教育という強制

いじめをなくす一番簡単な方法は、「学校に行かなくていい」としてしまうことだ。
多くの人が普通に学校に行かなくなる。
いや。
正確に言うと、

  • ある教科の授業だけ、出席しない。
  • 場合によっては、別の学校の授業に出席することもある。
  • 授業に欠席した場合に、その「欠席」による、授業の遅れを取り戻すために、学校側から、授業を「撮影した」動画やノート(黒板)のコピーが、提供される。
  • これらは、授業に出席していた人も、復習用に参照可能にする。
  • 別に授業に出ていなくても、担任の教師なり別の人なりに、授業内容について「質問」を受けさせる。
  • 中間テスト、期末テストを「教室にいなくても」受けられる「システム」を考え、提供する。

という感じだろうか。授業を受けないことは、別に「受けなかった人の自己責任」ではない。
まず、一つ、はっきり、させておきたい。この、子供の教育において、

  • 子供の「義務」

なるものが、あってはいけない、ということである。
つまり、絶対に子供を「強制」してはならない。なぜなら、「おかしい」ではないか。言っていることが。子供は、その瞬間、教室にいたくない、と言っているのに、なぜ、教室の自分の机に座ることを「強制」するのか。子供は生理的に、不快に思っているのなら、そこにいないことを許されることは、当たり前であろう。
学校は、なにごとも、子供を、こと「教育」に関して、強制してはならない。それは、子供にとって、自らの「健康」を保つための「自己防衛」なのだから、むしろ

  • 干渉してはならない

のだ。
むしろ、授業を受けられないという事態は、病欠を含めて、普通に起きることなのだから、学校は積極的に、そういった生徒のアフターケアをしなければならない。今まで、そういったことを、おろそかにしてきたことは(むしろ、これを生徒同士の「ノートの貸し合い」に依存してきた)、今のように動画撮影などの「作業コスト」が、便益に比べて、大きくないと判断されたから、であろう。しかし、こういった作業が圧倒的に安価で簡単になった今においては、むしろ、積極的に行われることが、求められているように思える。
なぜ、私は「生徒が授業に出席しない」ことを、「重要視」するのか。
それは、授業に出席することを「強制にしてはならない」と考えているからである。
私にとって関心のあることは、「あらゆる強制」が、子供たちに、

  • いじめから逃げる「勇気」

を、くじかせている印象を受けるからだ。大事なことは、

  • カジュアルに授業に出ない

生活態度である(ツイッター流で言うなら、「いじめられそうになったら、ブロック」である)。クラスの半分近くが、「当たり前のように」授業を欠席していることを

  • 常態化

させるのである。よく考えてみるなら、このことは、少しも非現実的ではない。なぜなら、私たちは、今、この瞬間において、

  • 考えたいことを考える

ことは、「場合によって」は、非常に重要だと思うからである。
ある子供が、数学のある難問を知ったとする。そうした場合、その子供が、この問題を「解こう」とする態度は、

  • 非常に重要

である。なぜなら、人々がこういった態度を持たなければ、数学の発展はないから、である。これは、数学にとどまらない。あらゆる、今の世の中の

  • 難問

について、「深く考える」態度こそ、今の日本に最も求められていることなはずだからである。
あらゆる「解答」は、

  • だれかが「考えて」見つけた

わけである。つまり、少なくとも、世界中の人々のだれか一人が「考えて」くれなければ、その「解答」が得られることはなかったのである。だとするなら、

  • その時間

は、なんとしても確保されなければならない、ということになるだろう。
この認識は少しハイデガー的かもしれない。
ある授業を受けた生徒の一人が、その授業で見つけた問題について、考え始めたとする。ところが、授業が終わり、休憩時間が終わったとすると、そこで、その「思考」は一旦、終了しなければならない。別の、なにかについて、

  • 集中

しなければならなくなる。しかし、それはどこか「分裂」的ではないか。なぜ、そこでその思考を切らなければならないのか。思考が切れたということは、

  • 不連続

になったことを意味する。不連続ということは、その切れた二つは、「別のもの」だということである。つまり、その二つは、まったく、動機も違うし、意味も違う、言わば「関係ない」なにか、となったということである。
そもそも、なぜ、その生徒が、一回考えることを止めた問題を、再度、「継続して」考えられると思うだろうか。時間が経ってしまったら、別の関心に向かってしまい、もう考えることをやめるんじゃないのか。
大事なことは、その思考の

  • 連続性

である。「ずっと」考えるから、その思考には、一つの「なにか」であることを意味できる。
私は、単純に今の教育は、こういったことを「させない」ものになっていることこそ、問題なんじゃないのか、と思うわけである。
まさに、プラトンの「知への愛」の復活、である。
考えている人、考えをまとめようとしている人を、邪魔する「授業」だとか、「教育」は、

  • 邪魔

である。私が言いたかったことは、たとえ、ある授業に出なかったとしても、それと「等価」な、代替物によって代用されるなら、むしろ、人々を教室という「そこ」に縛りつけておく理由にはならないんじゃないのか、という「しごく当然のこと」だと思うのである。
これは、近年はやりの「ノマド」が、別に誰かに説教をされるまでもなく、

  • それでいいのなら、それでいい

という、ただそれだけのことだというのと、同型だと思っているということである...。