか、が問題になってくる。たとえば、上記でいえば、

  • 自国での「このルール」内での関係
  • タックスヘイブンでの「そのルールに対応するルール」内での関係

の二つを、「恣意的」に「配分」することにより、ある種の「脱税」を実現するわけである。
つまり、ルールの「外」を想定した時点で、そのルールの意味が「非決定」になっている、というふうに言えるのではないか。
このように考えたとき、一般に世界は、以下の三つによって、分類できることがわかる。

  • 自分の理解する「ルール」の中
  • そのルールとルールの外との境界線上(グレーゾーン)
  • ルールの外の「アウトロー」(違法地帯)

問題は、この二番目となる。
性善説を生きる私たちは、ルールに従うということが何を意味しているかは自明である(なぜなら、もし自明でないなら、私たちの
日常
は、さまざまなトラブルが頻発し、一切のルーティーンが回らないはずだから)。
ルールとは、そのルールが前提にしている「条件」を共有するものたちが、とり結ぶことを可能にしているものである限り、その「共同体」の外においては、意味が自明とならない。掟の外においては、人はその掟から「自由」に生きている。しかし、じゃあ、そこに掟がないかといえば、そういうわけではない。そこにはそこの、掟がある。たんにその二つが、重なっていない、ことを意味しているにすぎない。
しかし、一般にこういう場合は、FTAやTPPのように、二国間の協定が生まれるずはずだろう。少なくとも、どうあるのが「本来的」か、について、争う余地はないはずである。

一九世紀の経済学者デイヴィッド・リカードの比較優位の理論は、さまざまな法域がそれぞれ特定の製品、サービスに特化する原理を見事に説明している。フランスの高級ワイン、中国の安価な工業製品、アメリカのコンピューターという具合である。だが、人口二万五〇〇〇人足らずのイギリス領ヴァージン諸島に八〇万社もの企業が置かれていることを知ると、リカードの理論はその魅力を失ってしまう。企業や資本は、最も高い生産性が実現できるところではなく最大の税控除が受けられるところに移動するのである。この現実のどこをとっても効率性のかけらもない。

では、なぜ、こういった問題が、いつまでも解決されないのか。
それは、言うまでもない。
それで「利益」を得る人たちがいるからである。

このエコシステムの内部では、それぞれの法域が他の法域に後れをとらないように絶えず競争している。どこか一カ所がよそからホットマネーを引き寄せるために税率を下げたり規制を緩めたり、新しい秘密保護手段を編み出したりしたら、他のタックスヘイブンも競争から脱落しないよう同様の措置をとる。その一方で、金融業者たちは、アメリカをはじめとする経済大国の政治家にオフショアという棍棒で脅しをかける。「課税や規制を厳しくしすぎたら、われわれはオフショアに行くぞ」と。オンショアの政治家たちは怖じ気づいて、自国の法律や規制を緩和する。こうした流れによって、オンショアであるはずの法域が次第にオフショアの特徴を帯びてきており、経済規模の大きい国では租税負担が移動可能な資本や企業から普通の市民の肩に移ってきている。アメリカの企業は一九五〇年代にはアメリカの所得税総額の約五分の二を負担していたが、その割合は今では五分の一に低下している。アメリカの納税者の上位〇・一パーセントにとっては、一九六〇年代には六〇パーセントだった実効税率が、所得の増大にもかかわらず二〇〇七年には三三パーセントに低下していた。上位〇・一パーセントが一九六〇年代の税率で所得税を払っていたら、連邦政府の二〇〇七年の税収は二八一〇億ドル以上増えていただろう。億万長者のウォーレン・バフェットが自分の会社について調べたとき、受付係を含む全社員のなかで彼の税率が最も低いことがわかった。全体を見渡すと、税金は全般的に下がっているわけではない。実際に起きているのは、豊かな人々の払う額が減っており、他のすべての人がその減少分を負担しなければならなくなっている、という変化なのだ。

つまり、タックスヘイブンは、現代における「海賊」なのだろう。
あるルールがあるとき、そのルールを犯していると完全に決めつけることはできないのだが(そのためには、何年も裁判が必要)、一般通念から考えれば、どう考えても、そのルールの「本義」に反しているとしか思えない行為の「範囲」での、行動が生まれる。
つまり、合法のグレーゾーンという「合法」となり、つまりは、合法となり、一種の合法的脱税が成立する。しかし、これがもし、だれでもできるなら、ただの合法だが、
ある一定の巨額のお金があることによって成立する
ものである場合が多く、つまりは、これは、お金持ちの人たちの一種の「賄賂」に似ている性格があると言えるだろう。
つまり、こういった「グレーゾーン」はどうしても、その取締のルールの厳罰化に、支配階級は乗り気じゃなくなる。
一般に、海賊とは、そういう「間」において、生まれ、利用される存在だと言えるだろう。ルールは必ず「ローカル」でなければならない限り、その

が生まれる。その隙間をつき、海賊は自らの「なわばり」を広げるわけだが、彼らがなぜ存在を許されているかは、その「ルール」の外部性から来る「恣意性」が、時として、
お金持ちに有利でも「ありうる」
という面があるから、と言えるだろう。
海賊を、「悪」と言ってしまうことは、簡単である。しかし、そのどちらなのかは、そう簡単な話ではない。彼らは「アナーキー」な場所にいるのであって、その「場所」そのものに色はない。彼らが、「善」の方向に振る舞うか「悪」の方向に振る舞うかは、その「場所」によっては、決定できない。そういう意味で、私たちが彼らを嫌うのは、自らが「どちらの立場」なのかを「そのことが」意味しているだけなのかもしれない。
たとえば、ザッカーバーグフェイスブックのように、実名=パブリック主義者は、本気で、他人のプライバシーが保護されないことの方が「いい社会」だと思っているわけで、そういう人に、法律の範囲の中での、晒し行為を止めさせる方法は、そもそも、存在しない(それが、性善説という意味で、同じコードを共有しない人同士では、共同体にはならない、ということでしょう)。
また、近年のウィキリークスアノニマスにしても、単純に、善悪どっちなのかを判断できない。また、ユーチューブやニコニコに上がっている、一方において、二次創作を、そんなに簡単に削除していいのか、日本のコミケ文化(慣習)との類推からも微妙に思えなくはない。
そもそも、イノベーションとは、多くの場合、ある意味で、一時代前の、
グレーゾーン
である可能性だって主張できるだろう。
しかし、「常識的」に考えれば、この国で、さんざんお金儲けをしたのなら、それ相当の税金を払っていないというのは、私たちの社会通念から考えて、言い逃れのできない、非国民野郎なわけで、やはり、社会的な「感情的な秩序」を考えても、こういったタックスヘイブンのようなものが「常識的」な範囲での、ルール化に向かわないのは、おかしいであろう。
というか、この問題は、よりいっそう、途上国の問題のはずなのだ。

たとえば、タックスヘイブンを利用した多国籍企業のリインボイシング(移転価格操作)によって「途上国は毎年推定一六〇〇億ドルの税収を失って」いるし、途上国の腐敗したエリートたちは自国の冨を略奪してタックスヘイブンに隠匿している。こうした不正や不公正がなければ途上国はじつは純債権国なのであり、外国からの援助がなくてもやっていけるのだと著者は言う。

藤井清美「訳者あとがき」

そうですよねー。途上国の人たちなんて、余計に、真面目に働いて、日々、節約して生きているはずで、普通に考えたら、
黒字
にならないのは、どっかおかしいんじゃないかと言いたくなりますよね。
(先進国でも、長期的な目で言えば、自分の収益に比べ、どれくらい税金を払っているかという、情報が「パブリック」になっていれば、自分の評判を気にして、あまり、露骨にはやりにくいんじゃないかとは、思わなくはないですよね。その辺りが、途上国の民主主義のない地域は、どうしても、コネやワイロや汚職の自浄作用が効きにくいんだと思いますが...。)

タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!

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