「いじめ」という言葉

いじめという言葉が使われるようになったのは、いつからなのだろうか。この言葉の特徴は、その言葉の「定義」がないことだ。つまり、外在的に定義できない。
ところが、いじめをやっている側、いじめをされている側の両方は、往々にして、これが「いじめ」だと「分かっている」、「自覚している」と想定されていることが、特徴である。
それは、「心」の態度とでも呼ばれるもので、あまりにも
ハイコンテクスト
な関係から、相互が、ある種の「敵対関係」を認識し合う現象だからで、もっと言えば、彼らがかわし続けた言葉を「シナリオ」のように、羅列してみたところで、他人からは、いじめともいじめでないとも、「どちらともとれる」という印象しか受けない場合さえ考えられる。
一般の社会においては、もし、こんな関係なら、「つきあい」をやめればいいんじゃないか、と言いたくなる。交流をもたなければ、
なにも起きない。
じゃあ、子供においては、なにがそうすることを妨げているのか。学校が、クラス分けを強い、人々の

  • 固定的で長期的な関係

を強いてくるから、と言えるだろう。
ところが、この関係を強いている、教師連中には、別に、その「責任」がとれるわけではない。こう考えれば、そもそも、ある固定した人間関係を「強いる」ということ自体が、
異常
だと言いたくなる(少なくとも、大人の社会では「異常」と呼ぶべき現象だ)。
例えば、大学の講義は、基本的に選択制であり、人気クラスでもなければ、受けたい人が受けられないなどということは起きない。
私たちにあるのは(憲法が要求しているのは)教育の義務であって、

  • ある固定した人間関係を維持させられる義務

など、あるわけがない。思想・信条の自由、集団結社の自由をうたう憲法が、そんなことを強いているわけがない。
ということは、子供たちは「なぜか」憲法にないような「強制」を強いられる、一種の「奴隷制」的状態にある、とまで言いたくなる。
じゃあ、なにがそういった「選択」を妨げているのか。
おそらく、日本の教育が、子供たちを「自由に選択する個人」として扱っていない、ということなのだろう。少年院というものがあることから分かるように、日本の犯罪法は、子供を「一つの人格」として扱わない。つまり、罪を犯せば裁かれる存在と考えない。このことは、逆に言えば、罪を犯す「可能性のある」ことを「やれない」状態にしてやっている「から」、子供に「罪」が生まれない、という、謬見となる。
しかし、実際に、そんなことなどあるはずがない。
人間なら、かならず、なんらかの罪との関係にあるはずであり、だからこそ、自分の罪にも他人の罪に苦しむ。
すると、大人たちは、どう考え始めるか。

  • そんなことは「ない」と考え始める。

今、目の前で起きていることを、実際に、「そこ」にあるのに、「それ」と認めないのだ。
なぜなら、もしそれが「罪」ならば、「裁かねばならない」から。
しかし、子供は上記で言ったように「保護」する対象なのであって、罪を問われる側ではないのだから、ということは、必然的に、その「罪」は、保護する立場の「大人」、つまり、教師自身の「罪」ということになってしまう。
もし子供が罪を犯したとするなら、それは「子供の意志ではない」と考えられる。親や教師が「罪を犯せ」と命令したから、罪を犯すように教育したから、となる。
この関係は、フーコーの言う「監視社会」と非常によく似ている。
子供が罪を犯さないということは、逆から言えば、子供は「見える化」されている、ということを意味する。
徹底して、子供の一挙手一挙動が、「全て」監視されることによって、子供が「罪的」行動を始めようとしているように見える、その動作を、トリガーとして、大人の
保護活動
が始まる。このように、大人は、その子供の「罪」を、うやむやにし、あいまいにしながら、常態的に、子供への
理由の分からない
「指導的折檻」を続けることになる(つまり、このようにして、子供は「罪」を「犯せない」のだ)。
こういった「反復」を繰り返されることによって、子供は自然に、「罪」を「可視的」に犯さなくなる。つまり、可視的にやらないかわりに、

  • いじめ的

に「罪」を犯す。いじめは、子供にとっての「戦略」である。いじめである限り、大人は子供に干渉してこない。なぜなら、いじめは、
外在的
には、定義できないからだ。
言ってみえば、これは、お互いが、「あいつは敵だ」と、

  • 可視化

することをいつまでやらないでおくかを競う「チキンゲーム」だと言える。ある子供が別の子供を「敵」と名指しする状況において、もし相手側が、それを肯定したなら、その後の
手続き
は、比較的正当化されたものとなりうるだろう(なぜなら、お互いがその関係を認めているのだから)。
ところが、否定したとすると、保護的「立場」の大人にとって、物騒だ。そうなると、以下の場合が考えられる。

  • 相手も、本心では「敵」として考えているが、そうでないと「嘘」を言った場合
  • 自分がどう受け取っているかに関わらず、相手側に本心で「いじめ」ている自覚がない場合

ここで、そもそも、保護的「立場」の大人、とは、なんなのかをこの関係において、考えてみよう。
この大人は、別に、裁判官ではない。このお互いの主張の「判決」を下せる権利があるわけでもない。そもそも、裁判官じゃないんだから、警察の独房に拘束すらできない。せいぜいやることといったら、民事調停を提案するぐらいだ。
それは、どんな「証拠」があったとしても同じだ。なぜなら、その「証拠」を判断する「権利」とは「裁判官」の「権利」であって、保護的「立場」の大人、がそんなものをもっているわけがない。
証拠とは常に、曖昧なもので、そうであっても、判決を下すのが、裁判官であろう。ましてや、保護的「立場」の大人に、そんなことを要求しても無駄というものだ。
ということは、どういうことなのか。
保護的「立場」の大人、たとえば、教師とは、そういった(教職義務という)「聖職者」の「ふりをする」こと(を国家によって要求される)によって、(ストレスなどの被害を)被るだろう分の、給料をもらいながら、実際には、ほとんどの、敵対関係の調停を「あいまい」かつ「なんとなく」で行っているにすぎない、ということになるだろう。
こう考えてみよう。
もし、この子供間の関係が、「友敵」理論における、ステルス「戦争」だったなら、と。
もし、この関係が「保護」関係でない場合は、どうなるだろう。
たとえば、同じクラスの子供同士の「いじめ」ではなく、まったく、お互いが同じコミュニティにコミットメントしていないのに、一方が他方に「暴力」をふるった場合。
この場合、暴力を受けた側は「なぜ、この人が、自分に暴力をふるったのか」の、そもそもの、関係が理解できない。つまり、

  • お互いの間を媒介して、「保護」する大人の「責任者」が抽出されない

ため、直接的に、公的機関での、裁定に任せやすい。
他方において、お互いが、同じコミュニティにコミットメントしている場合は、どうしてもその間には、

  • 保護

という、子供たちとは別に、社会的な責任と「権利」をもった大人が介在するために、どうしてもその間の仲裁がデリケートになってしまう(へたをすると、その保護する「立場」の大人の「責任」問題となるから)。
この関係は、官僚の不祥事とか医療事故と似ていて、学校の教師が、このことで、繰り返し、その「責任」を問われるような関係になると、そもそも、教師という職業が成り立たなくなる。みんな、牢屋にぶちこんだら、だれも、その仕事を担えなくなってしまう。
(言うまでもなく、教師も医者も、なんらかの国家免許である限り、ある種の「官僚」である。)
この子供の間の「ステルス戦争」も、初期の頃の微温的な間は、「いじめ」られる側もショックではあっても、「耐えられる」レベルであると判断して、顕在化はしない。
しかし、こういった関係は、「過激化」する。時間とともに、その「刺激」は、エスカレートを要求するようになり、「いじめ」の域を超えて「犯罪」そのものと区別できなくなる。
いじめられる側の子供にとって、この状況は、どう受け取られるか。
いじめの特徴は、基本的に、人数ゲームのところがある。つまり、常に、

  • いじめる側の人数 > いじめられる側の人数(大抵は一人)

という不等式が成立している(一対一の関係をあまり、いじめとは言わない)。そして、もう一つの特徴が、

  • いじめの「強度」↑(時間軸)

つまり、いじめはエスカレーションをするもので、基本的に、最初は、それほど過激ではない。その時間軸の間のコミュニケーションを通して、「強度」を増していく。
ということは、いじめられる側の子供にとって、この問題は、

  • どこまで「耐えられるか」

という観点で、受け取られている、と考えられるだろう。
上記で見てきたように、私には、この問題は、「みんなが悪い」という、一億総懺悔といった「心」の問題に還元してしまうのではなく、

  • みんながなんとなく「なにかがおかしい」と思っているのに、社会(=システム)の側が、まったく有効な「手当て」を供給できていない

といった、

  • 構造

と考えるべきなのではないか、と思うわけである。
ここで、私は、ある「仮説」を立ててみたい。
なぜ、日本の教育制度は、この「いじめ」問題に、まともな解答を呈示できないまま、戦後、ここまで来たのか?
それは、明治以降の教育制度が、キリスト教圏における、「教会」の役割を学校に求めてきた面があったからではないか。
そしてその「思想的」な、側面については、戦後も深く検討されることなく、微温的にその慣習が続いてきたからではないか。
キリスト教圏において、道徳はそもそも、教会の仕事であるだろう。というか、教会があるから、それほど、学校が、そういった道徳の役割を求められない。
だから、日本以外の人々から見て、日本人が、無宗教というのが、なんとも「異常」に見える。それは、日本人が「道徳」を習っていない、と解釈されるから。
ところが、実は、そうではない。
それは、明治以降の国家宗教化の流れの中で、日本は、(皇室を中心とした)神道の国家宗教化(=西欧におけるキリスト教化)を目指した。それは、西欧の近代化において、

が「近代化」には「不可欠」だと考えたから、と言える。近代化した国家はみな、キリスト教をもった、キリスト教的市民によって、構成されていた。ならば、日本のキリスト教化(=国家宗教化)は不可欠だと考えられた。
なぜ、日本の教育において、道徳的な役割が求められるのか、なぜ、そういった道徳的な役割を「やめる」ことができないのかは、そもそも、日本が本気で、キリスト教(的国家宗教)化を、あきらめていないから、と言えるのではないか。
子供を大人が

  • 保護

する対象ということは、子供は大人と「同じではない」ということを意味する。じゃあ、どうなったら、子供は大人と同じになるのか。子供にしたら、それを早く教えてほしいと思うだろう。
しかし、日本の国家教育は、そもそも、上記のように「宗教教育」(=道徳教育)と結びついているのだから、それは「逆」なのだ。
いつまでも、大人にならない。
というのが、原理的に正しい。だって、「宗教教育」(=道徳教育)とは、それに反する態度の可能性がある限り、終わらないのだから。
そういう意味で、日本社会が、子供を、一人の人格をもった個人として扱わないということは、日本社会が、日本人全員を、一人の人格をもった個人として扱っていないのと、「同値」なのだ。
子供は「戦争」をしている。
だったら、私たちにできることは、なにか。その子供の「味方」になること。そして、その子供の側で、この戦争に立ち向かう「戦略」を一緒に考えること。
つまりは、子供を「一人の人格をもった個人」として扱うこと、この日本教育という「構造」の自明性を疑うこと...。