なにを言っているのか分からない

近年、キュレーションというのが、流行だ。なんだか、ジャーナリスティックな記事を、収集し、まとめ、キュレーターの味付けによって、

  • 紹介

するということのようだ。
しかし、私は、このキュレーターの他に、ネット上に、「もう一つ」の役割が必要なんじゃないかと思っている。それは、

  • ロジカル・チェッカー

だ。これは、なにをする人を言うのか、について以下で説明したい。
例えば、ある人がネット上の動画コンテンツで発言をした、とする。すると、その人は、とにかく、しゃべり続ける。言い放し続ける。
例えば、ツイッターで、どこかの方が、つぶやき続ける。
しかし、ちょっと待ってみよう。

  • この人は何を言っているのか?

私には、こういった人たちが、特に、なにか「建設的」なことを言おうとしているときに、

  • オブラートに包んだ、「あえて」曖昧な表現をしている

場合があるんじゃないか、と考えている。それは、まだ、考えがまとまっていない、というのもあるのかもしれないが、多くの場合、

  • そういった曖昧さこそが俺流「芸術」

と考えているんじゃないか、と疑ってみたくなる。
こういった特徴は、特に、文系文化人に多い。
私はこれを、吉本隆明流「第二の言語」病、と名付けたい。
彼らは、最も重要なタイミングで、決めゼリフを「どや顔」で言うが、それこそが、「なにを言っているのか分からない」のだ。しかし、それを口にするその人にとっては、大真面目なのである。
これは、困ったことである。
どや顔野郎は、それを言うことが「気持ちいい」のだが、聞いている視聴者にしてみると、「なんのことやら、さっぱり分からない」。ところが、どや顔野郎の回りには、「イエスマン」しかいないから、みんな、

  • 今日のお話は、ありがたいお言葉連発で、「良かった」

としか言わない。ところが、じゃあ、具体的にどこがどうで、どうなって、いいのか、と問いつめても、なんの反応も返ってこない。
しかし、どや顔野郎は、とりまきの「イエスマン」たちの、そういった感想しか聞いてないから、

  • 今日も俺の持論が伝わって成功

としか、総括しない。
そこで、なにをやるか。
その人が話した、ワン・センテンツごとに、

  • 意味が通じる文になっているか。曖昧な解釈を許すようなことになっていないか。
  • 前後で、主張が矛盾していないか。
  • この文には、価値があるか。

を、「全て」の発言に対して、「チェック」をするのである。つまり、その作品の

  • 採点

である。
これは、言わば、アマゾンのカスタマーレビューの、全センテンツ細切れバージョンと言えるんじゃないだろうか。
このことは、例えば、サッカー先進国で、プロサッカーの出場選手が「点数化」されていることと比較される。つまり、その選手の試合内行動の、一つ一つの全てを「評価」することを「当たり前」だと思っていることである。
他方において、日本の論壇の

  • プロレス言論空間

を考えてみればいい。意味不明の「わかるだろ」プロレス技「俺専門用語」を連発して、なんかやったふうなドヤ顔だが、聞いてる他人は、最初っから、とっちらけの、ちんぷんかんぷん。
例えば、ニコニコ動画などは、上記の私の案は、けっこう実現しているように見える。それは、各場面での、動画に、いちいち、「そこ」に、コメントが貼り付くからだ。
しかし、ニコニコは、一場面に表示できるコメントの量に限界があるのだから、とちらかと言うと、その発言のコントロールは、ニコニコ側の

  • コンテンツ提供側

に主導権があるように見える。
そうではなくて、完全に、コンテンツ提供側の「宣伝」「ステマ」「マインドコントロール」から離れて、コンテンツ消費側だけが主体となって、そのコンテンツを徹底的に細部まで、分析し批評していくような、そういった

  • キュレーション

が求められているんじゃないのか、と思うんですけどね。
そういった分析をすることで、より「コンテンツ」は、消費者に「深く」消費され、いいかげんな質の低い商品を売っている人と、常に高品質な仕事をしている人との差別化の

を実現するんじゃないか、と思うんですけどね...。