高橋洋一『数学を知らずに経済を語るな!』

結局のところ、学問とは、なんなのだろう? これを、例えば、掲題の著者であれば、「数式」のことだと言うだろう。

教授 どうしてグラフはわかるの?
S君 なんででしょうね。
教授 グラフって、数式がなかったら書けないんだよ。
S君 ですよね(笑)。
教授 だから、不思議でさ。数式を見てわかんなくて、グラフを見てわかるっていうのが。逆にいうと、グラフがあると、グラフから数式が出てくるんだけど。
S君 私の場合、出てきません(笑)。
教授 だって、グラフと数式は表裏一体だよ。一対一の対応をしているんだから。数式が理解できていないと、グラフも書けない。なのに、どうしてわかるの?

教授 そう。元IMFチーフエコノミストハーバード大学教授のケネス・ロゴフという人が共著で書いた『This Time is Different』という本があるんだけど、これなど、半分以上のページが図表。だからすごい簡単に読めるよ。私には、図表しか要らない(笑)。
S君 経済学の本ですか。
教授 各国の過去の不況や破綻がどうだったかというのをデータで示しているんだけど、図表だけでほとんど終わりっていう。なぜ文章が読みたくなるの? 文章って数式やグラフに比べると、曖昧性があるんだよ?
S君 どっちともとれる。
教授 うん。だから、私なんか、曖昧な文章をだらだら書く時間があったら、全部数式で書いてくれ、データで語ってくれ、っていいたくなるね。
S君 おそらく、世の中の多くの人は----『経済は感情で動く』なんていう本もありましたが----自分と似た考え、あるいはシンパシーが持てるセンテンスだけを拾い読みして、それで満足感を得ているんでしょうね。「自分と似た考え」というのも誤解なんでしょうが(笑)。こういうのが、たぶん経済本とかビジネス本の一般的な読まれ方で、ファクトを知ろうとする教授の読み方とまったく違うところだと思います。
教授 そうね。
S君 そこから俗説がどんどん出てきて、間違いが生まれていくと。ファクトとデータから、どんどん乖離していくわけですね。
教授 だろうね。経済を知るには、ファクトとデータしか要らないのにね(笑)。

しかし、人によっては、これに反対するかもしれない。あらゆる知識は数式にできる、と思っているなんて、文系学問を馬鹿にしている、と。しかし、言いたいことは、そういうことではないわけである。
まず、文学を、以下のように形式化してみよう。

  • 文学:人間 --> 記号列の集合(文学作品群)

たいして、学問を単純に、関係化すると以下となる。

  • (研究者、研究対象)∈ 学問

では、文学を「学問」とする、とした場合、どうなるか。

  • (文学研究者、文学作品群)∈ 文献学

つまり、

  • 「文学」学 = 文献学

となる。文献学とは、言ってしまえば、文学史研究のこととなるだろう。つまり、歴史学である。
もし、文献学が、ここまでのことを意味するなら、

  • 文献学 ⊂ 文学(二次創作)

のことを意味しているにすぎないだろう。
(このことは、数学基礎論を考えると分かりやすい。

となり、(メタの立場で)数学を「対象」と考えるということであるわけだが、言うまでもなく、

なわけで、つまりは、数学基礎論も数学であるように、文献学も文学、だということになる。)
しかし、一般には、もう少し、混み入ったことを行うとき「科学」と呼ばれる。

  • 科学 = lim(裁判:結審の日 --> ∞)

となり、つまり、科学とは結審しない裁判と同値と考えられる。

  • (原告、被告、裁判官、起訴文、判例)∈ 裁判

これの、科学に対応するものが、

  • (研究者、科学者集団、レフェリー、研究仮説、定説)∈ 科学

となる。つまり、科学において行われる研究は、一般に「定説」と呼ばれる、この科学者集団が共有する
ゲームの規則
の、「変更」を要求する手続きであることが分かるだろう。しかし、上記で指摘したように科学において、結審という概念がない。つまり、科学の分野は、必然的に
エントロピー
が増大すると考えられる。それは、人文科学において、研究者一人に一つの仮説があると言われるくらいに、多くの学説が林立している状態を示唆している。しかし、多くの場合は、ある仮説が、往々にして、その時代を席巻する(トマス・クーンはそれを、パラダイムと言ったわけだが)。それは、多くの場合

  • 事実性(有用性)

が、「自然に(自然淘汰的に)」圧力となってるから、と考えられるだろう(その科学者集団を社会的に、マネタイズしているのは、そこから生まれる結果を「評判」する、一般社会の「援助」と考えられわけで、そうであるなら、その集団の「ゲーム」には、有用性などの、ある「淘汰圧」の傾向をもつだろうことは、普通に考えられる)。
原告が被告を訴えるには、「何」を訴えているのかの、起訴文、が必要である。これが、科学における
論文
にあたる。つまり、

  • 起訴文 = 文献学論文

となる。このように考えるなら、論文には少なくとも、何が書かれていなければならないのかが分かる。

  • 今まで「定説」とされてきた、どの仮説を、今回、「発明」した、どんな仮説に代えることを要求しているのか。

つまり、

  • (定説A、新仮説B、証明)∈ 論文

と構造化されている(されてなければならない)ことが分かる。
つまり、

  • 科学:{定説集合} --> {定説集合}− 定説A + 新仮説B

つまり、科学とは、このような過程を繰り返し、絶えず、定説群を更新(フォーミュレイト)し続けているホメオスタティックな運動体だと、モデル化できるだろう。
そこで問題となるのが、
仮説 = 論理式
の「定義」となる。一般に、私たちが日々行っている、言論とは、二つの部分によって構成されていると考えられる。

  • 固有名(個的指示=無定義)部分
  • 論理(モデル)部分

前者は、人々がその言葉を、どういう意味で使っているのかを、「一般」化できない、という懐疑論が発想のベースにある。一人一人、その言葉をどういう意味で使ってきたのかは、人生が人それぞれであるように、一意にならない。しかし、「その人」にとっては、「自明」である。この場合、後者の立場からは、それらを、
無定義述語
にしてしまうわけである。つまり、後者の立場からは、それら一つ一つが何と
一対一
になっているのか(別のもので、その意味を担保すること)を、やらず、最初から、「この言葉に意味なんてない」という所から始めるわけである。じゃあ、意味はいらないか、というとそうでなく、その意味は、後者のモデル化において、
関係
によって「定義」してしまう。「それ」に意味が与えられてなくても、「それ」の使い方が「制限」されることによって、意味が「ある」と同じように、言語の中に
場所
が与えられる、というわけです。そうすると、前者の「固有名」性と後者のモデル化との言語内での
両立
が「文脈上」可能になる、と言えるでしょうか。
少し遠回りの説明になったが、つまり、

  • (学問対象、学問結果モデル)∈ 学問

となっており、学問対象は完全なアナーキーなカオスでいいのだが、学問活動によって、成果とされる、研究結果は、モデルとして、
構造化
されなければならない、ということである。つまり、

  • (グラフ = 数式 = データ)∈ 学問結果モデル内の「対象」

ということで、「この」学問内において、その対象は、
ファクト
と「対応」している(と考えるのが科学)のだから、これでいい、ということになるわけである。
では、この「モデル化」の例として、これが「マクロ経済学」の文脈において、どのように考えられるか、と考えていこう。
たとえば、ある「国家」がある、と言った場合、実際には、何を言ったことになるかと言えば、その「国家」を「それ」たらしめる、
パラメータ
な何か、と考えることになります。すると、次の「トートロジー」がでてきます。

  • 歳入 = 歳出

しかし、

  • 歳入 = 税収 + 税外収入 + 公債

となりますから、つまり、

  • 税収 + 税外収入 + 公債 = 歳出

となりまして、つまり、東日本大震災で復興するために、歳出を増やさざるをえない、となったときは、三つのオプションがあることが分かります。

  • 税収を増やす。
  • 税外収入を増やす。
  • 公債を増やす。

つまり、税金を上げるかどうかは、一つのオプションにすぎない。資産を売ってもいいし、借金をしてもいいし、国が独自に通貨(記念コインのようなのも含む)を発行してもいいし、少なくとも、国民が税金はなるべくなら嫌と言っているのなら、オールタナティブを考えないのは、思考停止だということだろう。
同じようなことは、「企業」にも言えて、その「バランスシート」は例えば、東電なら、

  • 収入 = 支出
  • 収入 = 電気料金 + 電力外収入 + 資産売却
  • 支出 = 燃料費 + 人件費 + その他

つまりは、

  • 電気料金 + 電力外収入 + 資産売却 = 燃料費 + 人件費 + その他

となるわけで、

  • 燃料費(原発停止にともなう代替の火力などの燃料費)
  • その他(福島第一の事故収束費用 + 福島第一の賠償 + 原発廃止による費用)

が増えるなら、電気料金を上げるオプションだけでなく、

  • 電力外収入、資産売却、を上げ、人件費を下げ

れば、いいんじゃないか、という「選択肢」もある、ということであろう(もちろん、東電自体の倒産も、一つの選択肢であろう。その場合は、上記のトートロジーに、国家による倒産に対する保証手続きが関係してきて、複雑にはなっていくだろうが)。
そもそも、マクロ経済学「そのもの」の「パラメータ」はどうなっているだろう。

  • マネタリーベース
  • 国債金利
  • 物価
  • 為替レート
  • 設備投資
  • 鉱工業生産
  • 消費

また、これらの関係を、

といったもので現す。
ここで、マネタリーベース、国債金利こそが、政府が「操作」でき、この二つは需要と供給に、反比例の関係を与える。
その他のパラメータは、この操作による「結果」でしかない。
しかし、問題は、こういう関係がある、と言ったときにそれが、何を意味しているのか、ということになるでしょう。

教授 いまいったように個々の変数間の関係を関数で表すという考え方を、マクロ経済学はずっととっていたの。ところが、それに異を唱え経済学者が現れたんだな。その最初の人が、二〇一一年にノーベル経済学賞を受賞した米ニューヨーク第のトーマス・サージェント教授。その主張を簡略化して表現するとこういうことになるんだ。
そういった関係式で解は求められるけど、そういった解が実際の経済活動を分析する上で有効なのは、求められた解が動かない場合だけ。でも、現実の経済では、それが動いてしまう。安定的に一定の関数関係で表現できるとは限らない。なぜなら、企業や個人の「予想」や「期待」が変化して、政策当局が見込んだ動きとは別の動きをしてしまうことが多々あるから。

つまり、こういった「トートロジー」は、その「一瞬」においては、あまりにも、正しすぎるくらいに正しいのだが、その状態=方程式「自体」が、

  • 一つ一つのパラメータを動かす人々の行動に「影響」を与える

ために、どうしても、それぞれのパラメータがランダムになり、一般に、方程式を考える場合の、
因果関係
がグチャグチャにしかならないわけですね。
じゃあ、どうするか。
こういう場合に、普通に考えるのが、統計学で言う「回帰モデル」でしょうか。つまり、この方程式「から」考えるのではなく、ある瞬間のこの恒等式と、別の瞬間のこの恒等式の二つから、その
相関関係の「程度」
のことを、
マクロ経済学
と定義としよう、となりますかね...。

数学を知らずに経済を語るな!

数学を知らずに経済を語るな!