朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』

私がここで、この小説について書こうと思ったのは、もちろん、今上映している映画を見たからであるが、その「いきさつ」は、少し、いりくんでいる。
例えば、私が以前、このブログでもとりあげさせてもらった、中森明夫さんのツイッターでの批評

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が話題となっているが、それについて、中森さんは、あくまで、その映画を見た感想であって、原作を見ていない、と断られている。
それと比べて、私の場合、先週、映画を見ようとしたのだが、完全指定席制だったため、当日券が売りきれていて、じゃあ、原作でも見ようかと、半分過ぎくらいまで読んで、たまたま、今週は、映画館で見れた、という事情もあって、むしろ、この作品については、
原作
を中心にして、考えた方がいいんじゃないかな、と思った、という「いきさつ」だということになります。
原作の文庫版では、映画の監督が、解説を書いている。

当時十九歳の作者が同時代の気持ちをここまで徹底的に対象化、描写し得たことには素直に驚く。その頃の自分の余裕の無さなんか思い出して、さらに。もちろん「気持ち」を意識しない訳じゃないんだけど、それをほぼリアルタイムで精細に主力するパワーとコントロールのバランスが微妙。
大人になってから(安全圏に逃げ切ってから)、ある程度の余裕をもって振り返るのとは訳がちがう。
(吉田大八「解説」)

ここの指摘は、けっこう正直だと思うわけです。ようするに、この映画監督は、この作者のような「感性」では、作品を作れなかった、と言っていると解釈できます。自分はこの作品を「大人の安全圏」から「しか」、作れなかった、と言っているんだと思うんですね。
つまり、この映画監督は、自分は「大人」の側なんだから、その視点で、
徹底
して、やるしかないんじゃないのか、とひらきなおって、この映画が出来上がっている、ということなんじゃないか、と読んだわけです。
つまり、なぜ、あの映画は、あそこまでの

  • グロテスク

さに、徹底しなければならなかったのか、の正直な告白なんじゃないですかね。
しかしそれは、例えば、原作を読んでいた、多くの若者には、あまりに、パロディ化されすぎていて、ついていけなかったんじゃないか、と。
原作の特徴がなにかですが、上記の引用でも示唆されていますが、作者自身が、まだ若く作品の登場人物、と十分な距離がとれないこともあり、非常に、

  • 当事者性

を感じる作りになっているところだと思うんですね。
例えば、原作は、

  • 菊池宏樹
  • 小泉風助
  • 沢島亜矢
  • 前田涼也
  • 宮部美果
  • 菊池宏樹

という6本立ての短編集になっているが、ちょうど、それぞれが、彼らの視点からの作品となっていて、もちろん、映画同様、それぞれ、どこかしら、欠点もあり、醜い部分をみんなが持っているのであるが、少なくとも、それぞれの「視点」においての上記の彼らは、作者はナイーブに
必死に生きようとしている
共感できる存在として、「美しく」描くことを実践しているわけで、そこは、作者自身が、年齢も若く、近かったこともあるだろうが、「当事者」として、青春として、その
感覚
に、(映画の方のように)距離を置くことを、潔しとしなかった、ということになるんだと思うわけです。
このことを説明するのに、いい例がどうか分かりませんが、文化人類学者の松沢哲郎という方は、

想像するちから――チンパンジーが教えてくれた人間の心

想像するちから――チンパンジーが教えてくれた人間の心

チンパンジーと人間の違いを、チンパンジーは、

  • 今、この目の前「だけ」を真剣に、本気(マジ)で生きている

ところに見出します。人間は、むしろ、「今」を、今生きない。では、なにをしているかというと、未来を「予想」して生きている。つまり、

  • 想像

こそが、人間の人間たる特徴だと捉える。
こういった違いを、一部の人たちは、「動物的/人間的」という二分法で説明していたわけであるが、せんじつめれば、このことは、この松沢さんの視点によって、
形式化
されると私は考えます。
この分析の比喩として、上記の文脈を分析するなら、原作者の視点は、若者それぞれの、非常に「狭い」視線に、「寄り添う」形での、

  • 動物的

な姿勢であり、映画監督による、この映画の、まさに、ドステエフスキーのような、さまざまな視点が、重層的に重なる形で描かれる、その監督の視線は、

  • 人間的

というような、分類が可能なのではないでしょうか。
原作においては、ある一つのパースペクティブ=フラグが、提示されます。

なんで高校のクラスって、こんなにもわかりやすく人間が階層化されるんだろう。男子のトップグループ、女子のトップグループ、あとまあそれ以外。ぱっと見て、一瞬でわかってしまう。だってそういう子達って、なんだか征服の着方か持ち物から字の形やら歩き方やら喋り方やら、全部違う気がすう。

なんで同じ学生服なのに、僕らが着るとこうも情けない感じになってしまうんだろう。今、表彰状をもらいに行った男子バレー部の、副部長? かな? と(背が小さいから多分)リベロのふたりだって、どう着ているのかわからないけれど、かっこいい。どこであのちょっと太めのズボンを手に入れているかもわからないし、寸胴に見えない学ランではどういう作りでああいうシルエットになるのかもわからない。僕は何一つ校則を破っていない制服を身にまとっていて、白いシャツや黄色いリストバンドや青いミサンガや赤いベルトなんかで、真っ黒な制服に色をつけられない。
僕にはわからないことがたくさんある。
高校って、生徒がランク付けされる。なぜか、それは全員の意見が一致する。英語とか国語ではわけわかんない答えを連発するヤツでも、ランク付けだけは間違わない。大きく分けると目立つ人と目立たない人。運動部と文化部。
上か下か。
目立つ人は目立つ人と仲良くなり、目立たない人は目立たない人と仲良くんる。目立つ人は同じ制服でもかっこよく着られるし、髪の毛だって凝ってもいいし、染めていいし、大きな声で話していいし笑っていいじ行事でも騒いでいい。目立たない人は、全部だめだ。

この視点は、原作においては、非常に重要なフラグになっています。まず、この視点によって、登場人物たちは、それぞれ、各階層に対して、

  • ナイーブに差別的

です。この事実は決定的です。しかし、その「差別的心性」は、上記の構造から考えたとき、ほとんど、不可避的と言ってもいいような関係にあります。むしろ、原作者が言いたいのは、そのナイーブな差別性を抱えながらも、彼ら自身は、そのことに、自覚的になれずにいて、しかし他方において、どこかで、そのことを気持ち悪くも感じることもあったりして、
今を必死にあがいて生きている
部分に、原作者は共感し「美しく」描くわけです。

なんだかイライラする。沙奈の映画部に対する言葉とか、バレーボールで食ってくわけでもないのにって言った竜汰とか、ブラスバンド部とか、進路とか、全部ひっくるめて。これをイライラっていうのかどうかもわからないけれど。

しかし、この階層性の「構造」が、フラグとしてあるということは、つまり、この話が「物語」として提示された時点で、描かれるべきは、この、
フラグ
のミステリーの結末(ネタ)ということになります。つまり、原作は、さまざまな各階層に所属する人たちが、それぞれ個人的な悩みなどによって、自ら「ゆらぐ」。その不安定状態が、本来ありえないはずの、それぞれを、たとえ一瞬であったとしても、
邂逅
させる、という形になります。しかし、原作は、その「瞬間」を、あくまで、そっけなく、「ありふれた」ことのように描かれるわけですが、しかし、その「そっけない」瞬間は「いつも」の日常のように
美しい
わけです(青春ですから)。
他方において、映画においては、どうでしょうか。
文庫の解説で、映画監督が「同調圧力」という言葉を使っているように、映画の方の視点は、徹底して、オヤジ的な、日本論壇における、学問的な共同体批判の文脈によって、「解釈」された、
定型的な
印象を受けます。実際、上記の引用にもあるように、この作品の構造は、宮台さんの言う「島宇宙」に、完全に対応します。
しかし、そういった「解釈」を、ベタに適用してしまうと、原作のような、叙情的な「青春」としては、どこか描けなくなる側面はいなめないでしょう。
そこで、映画の方は、そういった方向を「完全にあきらめる」わけです。
むしろ、このフレームに「どっぷり」つかり、この、
対立
の、完全なる、「弁証法的展開」をパロディアスに徹底します。
映画の側の、決定的な特徴は、

  • 映画部をより具体的にリアルに描いた

ということにあると思います。上記の階層で言えば、言うまでもなく、映画部は、「下」の階層になります。しかし、重要なことは、

  • 下は下で、上を「ばか」にしている

というところです。映画部の、普段バカにされている、ある部員が、「もし自分が映画監督になったら、あの連中を絶対キャストに使わない」と、言う場面がありますが、つまりは、彼らは彼らで、「上」をバカにしているわけです。
そして、その「想像」は、屋上での「ゾンビ」化の部分にこそ決定的に現れているでしょう。そこで「上」のキャラは、ことごとく、ゾンビに、体を食いちぎられ、はらわたをまきちらし、悲惨な「想像」として、描かれます。
つまり、その「想像」自体が、一つの、いつもバカにされている

  • 仕返し

になっていることが理解されると思います。
ここは大事なポイントで、つまり、「下」は「下」で、ルサンチマン的であろうとなんであろうと、「上」を内心では「差別」している、ということです。つまり、どこにも、
イノセント
な存在、イノセントな場所が用意されていない、ということです。
この「映画部」の描かれ方は、強烈な
パロディ
になっているように思われます。
例えば、サブカルにおけるゼロ年代批評は、どこか、上記の「映画部」のような「ダサさ」として、見られていた部分があったように思われます。体育館で表彰されるときの並んでいる格好の
ダサさ
であったり、映画部員がサッカーの授業のときの、みじめな醜態の
かっこ悪さ
であったりに、なぜ彼ら自身が耐えられるのかは、彼ら自身「だけ」で、集まっているときの、

  • 異様

なまでの趣味の話に熱中している姿に対応します。「想像」による、屋上でのゾンビによる「仕返し」の場面は、ゼロ年代批評が、バトルロワイヤルや西尾維新の小説のような

を、なんの与件もなくゼロ年代の「中心的主題」にすえた、恣意性にも、対応しているような印象を受けるわけです。
(もちろん、こういった傾向は、ゼロ年代サブカル批評だからではなく、映画批評を含め、概ね、抽象的な哲学的メタ言説の特徴だったと思われます。)
そして、その「ナイーブ」さは、この2010年代になっても、変わっていないんじゃないか、という印象を受けなくもない。
ゼロ年代批評の特徴を、自らの「立ち位置」を、より「メタ」な場所におくことによって、

  • 最も俯瞰的な場所から発言「しているかのように」振る舞うこと

が「勝ち組」であるかのような、言葉遊びの側面があったのではないのか、と総括できるのかもしれません。
しかし、実際に彼らがやっていることは、結局は、上記の「映画部」の部員が、休み時間に、自分たちだけで、固まって、マニアックなネタに熱狂していることと、大同小異だったんじゃないのか、という皮肉にもなっている、ということでしょう。
道学の荘子ではないですけど、自分がより「全体」を見渡せる、「最高度」の場所から批評している「つもり」になっていても、他人から見れば、上記の「映画部」の部員たちの姿と、なんら差があるようには見えなかったり、実際、たいして変わらないんじゃないのか、という感じ、と。
そして、こういった視点は、原作における、各登場人物の「狭い視野」に「寄り添って」共感的に描こうとする、原作者の姿勢に対する
再評価
を可能にするものにも私などには思わたりするわけである。つまり、完全な「メタ」の立場など、そもそも、存在しない(哲学の不可能性)認識が、再度、
当事者性
の重要さを(逆説的にも)再認識させているんじゃないか、と...。

桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)

桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)