L・フェスティンガー『予言がはずれるとき』

(全体的に、掲題の本とあまり関係ない話が多くなってます。)
認知的不協和理論というと、私は、漫画の『ナニワ金融道』を、思い出す。
作者が亡くなった後も、連載は続いているようだが、私は読んでいない。おそらく、さらにテクニカルな話が続いているのだろう。
私が素朴に思ったのは、そもそも、あの漫画で作者は、なにを描こうとしていたのかな、ということだった。あの作品は、なんというか。一般の漫画とは、どこか視点が違っていたように思う。
それは、ちょっと変な比喩を使うなら、夏目漱石に似ている、と言えるかもしれない(そういえば、漱石の「坑夫」という作品は、どこか左翼的だった)。
一般に漫画は、子供の頃から「オタク」と自称して育ってきた「エリート」が、この分野での「自尊心」を満足させるものだと言える。だから、漫画家は非常に若くして、作家デビューをする。しかし、作者の青木さんは、そもそも、かなり高齢になってから、漫画家になった。
作品の雰囲気にしても、明らかに、他の作品と違う(というか、これこそ「思想書」そのものだ。私はこれに比肩しうるくらいの思想書を、寡聞にして、日本では知らない)。
おそらく、作者は自らを、「ナニワ金融道」の、一人のキャラクターと考えたのではないか。自分も漫画を書くことによって、一儲けしてやろう、と。
ナニワ金融道」では、多くの登場人物が、多額の借金にはまっていく。作品の最初の方は、そういった「患者」たちを、高利の金貸しによって「ヤブ医者」的に「治療」していく、闇金融からの視点で描くことに、集中している。主人公の灰原という、この業界に入りたての若者の視点から、この資本主義世界の
構造
をえぐりだそうとしているその姿は、著者が自称するように、まさに、ドストエフスキーでありマルクスだ。
しかし、後半にいくにつれ、どうも、そのフレームは、別の方向へ向かっているように思われる。
例えば、肉欲棒太郎という登場人物は、作品の初期には、借金で追い込まれ、つんだ存在として「エンディング」を迎えている。ところが、作品の中盤になって、突然、再度中心的存在としてあらわれ、広島の田舎で、再起をかける。小さなプレハブのような小屋を借りて、自分が日々の生活から見つけだしたビジネスで一発あてようとする。
明らかに、作者は、こういった、一度失敗したキャラに感情移入している。そういったキャラをたんに

  • そこで結論の出た(最後=目的)

存在として扱おうとせず、まだ「先」がある存在として描こうとしている。
これは、彼自身の人生を重ねているのではないか。
ゲーム理論は、「勝負」の結果を、ヘーゲル的な「目的=最後」として、描きがちだ。つまり、そこで結論のでた対象について、振り返ろうという意欲がない。
しかし、人間とは、そういう存在ではない。まさに、キルゲゴールの描くように、

  • 何度も何度も「反復」する

そういった存在として描こうとする。
(一回、へたこいたから、それがなんだというんだ。人生は死ぬまで、エンドレスだ。何度だって、チャレンジすればいい。)
そもそも、どうして、消費税増税は問題なのだろうか。
それは、たんに、貧乏な家庭が、消費税分だけ、支出が増えて、主婦の財布の紐が厳しくなるということだけではありません(これだけでも、民主主義的には、アウトですけどね)。
斎藤貴男さんの、一連の著作で指摘されていますが(私は本当に不思議なんですけど、消費税を推進されるのであれば、それらの本に反論してもらえませんでしょうか。少なくとも、この本に対する見識を示されてから、消費税増税を、のたまってください。そうでないと見苦しいです。自分を、いっぱしの、言論人だと思っているのであれば)、それは、

  • 今の消費税の「形態」

が、小規模小売業者が、圧倒的に
不利
だからです。私たちが、商店街に行って、年配の夫婦が、店を切り盛りしていますが、こういった小さい形の商売の方々が非常に不利だからです。
まあ、どんな商売でもいいでしょう。なんとか少人数で、独力でやっていこうという、商売を考えているところは、どこも苦労することになります。
逆に、岡田克也副首相の、お家のジャスコのような、大型デパートのようなところには、有利です。
なぜなら、そういった、商店街の小さな店を
根こそぎ
ぶっつぶして、自分たちの販路を拡大できるからです。
(ですから、利益相反から、岡田副総理が血まなこになって、なんとしても、消費税を通そうとしているのは、彼の「野望」なわけですね。彼は、
そういう
日本を理想としているわけです。)
私に言わせてもらえば、消費税は、ショッピングモールの味方ですが、コミケの敵です。
これが「新たな大規模店舗法」だと考えると正しいのではないでしょうか。
私たちが、この資本主義社会で生きていこうと考えたとき、だいたい、以下の方法に分かれます。

  • 大企業に務める。
  • 小さな企業に務める、または、自分で小さな企業を立ち上げる。
  • 生活保護を受ける。

消費税増税は、その国の中で、真ん中の選択を選びづらくなります。問題は、こういう世の中に、あなたは
住みたい
かどうか、です。想像してみてください。もし、自分が会社を解雇されたとしましょう。でも、子供たちを養っていかなければなりません。まだ、子供は小さい。あと何年かは、子供たちに、ご飯を食べさせて、学校に行かせなければなりません。そうした場合に、もし、最初から、上記の真ん中の選択が、税制上の制限によって、選べないようになっていたら。
街には、個人経営の、ラーメン屋も、金物屋も、駄菓子屋も、八百屋も、魚屋もなくなります。ジャスコとか、ダイエーとか、松坂屋。あと、ローソン、ファミマ、こういった、コンビニ。あとは、系列の、ラーメン屋。
こういったものしか、なくなったら。
あとは、自分が、どういった世の中に住みたいか、を考えるといいのではないでしょうか。
想像してみましょう。
もし、自分が借金まみれになって、大きな会社に相手にされなくなったとします。そのとき、それでも、そういった

  • 小さくても、なんとか自分の思い通りにできる商売で、なんとか生きてみたい

と思うのであれば、今の消費税の制度は、

  • もし自分がそういった人生の場面に遭遇したとき

には、厳しい制度だと。
一般に、どうして、ベーシック・インカムは、難しいと考えられるか。それはこれが戦時中の、配給制に似ているから、じゃないでしょうか。
「みんな」に同じものを配るということは、「それを欲しくない」人にも配るということになります。そうすると、「それをどうしても欲しい」と思っている人に、十分な量が渡らなくなります。
一般に、福祉政策が難しいのは、国家の予算の配分が、基本的に、定量的だからじゃないでしょうか。たとえば、不況になったとします。そのため、福祉に使えるお金が少なくなったとします。じゃあ、どうするのでしょう? 背に腹は変えられないでしょう。全員の給付額を一律、減らすわけです。
以前にも書きましたが、この資本主義社会において、お金持ちの税金が増やされるということは、まず、起きないと思わなければなりません。日本のバブルから失われた20年の間に、いったい、どれだけのお金持ち向けの税金が減らされたでしょうか。
しかし、お金持ちからの税収がミニマムに減っていくということは、以下の三つの選択肢しか残りません。

  • 貧乏人からの税収を増やす。
  • 貧乏人への給付を減らす。
  • 公務員の給料を減らす。
  • 社会インフラ自体を減らす(または、値切る)。

どっちにしろ、ジリ貧です。
私が不思議なのは、ソーシャル・ネットがこれほど盛んになってきて、多くの人が、そのソーシャル・ネットに参加しているのに、そのソーシャルネットを使って、社会の貧困を減らそうと考えないことではないでしょうか。むしろ、このソーシャルネットが、格差社会を拡大することは、歴史の流れなので避けられない、とか、格差社会不可避論を吹聴するというわけです。
しかし、じゃあ、こういう人たちは、なんのために、ソーシャルネットに参加しているんでしょうね。格差拡大に抗うこと以外に、ソーシャルネット上で、やることなんてあるんでしょうか。
このソーシャルネット・ツールを使って、なんとか国内の貧困問題に風穴を開けようと、がんばられている方々は、大変に尊敬します。こういった活動は、大変に有意義であるだけでなく、大きな意味を感じます。
お金とは、どんな特徴をもったものでしょう。
お金の大きな特徴は、それが「動かなければ」、流動することなく、一つところに滞留していては、非常に問題のある、という特徴ではないか、と考えます。
例えば、バナナの叩き売りの人や、ガマの油売りの人を考えてみましょう。もっと、イメージしやすいものとして、なにか、電池式のラジオを売っている人を考えてもいいでしょう。
ある営業の方が、街で、人を集めて、叩き売りをしているとします。その営業の方は、その商品が「こんないい」性能があるんだ、と自信たっぷりに、ときには、ユーモアをまじえて、宣伝します。
これを、おもしろがって聞いている群集は、もちろん、そんなラジオなんて、今さらいらないわけです。
でも、です。
もし、そのラジオを、聴衆のだれかが買ったとしましょう。まあ、物好きですよね。別に、どうしても欲しかったわけでもないんだけど、オッサンのしゃべりがおもしろかったし、いい時間を過せたから、買ってあげようかな。みたいな。
すると、「その営業の方」の、儲けになります。つまり、その営業の方に具体的に、お金が廻るわけです。
このことが大事です。
そうやって、なんとか、

  • 日本中の人々

の懐に、どうやってお金を回せるのか。これを考えなければなりません。それが、
景気がいい
ということを意味するからです。
(一体、どんなシステムを作れば、こういった社会が実現できるでしょうね。)
多額の借金をしながら、自分はまだいける、と甘く考える顧客を、次々と「はめて」いく、高利の闇金業者。しかし、なぜ顧客は、「まだ自分は大丈夫」と考えるのか。
一人、家に帰り、六畳のワンルームに、木造で畳の部屋に蒲団をしき、そこに寝て、天上を見上げれば、そこにあるのは、部屋を灯す、ドーナツ型の電灯。
その電灯を見ながら、一人、考えます。
「ちょっとくらい、ぜいたくしたって、なんとかなる。困ったら、カードをつくればいい。」
彼のつぶやきに、もちろん、だれも答える人はいません。だって、一人なのですから。だれも反論がないのですから、自分が語る自分が都合のいい言葉しか、自分の耳に入ってきません。だって、自分以外に自分に語りかける人はいないのですから。
つまりは、「なんとかなる」という根拠のない説得を自分に対して行っている、ということになる。
しかし、こういった「トンデモ科学」を、どうして、それぞれの人は免れることができるだろうか。
だって、そうだとすれば、自分にとって「有利」なのだから。それは、自分を説得できるかどうかにとどまらない。その仮説を自分が信じ始めた(信頼し始めた)その時から、自分は会う人、それぞれに対して、自分の主張する内容が正しいことを、論争し始める。もちろん、その論争に負けたときが、自分のその信念を捨てるときになるが、ということは、その信念を捨てなければ、自分はいつまでも負けない、ということでもある。
勘違いしてはならないのは、自分がそのトンデモ科学を「信じる」ようになったのは、

  • 自分を守る

ためだった、ということである。そうすることが、自分の不安を押え込めたし、なんにせよ、それを信じたら、「心がすっとした」のだ。つまり、これで、その人は、当分の間、

  • 健康

でいられるのだから。

協和と不協和は、認知----すなわち、意見、信念、環境についての知識、それに自分自身の行為や感情についての知識----の間の関係を意味する。二つの意見あるいは信念、あるいは知識項目は、もしそれらが適合しない----すなわち、それらが矛盾するか、あるいは、この特定の二項目だけを考慮に入れた場合に一方が他方から帰結しない----とすれば、それらは互いに不協和である。たとえば、喫煙が自分の健康に悪いと思っている喫煙者は、自分が喫煙を続けているという知識と不協和な意見を抱いていることになる。その人は、他にも多くの意見、信念、あるいは知識項目を持っており、それらは喫煙を続けることと協和的であるかもしれない。が、それにもかかわらず、先の不協和も存在し続けている。
不協和は不快を生み出し、それに応じて、不協和を低減させたり除去させようとする圧力を生じるであろう。[したがって]不協和を低減さえようとする試みを行うことは、[逆に]不協和が存在するということを観察可能な形で示すことになる。そのような[不協和低減の]試みは、[次の]三つの形態のいずれか、あるいはそれらすべての形態をとるかもしれない。人は、不協和に関わる信念、意見、あるいは行動のうちの、一つあるいはそれ以上を変化させようとするかもしれない。また、すでに存在している協和[の側面]を増大させ、それによって不協和全体[の比率]を低減させるような、新しい情報あるいは信念を獲得しようとするかもしれない。あるいは、不協和な関係にある諸認知を忘却してしまうか、その重要性を減少させようとするかもしれない。
右の試みのいずれかが成功する場合には、それらは物理的あるいは社会的な環境から支持を受けるに違いない。そのような支持が欠けているときは、不協和を低減しようとする最も断固たる努力も不首尾に終わるかもしれない。

たとえば、ルーマンは自らの提唱する社会システム論という「マクロ」理論に対応する「ミクロ」理論として、
信頼
という言葉に注目する。
このことが、なにを意味しているかというと、あらゆる社会システムが、この個人的な「信頼」という感情によって、成立している、というわけである。
ルーマンにとって、大事なことは、社会が複雑なままでは、コントロールできない、というところにある。そのため、なんらかの形で人々は、この社会の複雑性を「どうにかしている」と考えるわけである。

信頼とは、最も広い意味では、自分が抱いている諸々の[他者あるいは社会への]期待をあてにすることを意味するが、この意味での信頼は、社会生活の基本的な事実である。もちろん人間は、様々な状況において、特定の点では信頼を寄せるか・寄せないかということを選択している。しかし、なんの信頼も抱きえないならば、人は朝に寝床を離れることさえできまい。

信頼―社会的な複雑性の縮減メカニズム

信頼―社会的な複雑性の縮減メカニズム

(人々は、なんとかして、この社会の(順列組み合わせ的な)複雑さを、単純化する。その基本的なアイデアが「信頼」である。つまり、ルーマンにとって、この人々が当たり前のように行っている「信頼」行為が、この社会をシステム論的に扱うには、根底を構成するアイデアだということになる。)
では、この問題を少し前に検討した、「朝を繋ぐ」行為として考えてみよう。
朝起きて、私たちは、今日一日に起きうる、あらゆる可能性を想定して、ベットから飛び出るわけではない。
そんなことをしていたら、それだけで、日が暮れてしまう。
しかし、なにも考えずに起きるわけでもない。じゃあ、なにを考えるか。昨日「失敗」したこと、についてである。昨日失敗したことは、自分にとって、大きなことだっただけに、恥ずかしくて、ずっと頭の中にある。そして、少なくとも、今日は、その失敗をしないためには、どうすればいいか。それを、とにかく考えている。
では、「それ以外」は、どうしているのだろう。
なにも考えていない。
ということは、どういうことか。「信頼」している、ということである。きっと、それ以外のことは、今日も昨日と同じように、「うまくいく」だろう。きっと、うまくいくような環境になっているだろう。まわりの人は、昨日のように、今日もふるまってくれるから、自分も昨日のように振る舞えば、「うまくいく」だろう。
私たちの頭が、昨日うまくいったことについて、「でも今日は失敗するんじゃないか」と悩まないのは、そういうことだと考えられる。
しかし、そのことは、少しも自明ではない。
つまり、「信頼」とは、別に根拠のあるものではありません。つまり、嘘かもしれないわけです。

信頼は、究極的にはいつも基礎づけえないのである。信頼は、目下手元にある情報から、与えられた以上のものを引き出すことによって成立する。既にジンメルが気付いていたように、信頼は、知と無知との合成なのである。たしかに、信頼する側は、なぜ然々の場合に自分は信頼を寄せるのかと問われたとしても、べつに困惑しはしないだろうし、なんらかの理由を挙げうるであろう。しかし、そうした理由は、[信頼することを支えるよりも]むしろ自分の自尊心と自分の社会的正当化に役立つものなのである。自分が寄せた信頼が誤用されたときに、人の眼の前で・また自己自身に対して自分を、愚か者・未経験者として生活不適格者として呈示するのを防ぐものは、まさに信頼した側の自尊心と自己の社会的正当化なのである。それら[なぜ信頼するのかに関わる理由]は、いずれにせよ信頼を[あるところに]置くことを支えるのであって、信頼そのものを支えるのではない。信頼は、相変わらず冒険なのである。
信頼―社会的な複雑性の縮減メカニズム

ルーマンの言う「信頼」は、ルーマンシステム論の根幹を構成するものであり、なによりも、重要です。複雑性の縮減は、人々が、「信頼」して、行為しているからにほかなりません。つまり、人々が、信頼していなければ、システムは存在しないし、複雑性は複雑なままだということです。
ところが、その信頼には、なんら演繹的な根拠がない、というのです。
つまりルーマンの言う信頼と、掲題の本が指摘する「認知的不協和」は、非常に密接に関係しています。
では、ルーマンの信頼をもう少し、細かく分析してみましょう。信頼しているということは、その信頼に関係している人が言っていることを信じている、ということになります。つまり、その人が語る未来の情報(予言)に、
のっとって
活動しようと決断している、ということです。
ところが、さきほどから言っているように、信頼には、根拠がありません。嘘を信頼しても信頼です。どんな「トンデモ」だろうと、信頼なのです。
こういうふうに言うと、そんな「トンデモ」を信頼しないように、しなければらない、と考えないでしょうか。
ところが、そう言ってしまうと、困ったことになります。というのは、この信頼が、私たちの社会システムを構成している根底的な根拠なので、信頼しないとなると、そもそもの、この
システム「自体」
が、成立しえない、ということになってしまうわけです。
ルーマンにとって、システムとは、ミクロにおける「信頼」の「別名」にすぎないわけです。ということは、人間一人一人が「信頼」をしていなければ、それはシステムとなりえないことを意味するわけで、完全にこの、人間における「信頼」の機能に
依存
している、ということを意味するわけです。
ところが、先程から言っているように、この人間の信頼は「トンデモ」であるかもしれません。つまり、信頼「しなければならない」(そうしなければ、ルーマンの言うシステムとならない)、かつ、信頼「してはならない」(「トンデモ」かもしれないから)、というダブルバインドに直面するわけです。
人々は信頼すべきなのでしょうか、信頼してはならないのでしょうか。
このはざまにおいて、認知的不協和を位置づけることができます。
認知的不協和が起きているということは、その人は、ある「予言」を信じている(信じていた)ということを意味します。しかし、それが「トンデモ」であったからといって、
システム
はもう、それを前提に動いてるのですから、さまざまな「複雑性」の縮減を考えるなら、むしろ、その「トンデモ」は、そのシステムによって、担保されたなにか、だと考えなければならなくなるわけです。だって、そうでなければ、その「システム」を、そのままでは維持できないのですから。
システムは「マクロ」の、社会が要請してるなにか、です。「それ」によって、社会が回っているのですから、個人の「トンデモ」の「判断」は、そのシステムの前で、葛藤となります。
このことは、逆にも言えます。自らが「信頼」するものが、他人から見たとき、「信頼」できない「トンデモ」となる場合です。

我々がこれから本書で述べようとしている出来事が起きる一年ほど前のことだったが、夫人は、初冬のある明け方近くに目がさめた。「私は、なんだか腕がひりひりしたり、しびれているような感じがしました。それに、腕全体が肩のところまで暖かったのです」と後に、そのときのことについて述べた際、夫人はそう言った。「私は、誰かが私のところまえ注意を引こう引こうとしているように感じました。なぜだかわかりませんでしたが、私はベッド近くのテーブルの上にあった鉛筆を見ていて、不思議に見慣れたものに思ったのですが、それが自分自身の筆跡ではないことはわかっていました。私は、誰か他人が私の手を使って書いているのを悟り、「あなたの正体は誰ですか?」と言いました。そして、答えがありました。たいへん驚いたことに、それは私の父だったのですが、父はすでに亡くなっていたのです」。

ある父親に可愛いがられた人の父親が亡くなった後、その父親のことを、ときどき思い出していると、なんとなく、文章を書いていて、その文字列が、まるで、父親が書いているような文章になったとしましょう。それが、その人にとって意図的か無意識かは、それほど問題ではありません。なんとなく、ぼーっとしているときに、そんなことをやってしまうわけです。
しかし、その文章を目の前にして、その人は、これが亡くなった父親「による」行為かの判断に迫られます。
もちろん、他人から見れば、これが父親なはずがありません。なにせ近代科学が許しません。しかし、その人にとってみれば、そういった行為をすることは、意外に容易なのかもしれません。
毎日、父親の近くにいて、彼の書いているものを見ていたり、それを真似したりしてたことも何度もあったりして(しかし、他人には、そのあまりにもの似すぎに、びっくりするかもしれませんが)。
そもそも、意識的と無意識的というのは、そこに、はっきりとした定義があるわけではありません。その人の人生の文脈において、そういった「なんとなく」やってしまっていることを、意識的にやっている、と考えないかもしれません。
(ここから、上記の人は、さまざまな人が彼女にのりうつり、その人の「お告げ」を、書くようになる。しまいには、宇宙人からのメッセージを聞くまでにもなり、まあ、電波系のネタ元みたいになっていくわけですけど、上記にあるように、その最初が亡くなった父親から始まっている、というのは、その人がどういう過程を経て、そのようになっていったのかを考えるときに、わかりやすく思えるんですけどね。)
つまり、結局のところ、人にはその人の文脈があるので、そう簡単に、
最大公約数
を指摘することは、難しいということです。
つい最近、オウム真理教の逃亡犯が、つかまりました。しかし、その報道は、犯罪者が、こんなに長い間、逃げられるような「悪い社会」から、ソーシャルネットで、社会を「可視化」して、犯罪者が、こんな何年も逃げられないように、みんなでみんなを監視する、
善い社会
にしようという言説であふれかえっています。
しかし、そういった人たちの態度には、彼らが「なぜ」このような犯罪を行うことになったのか、という

  • その人

への関心が不気味なほど希薄です。オウム真理教は「予言」宗教でした。なぜ、信者はその「予言」を信じたのか。それぞれの信者は、どんな生涯をたどり、どんなコンテクストの過程で、その「予言」を、「信頼」するようになり、その犯罪を行うまでに至ったのか。
国家という、警察「システム」を「自明」とするなら、そういった各個人のコンテクストは、過剰な「複雑」性にすぎない、となるだろう。自明な「ノイズ」であり、彼らにとっては、

となり、彼らの考える、安心システム、「理想社会」、

  • 善社会

の「敵」なのだ。
しかし、そうやって
警察の「トンデモ」
を、認知的不協和によって、握りつぶし続けるなら、いずれは、各個人の「コンテクスト」が、その人を

にするだろう。システムと「信頼」が等価であることを忘れた人間は、「現実」に耐えられず、各個人の「複雑」性を抑圧し始める...。

予言がはずれるとき―この世の破滅を予知した現代のある集団を解明する (Keiso communication)

予言がはずれるとき―この世の破滅を予知した現代のある集団を解明する (Keiso communication)