二つの手

私たちが毎日生活していくうえで、手というのは、とても不思議な存在である。
この右手と左手が、どういうふうに不思議かというと、まあ、言うまでもないだろう。私たちが、だれかと「契約」をかわすときは、文字を書き、契約書をかわす。日常の仕事で、パソコンを使うときは、一日中、手で、キーボードを打ちっぱなし。もちろん、食事をするときは、必死になって、手で箸を使って、口に食事を運ぶ。
まあ、一日、なにをやるにも、手を使わないことはない。

動物も自分のからだが見えないわけではありません。しかし前足は、それをなめる行為や獲物を押さえる行為の一部として見えているのであって、動物は足そのものを見ているのではない。手そのものを見て遊ぶ赤ん坊の手遊びは、身が身へ折り返す二重化のはじまりであり、もっとも原初的な自意識の萌芽ではないでしょうか。自分の自分に対する関係が反省ですが、身体的レヴェルでの反省ともいうべきものが、この二重感覚にはあるわけです。そして赤ん坊は、最後に手をくわえることによって、見える手を自己に同一化し、見える手を内から感じている手の分裂をのりこえるのでしょう。
それにひきかえ、からだ以外のものを手のように自由に動かせないのは、何という不条理でしょう。これは意のままにならない<他>の発見です。魔術や技術は、世界のすべてを自分のからだのように自在に処理しようとする願望であり、工夫だといえるでしょう。

〈身〉の構造 身体論を超えて (講談社学術文庫)

〈身〉の構造 身体論を超えて (講談社学術文庫)

脳とは、頭蓋骨の中にあるものを指すようだが、それは、「神経」のことであって、それは、脳から脊髄を通り、体中の末端まで、はりめぐらされている。
ということは、どういうことか。
つまり、「脳」は、全身に、「はりめぐらされている」なにか、のことを意味しているにすぎない。頭蓋骨の中に収まっている、なにかと、体の末端まで、はりめぐらされている何かを
離して
考えることには、意味がない、ことを意味している。

重ねた灯菱の想いは辿り来た路(ミチ)の標(シルベ)
幾十許(イクソクバク)の言ノ葉(コトノハ)よりも一つの紋(シルシ
駆け出す足音は遥か永久(トコシエ)の遠音(トオト)へ
纏(マト)た螺旋の誓いをこの両手で刻み込んでゆく
喜多村英梨「紋」)

紋(しるし)

紋(しるし)

パソコンで、キーボードを打つと、そのスピードに応じて、ディスプレイに、文字が並びだす。そのディスプレイを眺めながら、視覚から、そのディスプレイ上に並ばれる文字の出力を眺めながら、

は、その文字列に「対応」して、キーボードを打ち続ける。
そしてこの、「循環運動」は、
ずっと
続くのである。いつまでも、いつまでも。このように考えたとき、その間の、そのキーボード、ディスプレイ、目、指。これらは、ずっと「連携」していると、言えなくもない。つまり、一つの

のようになっている。
(例えば、歩く動作や、サッカーのようなスポーツでは、ここで言っている「手」の代わりとして、「足」が、その役割をしているところが、特徴だと言える。)
こうやって考えてくると、手というのは、とても、興味深い。たとえば、走るという行為は、なんというか、なんだか分からないけど、わたしたちはできている。つまり、どうやってるのかわかんないんだけど、私たちは、あまり意識しなくても、走ることができる。つまり、こういった行為を「不随意筋」と呼ぶ。
これに対して、手というのは、かなり自分の意志で、たいていのことをやっているように感じる。
五感のような、受容する器官は、かなり意識的に動かせる。目は、遠くを見ようとしたり、左右を確認しようとすれば、意識した通りに、眼球は動く。同じように、手は、かなり意識的に動かしているように思える。
ということは、なにを言っていることになるのか。
つまり、手が今、

  • どうなっているか

が、すなわち、その人が今、どういうことを考えているのかと、かなり、シンクロしていると想定できる、ということである。
ある人の手が、今、どんな形になってるかは、その人の「脳」が、今何を考えているのかの

をしているのだ。

これは、アニメ「シーキューブ」の最終回で、サベレンティの登場の場面であるが、彼女は、敵から味方から、みんなが自分に注目していて、なにかやんなきゃなんない雰囲気に動揺しているわけだ。

これは、アニメ「這いよれ!ニャル子さん」の場面で、ニャル子を(腐女子的に?)好きなクー子が、ニャル子が、ばらまいた、ニャル子の水着の生写真に、腐女子的に、くらいついている場面だが、なんだかわかんない、手の動きになっている(こういったのも、どこかのアニメの場面のオマージュなのだろうか)。

これは、アニメ「咲-saki-阿知賀編」で、解説の小鍛治プロが、アナウンサーに、へんな褒められ方をされて、あわわ、になっている場面で、こういった手の動きも、なんかよく見るような気もする。

これは、またアニメ「シーキューブ」のサベレンティだが、これまでは、手の(動揺した場合の)動きのピックアップであったが、今度は、ある「気持ち」を伝える意味でのポースとなっている。
(最近の若い子は、こんなことを、するのだろうか。)
ある絵画があったとき、それを「それ」と受け止めることは、間違いではない。しかし、私たちは、絵画を見る以前に、すでに
人間
なのだ。そうであるなら、その絵画が、なにを伝えようとしているのか、ここには、どんなメッセージがあるのか、と考え始めるのは、当然のことではないだろうか。
私の考える、全国痛車革命は、別に、車にかぎらない。あらゆる、私たちが視覚としてとらえる対象を、アニメ絵で蔽う。それは、たんにその絵ではない。
なんらかのメッセージ
なのである。
その絵の一つ一つは、私たち人間が、その絵を描いた人によって、なにかを伝えようとしたメッセージとして受け止める。そして、そこには、手が、当然のように描かれるようだ...。
なぜ、手なのか。
それは、手がその人の心の「形」であるのと、同じく、一つの他者への
メッセージ
になっている、と考えられるからである。手が、ある形をしていることは、それを見ることになる(見ている)他者へ、

  • なにか

を、伝える形になっていると、とらえることができる。

これは、京アニのアニメ「AIR」の第一回目の最初の場面ですね。各地を人形パフォーマンスをやりながら転々としていた、国崎住人(くにさきゆきと)と神尾美鈴(かみおみすず)が出会う場面ですが、この最初がすでに、こういった両手を広げるポーズだったんですね。
もちろん、作品のその先をすでに見ている、私たちは、あらためて、この最初の場面の彼女のその姿を見ることで、その

  • メッセージの意味

を、考えるわけです...。