東京の猫

東京に来て、なにに驚いたかといえば、思ったより「緑」があるんだな、ということだった。つまり、田舎のような「自然」が、
保存
されている。それを、皇居周辺や高級住宅街のような、人工的な「保存」ということでいうなら、まあ、理解はできる。だれだって、緑に囲まれて生きたいと思うだろうからだが。
しかし、そういった地域でなくても、それなりに、緑はあるな、という印象はある。それはもちろん、東京も周辺地域は「田舎」なのだから、そちらに近づけば、普通にあるだろうが、それだけでなく、結構、東京の中心地に近くても、ぱらぱらと見かける。
まあ、それは当たり前なのかもしれない。買い手のついていない空き地は、自然に雑草が生える。道と道の合間にも、雑草が生える。各家庭の庭は、緑が整備されている。もちろん、囲いの緑も。
私たちが、近未来を思い描くとき、そこは、

  • 人工

という言葉がキーワードになるように思われる。つまり、

  • あらゆる「全て」

が、人工的に「管理」されている、と。未来の社会においては、あらゆるものは「権利」と「義務」の二元論によって、

  • 人間の「意志」

によって、「選択」されている、と。あるものがそこにあるのは、人間社会が「それがそこにあることを許す」という形によって「のみ」と。
そう考えると、植物や動物が、その未来社会の「どこ」に存在を許されるのかな、というのが気になってくる。
植物や人間以外の動物の特徴は、彼らが人間と「同じ」生物でありながら、人間社会で重要な「権利」と「義務」の両方から免れていると考えるところにある。
つまり、彼らは「自生的」に成長をする。それは、人間と同じで、勝手に生まれて勝手に生きる。ところが、彼らには人間社会で生きるために必要とされている、「権利」と「義務」がない。
ということは、徹底して、人間社会に「手段」として使われる未来が予想される。つまり、こういったものは、「ほとんど絶滅」するのではないか。
しかし、言うまでもなく、私たちは「土(つち)」の上に生きている。そこには、さまざまな微生物があり、こういったものなしに、食料としての植物も育たない。
ここで、二つの分岐点になるように思われる。

  • 植物や人間以外の動物を「なんらかの意味」の「主体」として扱うことで、人間社会にとっての、「権利」と「義務」のような「類似」のなにかを彼らに認めていく方向
  • 今のまま、彼らを徹底して人間社会が「手段」としていく方向

こんなことを考えたのは、東京には、けっこう、「猫」が、のら猫として、徘徊していることが、気になったからだ。
おそらく、ペットで飼っていたものが棄てられて、一次的な野生化をしている、ということなのかな、と考えているが。
もちろん、このことに、いい気持ちのしない、特に子供をもっている家庭は多いのではないかと思わなくもないが。
ただ、なぜ猫なのかなと考えれば、東京という、地方から多くの人々を集める「孤独」都市には、ふさわしい動物のように思われる。居酒屋のおばちゃんが、餌をあげていたが、そういった猫も私たち孤独な東京生活者も
同じ
なにかを探してさまよっていることでは、「同じ」という感情が強く、言わば、「ほうっておかれている」というのが実情なのではないだろうか。
しかし、実感として思うのは、そういったのら猫を見かける地域は、逆に、「ねずみ」をあまり見かけなかったりするわけで(そもそも、ネコ以外に、私には「ねずみ対策」の有効な手段を思いつかない)、個人的にはこういった
共存
を好ましく思うのだが、さて、どうなのだろう...。