女帝

愚者のエンドロール」については、以前、折木奉太郎の視点から分析したのだが、アニメの方の、「愚者のエンドロール」の部分の放映を見た印象は、その分析とは、ずいぶんと違った。
それは、その分析が間違っていたと言いたいということではない(そういう意味では、別に修正したいと思ったわけではない)。そうではなくて、なによりも、このストーリーが、
入須冬実(いりすふゆみ)
の物語なのだ、ということを、嫌でも、印象づけられた、ということである。
まず、最初に、言っておかなければならないこととして、この話は、おかしい。
なぜなら、あの死者の「演出」が「アドリブ」だということが、すでに最初で、説明されている。そして、そもそも論として、中盤で手に入る、脚本に死んだと書いていない。
つまり、どうして、折木が、密室殺人として、推理したのかが、まったく分からない。殺人「じゃない」って、こんだけ言っているのに。
しかし、ね。
入須冬実(いりすふゆみ)
は、

  • この「ビデオの正解」を見付けてほしい

と言っているんですよね。だから、確信犯的に、彼女が、折木の思考の方向をマインドコントロールしていたことは、間違いない。
そう思って細かく見ると、彼女が、かなり慎重に一つ一つの言葉を選んでいることが分かる。

  • 君は「本郷の謎」を解いたようだな。
  • 君には「技術」があった。

彼女は、このように、「嘘」を言っていない。というか、なんとでもとれるような、「曖昧」な表現をずっと続けている。
折木は、「勝手」に、彼女の言葉を、自分の「持論」の延長で、解釈し、自分の「持論」に引き付けて、勝手に話を進めている。
もちろん、それに対して、彼女は、相槌をうたない。「反応しない」。そういった不作為の作為を行うことによって、相手の思考を「誘導」する。
最終的に、そういった彼女の態度に対して、折木は「怒り」を「表出」する。
これに対する、彼女の「解答」は、そっけない。

  • 心からの言葉ではない。それを嘘と言うのは君の自由よ。

「心からの言葉ではない」、とは、どういうことか。つまり、それらの言葉は、ある「目的」のための、手段だった、ということになるだろう。彼女が、折木を「手段」と考えていたことは、言うまでもない。
この作品の「フラグ」はタロットカードである。前半で示唆され、最後、折木が謎を解明するきっかけとなる、その内容をまとめておこう。

  • 入須冬実(いりすふゆみ) ... 女帝:母性愛、豊穣な心、感性
  • 伊原摩耶花(いばらまやか) ... 正義:平等、正義、公平
  • 福部里志(ふくべさとし) ... 魔術師:状況の開始、独創性、趣味
  • 千反田える(ちたんだえる) ... 愚者:好奇心、行動への衝動
  • 折木奉太郎(おれきほうたろう) ... 力:内面の強さ、闘志、絆(「力」は獰猛なライオンが優しい女性にコントロールされている絵に象徴される)

ここで、折木は、入須冬実(いりすふゆみ)が、このタロットと、まったく、合っていない、という印象を開陳している。しかし、他方において、このタロットの分析は、概ね、興味深いという意味で、評価してもいる。
ここで、ある「仮説」をたててみよう。
上記の、入須冬実(いりすふゆみ)の、タロットの性格設定は、合っているのではないか。彼女は、

  • 母性愛、豊穣な心、感性

な女性なのではないか。
折木の姉は、彼女が、なぜ、このような大捕物を行ったのかを、おもしろくない脚本を書いた本郷への気付かい、だったのではないか、と推理する。

  • その娘を傷つけないように脚本を却下したかったんでしょう?

それに対しての、入須冬実(いりすふゆみ)の解答は、以下となる。

  • 私はあのプロジェクトを失敗させるわけにはいかない立場でした。

折木奉太郎は、自分の視点から、入須冬実(いりすふゆみ)の印象を、タロットと合っていないと感じる。
しかし、これは「逆」が考えられる。折木への態度がああだったことの、逆に、クラスのみんなには、まさに、タロットのように、接していたとは考えられないだろうか。
彼女は、つい最近まで、この企画に関わっていなかった。北海道にいたことが言及されている。つまり、映画があの状態であることが分かって、この緊急事態に、折木の姉に相談し、姉貴のちょっと「いじわる」な案に、助けてもらった、と考えている。そういう意味で、折木を「手段」としていることは、自覚しているわけで、それについては、彼女も、「もうしわけなかった」と内心思っていたことを最後に、開陳している。
つまり、これを「矛盾」ではない、と考えることができるのではないか。
前半で、里志が、入須冬実(いりすふゆみ)を、「女帝」というあだ名があるくらいに、熱狂的な信者がいることを語るわけだが、そうやって彼女に忠誠を感じるということは、その反対の贈与、つまり、彼女の仁義、のようなものに「熱く」なった多くの人がいた、ということなのだろう。
例えば、彼女を、自らを、このプロジェクトを成功させるための考察を、一貫して、行う、つまり、

のような存在だったと考えることもできるのかもしれない。
アニメ「咲-Saki-阿知賀編」の第11話において、福岡代表の新道寺の花田煌(はなだきらめ)が、なぜ、レギュラーに選ばれ先鋒なのかについて、部長の白水哩(しらみずまいる)

と鶴田姫子(つるたひめこ)が話す場面がある。たとえば、この新道寺でいえば、マネージャーは、この部長になるのだろう。
(それにしても、博多弁って、いいですね。)

事実、うまくいっている組織には、必ず一人は、手をとって助けもせず、人づきあいもよくないボスがいる。この種のボスは、とっつきにくく気難しく、わがままなくせに、しばしば誰よりも多くの人を育てる。好かれている者よりも尊敬を集める。一流の仕事を要求し、自らにも要求する。基準を高く定め、それを守ることを期待する。何が正しいかだけを考え、誰が正しいかを考えない。真摯さよりも知的な能力を評価したりはしない。

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

組織論に対する印象は、「カオス」そのものだ。日本経済が調子よかった頃は、ライジング・サンといって、日本式組織礼賛一辺倒だったが、調子が悪くなると、途端に、日本型経営は軽蔑の対象となり、しまいには、ノマドとかいって、かなり、フリーランス的なビジネスであり、ジャーナリストが、時代の脚光を浴びたりする。
組織に対して、個人を強調するのは、組織の限界が注目されているからであって、その逆も言える。また、組織の特性が生きる場面があれば、また、再評価をされるということなのだろう。
だとするなら、こういった表層的な差異に、あまり、こだわらない方がいいのかもしれない。
組織の定義とはなにか。そんなものは存在するのか。一つだけ言えるとするなら、

  • 組織のことを「考えている」

ということである(上記の引用は、そのことの最も分かりやるい部分だろう)。個人とは、「自分」を中心に振る舞うということであり、つまり、感情的に自分中心に、はしゃいでいる、ということになる。他方において、マネージャーは、
組織のことを「考えている」
部分があるから、マネージャーなのであって、大きく言えば、マネージャー以外は、その組織のことを、考えなくても(つまり、全体を考えなくても)いいとされうるロールを持っているだけ、ということを意味する。
ところで、
組織のことを「考えている」
とは、どういうことだろうか。自分とは利己的に感情的であることを意味する。儲かれば嬉しいし、うまくいかなければ、イライラする。しかし、それは「自分のこと」だから、である。ということは、本質的に人間は、自分のことしか考えていないし、他人に関心がない、ということになる。
つまり、人間は他人に無関心なのだ(または、他人のことなど、どうでもいい)。
しかし、そういった「ロール」に生きている人ばかりでは、組織(=システム)は、さまざまなタスクをこなすことができない。つまり、そういった自分の感情的な部分に、制限をかけて、なにかをすることに、なんの疑問ももたないような、つまり、
冷静
な部分を常に、合わせもつ役割が、マネージャーとなるわけだが、そのような存在が「必要」とされ、そのようなタスクをこなすことで、組織は、十全になる、と。
つまり、物好きにも、そういう人が、いてもらわないと困る、という考えなわけである。
入須冬実(いりすふゆみ)にしても、白水哩(しらみずまいる)にしても、どこかに、一見すると、「冷静」な、クールな側面がありながら、その、はしばしに、その反対の側面の、感情的な部分が見受けられる。
組織が彼女に、(ドラッカーの意味での)マネージャー的存在としてあることを、強い、そして、そのことが彼女たちに、「冷静」な、クールな、常態を強いる。
私たちが、彼女たちの、「冷静」な、クールな部分に、びっくりするのは、日本社会が、女性を「動物的で感情的な存在」といった、予見を持ちがちであることを意味しているにすぎない。
女帝であることは、組織(=システム)が私たちに、そうあることを強いる何かなのであって、そのことに、男だとか女だとかの差など、どうでもいいのだ...。