ルーマンシステム論における「中和」

社会の複雑化が、宮台さんの言う成熟社会、つまり、「終わりなき日常」論の、根底にある認識であった。
こういった認識は、社会の機械化、IT化の進行と共に、共有されるようになる。ITのような、コンピューターによる、高速計算装置の出現が、社会のさまざまな「作業」を、高速化することによって、今までの人間社会では考えられないような、高度情報社会を出現される。
このように言うと、一見、社会は「単純」になったような印象を受ける。社会のさまざまな問題は、このITによって、

  • 整理

されたのではないのか。より、社会は「単純」になったのではないのか。しかし、事態は、まったくの反対である。
高速になった「計算」は、そのことによって、より多くの「タスク」を処理できることを意味したにすぎない。つまり、一見すると、社会の多様な
複雑性
を処理できるように思わせることによって、必然的に社会は、「複雑なまま」であることを要求し始めるのである。
よって、社会は、その市民の側が要求する「より複雑なまま」保存しろ、という需要に答える形に進化していく。つまり、社会は、たんに「幾何級数的」にやるべき仕事を増やし続ける、という特徴を、はっきりとさせていく。
70年代から注目され始める、ルーマン社会学において、その認識は、上記のような機械による、システム工学の人文科学への「アナロジー」によって、説明されているように思われる。つまり、こういったITのようなものの発展が、社会システムを必要かつ十分にしていく、その可能性について。
しかし、こういった認識は、そもそも、そのITを作っているのが人間だという認識との、どうしようもない違和感を与える。
というのは、技術者たちは、だれもが実感しているように、テクノロジーというのは、そんなに「勝手」に動かれては困るという認識があるからである。つまり、テクノロジーは、

が前提になっている。もし、コントロールできないなら、そんな機械は危なくて使えないのだ。もちろん、今後の未来社会において、オートマトン機械が、自らで自らをプログラミングして、「進化」していく、進化論型プログラミングの様相を示すことになるのかもしれない。しかし、たとえそうだとしても、そのロジックが、作成者の意図を超えて勝手に、行動を始めることは、一種の
暴走
であり、制御の範囲外であることを意味するだろう。
つまり、逆なのだ。IT社会が、私たちを「日常」にするのであって、そのIT社会が制御できない、その範囲の外に飛び出てしまう「危機」状態を、
非日常
と定義したのである。
前回検討したように、ルーマンの言うシステムとは、ミクロにおいては「信頼」のことにすぎませんでした。では、その「信頼」が破られる事態とは、どういった状況のことを言うのでしょうか。
例えば、3・11のような天災は、今でも、人々を混乱させている、大きな事態だったと言えるでしょう。
しかし、そういった事態に、とどまらないわけです。先程言ったように、現代の複雑社会が、成熟社会と言えることには、さまざまな前提条件が必須となっています。そこには、複雑にネットワーク化された、ITテクノロジーもあります。
しかし、問題はそういったものに、とどまりません。たとえば、近年のダウンロード規制の法制化は、著作権という法律が、すでに、
過去の言葉
となり、その意味を維持できなくなってきていることを意味するわけす。
あらゆる言葉は、「比喩」としてしかありえません。
なぜなら、その言葉の、日々での使用が、必然的に「新しい状況」での適用を、私たちに強いるからです。
新たな状況の登場は、前時代の言葉の「比喩」によって、文章化されます。この場合、その適用が「正しい」か「正しくない」かの区別には、意味がありません。なぜなら、それが「新しい事態」だからであって、そもそもの意味で、前時代の説明体系では、
説明できない
ということが前提されているからです。これが、

  • 事件

です。未来は、常に「創造」されることなく、存在しえません。
しかし、このことは、ルーマンの言うシステムが、基本的には、かなり脆弱な基盤の上に作られていることを示唆していることになります。
つまりそれが、
危機
の危機たる由縁なのです。

危機とは、システム/環境関係にとって困難な状況を意味している。そこではシステムの、あるいはシステムの重要な構造のそれ以上の存続が、時間圧力のもとで疑問視されるのである。危機において問題となるのは最高レヴェルのコントロール機能である。にもかかわらず危機を認識するためには長期的な展望も不要だし、広範囲にわたる複雑い分岐した因果連関を概観する必要もない。危機の認識はむしろ、直接的なものに対する、プログラムに囚われない感覚に依拠している。信用され保護された行動範型に拘束されないということこそが重要なのである。日常における目立たない、しかし徴候的な出来事のうちで、あるいは気付かないうちに積み重なっていくような発展のなかで、告知された危機を認識する能力が必要なのである。早いうちに気付けば修正するための時間をもてる。危機の徴候が詳細に定義されれば、危機の徴候をいわば手前に引き寄せることができるのである。しかし大抵の場合、危機が認識されうるようになるのは比較的遅くなってからのことであるし、認識のためにはなにかしら劇的なものが必要となる。それゆえに、プログラムを打ち立てるために要するコストのことを考えてみるならば、次のように主張しうるのである。すなわち、危機の圧力が生じたとしても、それがある程度明白になって変動を計画し導入しやすい状態が整うまでの間は、ペンディングしておいたほうがいいのではないか、と。
プログラムのプランニングに際しては、広い展望のもとで複雑性を処理しようと試みられる(もちろんそれゆえに図式的な問題解決による補助が必要になるわけだが)。一方プログラムのコントロールは、いま述べてきたような最高段階においては通常の場合、複雑性を縮減する相補的な手続きに依拠しなければならない。つまり持つことと見ることにである。こう考えればよい。時間の流れ自体が複雑性を吸収する。時間がたてば多くの複雑性が縮減され、ある状況のなかでは何がうまくいかないかが明らかになってくるはずである、と。ただしその場合、状況から圧力が生じたなら、すばやく行為がなされえなければならないことになる。そのためには、広範囲にわたる主導権が必要である。すなわち、ルーティンと危機からなるリズムが成立するためには、決定権限の集中化が前提とされねばならない。この前提が与えられていない場合には----例えば三権分立原理の結果として----このリズムは病理的になってしまうのである。

目的概念とシステム合理性―社会システムにおける目的の機能について

目的概念とシステム合理性―社会システムにおける目的の機能について

ここで、ルーマンは何を言っているのでしょうか。ルーマンは自らの定義する「システム」の維持のためには、そもそものそのシステムを支える「上位のパワー」が必要だと言っているのでしょうか。
ルーマンの分析する社会の「システム」化は、必須の方向です。それは、社会の複雑化に対して、人間が対抗してきた、必要だから求められてきた方向だからです。しかし、その根拠は「信頼」という、非常に脆弱な関係に依存しています。
例えば、前近代においては、権力とは、権力者のことでした。つまり、王様のことだったのです。王様とは「神様」でした。どんな慣習があろうとも、王様が、「今日からはこうしろ」と言えば、それに従う(その命令が法律になる)ということでした。つまり、王様の口からこぼれる言葉のことを、法律と言ったのです。
ところが、近代の複雑化にともない、

  • 基本権

というアイデアが浸透していきます。つまり、フランス革命であり、ルソーである「自由・平等・友愛」といったものです。そこから、基本的人権を中心とした、基本権が、大陸系ヨーロッパを中心として、普及していきます。
こういった言葉は、まことに「不思議」です。その言葉は、別に、どこかの王様の口から語られたわけでもありません。どんな、社会的文脈とも関係なく、人々は「基本的人権」というものについて、語り始めることになりました。
ここから、近代の法治主義までは、すぐです。そういった法律の特徴は、その法律を「だれが言ったのか」を問わないことです。これが、だれの命令なのかに関係なく、その文言の羅列で、なにかを意味される、という
形式化
が、近代によって始まっていた、ということです。あとは、この文字列を、コンピュータに乗せれば、法システムのIT化の完成です。
ところが、最初に言ったように、そもそも言葉とは「比喩」です。つまり、社会のコンテキストが変われば、そこに単純に適用することは難しい。ある解釈(比喩)なしには、その意味すら、考えることもできないのです。
もちろん、多くの場合、こういった問題に悩むことはありません。それが、

  • 日常

です。ところが、その日常の作法が通用しない事態に直面することを「危機」というのでした。
危機とは「システム」の危機を意味しますが、それは、同時に「信頼」の危機を意味するのでした。
現在、日本社会において、原発問題とは、まさに「信頼危機」です。だれも、原発を信じていないわけです。
しかし、信頼が危機であるということは、その原発を推進している人たち、つまり、政治家を信頼していない、ということと同値になります。
ですから、ルーマンが言っていることは、まさに、逆なわけです。つまり、人々はあまりにシステムを信頼しすぎている。システムというものが、ITなんかが使われて、「けっこう、ちゃんとしている」と思っているようだが、実は、そのベースにあるものは、ルーマンから見れば、あまりにも、脆弱なのだ、と。
つまり、ルーマンが言っていることは、まさに、デコンストラクションで、私たちがもっている自明性を疑うことの、徹底を求めているわけでしょう。
社会は、その根底を見れば、あまりに脆弱であり、その役割を担う一人一人は、あまりに「人間」的である。そうであるなら、人々の行動は、より
デモ的
であることこそが、政治的人間の姿のように思えるわけです。
政治とは、上記で指摘したように、それが、王権政治から法治政治へと推移してくる過程で、「中心のない意志」つまり、だれもそれを望んでいないのに、たんに法律にそう書いてあるから、それに従う、というような、亡霊の世界のようになっていきます。
そして、総理大臣は、国民のだれも望んでいないことを、一部の既得権者の「とりまき」の意見によって、自らの使命だと、刷り込まれて、「たとえ国民の意志に反しても」、自分の「信念」を目指すことになります。
じゃあ、そういう総理大臣に私たちが言うべきことは、なんでしょうか。「辞めろ」。それ以外に、なにかあるんですかね。
王権政治から法治政治へと推移する過程で、問題は、「組織は、なにをするのか」となります。つまり、優先事項です。さまざまな、目的が、この複雑社会の政治的課題として列挙されたとき、それぞれが、眼前に並べられます。
そこで、私たちは、その複雑な「目的」の数々を目の前にして、なにをしているでしょうか。
「中和」です。

推移性原理が示しているのは、原因と結果の具体的な布置を考慮することのない一般的な価値の配列であった。それは、あまりにも抽象化されているために、序列関係を確定するための基準を与えることができないのだ(主観的恣意性という基準なら別だが)。それに対して目的原理は因果関係の具体的な、少なくとも類型的な布置から出発する。そして、ある結果の実現が問題であるかぎり、当該の価値の一部のみが拘束力を持っており残りは無視してもかまわないと仮定するのである。目的が手段を神聖化する、つまり行為のコストを購うのを正当化することになる。これが目的の機能に他ならない。
以上の論述を踏まえるならば、これまで繰り返し論じられてきた疑念をより明確に定式化することができる。目的設定とは価値の歪曲であり、視野を狭める原理(馬の目隠し皮の原理 Scheuklappenprinzip)なのである。だから、目的合理性の歴史が常に矛盾する声を伴っていたのは、なんら驚くべきことではない。すなわち、目的は手段を選択する権利をもたないのだ、と。今日では批判はさらに声高になっている。目的のみに排他的に指向することは道徳的権利も合理性ももたない、というわけだ。そのように反対すること自体は理解できる。しかし次のことは道徳的権利も合理性ももたない、というわけだ。そのように反対すること自体は理解できる。しかし次のことを見逃してはならないであろう。この批判は目的指向の中核、すなわちその機能に関わるものではない。そもそも目的による手段の中和を拒否するのなら、目的/手段図式を維持することには何の意味もないのである。
根本的に言えば必要なのは、価値の諸相の「中和」という概念を正確に調べてみることだけである。中和が意味しているのは括弧入れ、つまりおそらく何回も繰り返されるであろう無視ということ以上ではない。というのは、目的設定によって他の諸価値が否定されるわけではないし、またそれらの価値は、ある結果連関のなかで優先された価値に一般的に従属させられるものでもないのだから。否定や従属といった論理的決定が必要とされるのは実際には希なことだし、必要とされるにしても、そはあくまで具体的な状況のなかでのことなのである。私は昼食を食べにいくために仕事をやめることができるが、それによって仕事の価値を否定したり仕事を食事よりも軽視するわけではない。私はただ代る代るに価値を操作するという戦略を用いているにすぎない。というのは、仕事をしながらの食事はうまくないし、食事の間はうまく仕事をすることができないのだから。
目的概念とシステム合理性―社会システムにおける目的の機能について

個人においては、この引用からも分かるように、多くの場合、その目的の「中和」は、成功しているように思われます。それは、上記にあるように、それが時間軸の上に並べられれば、自然とその作業は、配置されるからである。どんなに忙しい優先事項があったとしても、多くの場合、昼休みには、食事をとるし、トイレにも行く。そういった、作業の排他に、疑いをもつことはない。
ところが、問題は、それを社会システムとして、考えたときです。
社会における、「目的」の中和とは、なんでしょうか。
日本において、それは、間違いなく、「官僚の目的」に収斂していると考えます。日本の大マスコミは、なんとか、消費税を免除してもらおうと、官僚にすりより、消費税賛成の大合唱です。経団連も大企業の労働組合も、消費税賛成。
じゃあ、あとは、どこか反対しているんでしょうかね。
総理大臣から見える「日本」とは、そういった大企業の人たちのことですから(それ以外の、細々と暮している人なんて、人間とも思っていないんでしょうね)、彼に「とって」の日本は、大政翼賛的に、国民は全員、消費税に賛成している、ということになるのでしょう。
しかし、言うまでもなく、日本に住んでいる多くの人は、大企業に務めていない。つまり、彼らは「プロレタリアート」なのだ。マルクスの定義の厳密な意味で。
消費税を上げることは、国家官僚の、権益の拡大になるだけしか意味しません。
じゃあ、どうするということになるんですか。
それは、原発再稼働反対と、まったく、同じだと思います。
私たち「プロレタリアート」が、声を上げる。
デモをする。
声を届ける。具体的な意志を「形」として、存在させる。
「官僚の目的」に中和されない、
一般意志
を、「プロレタリアートの目的」として、併置させること。そういった、具体的な「勢力」の規模として、存在させること。
こういった、具体的な一人一人の行動による、

によってしか、もうありえないんじゃないでしょうか...。