大澤真幸『生権力の思想』

日本における、大学受験のシステムが、どこか、「嗤える」のは、日本中の高校生や浪人生による「競争」によって、優秀な人を「選抜」するという、そのスケールメリットを強調されることの、どこかチープな印象によるのであろう。
というのは、「実態」として、多くの人は、ある「一部の高校」の高校生ばかりが、東大なり京大なり早稲田なり慶応に入っていることを知っているし、心のどこかにおいて、そのことの「異常」さに気付いているからだ。
つまり、なにが言いたいのかというと、私には、そのことが、彼らの「頭のよさ」を証明しているようには思われない、ということである。もちろん、彼らには一定の「才能」のような「要領のよさ」のようなものがなければ、そこまでのことはできないことは認めるとしても、また、そういった有名進学校における勉強がハンパないほどに、やらされていることを認めた上で、その上でなお、

  • あまりにもの、その「相関関係」

に、「うさんくささ」を感じるわけである。つまり、むしろ「逆」なんじゃないか、と思うわけである。
つまり、そういった大学に、多くの、それらの有名校から入学し、それは、戦後の日本において、一貫して、起きていた現象であった。そこから、日本の政治家から官僚から大学教授から大企業の社長まで、日本の頂点を意味しているような、権力中枢は、こういった、

  • 学閥

によって、ほとんど、抑えられているのではないのか、ということなのである。
有名進学校の生徒たちは、たんに、優秀だったり、人以上に勉強時間が長かったり、といったことを意味しているわけではない。そうではなく、彼らが、そういった進学校に入って、その高校の先輩でもある、その学校の先生から受ける「トレーニング」は、過去の先輩も受けていたものであり、つまりは、こういった「作法」が、

  • 大学の合格「条件」

と同値に近くなっていく。その高校における「慣習」的な作法を習慣づいていることが、大学側が「好ましい」と思う思考態度を実践していることと近くなる。そこから、こういった有名進学校の子供たちには「迷い」がなくなる。この進学校の「慣習」に従い、行動していれば、自然と、大学が求める作法を自らが実践することになり、自分の行きたい大学に入れることになる。ところが、そういった進学校以外の学校では、そもそも、そういった「規範」を、高校自体が持っていないので、必然的に、生徒たちは

  • 悩む

ことになる。そして、彼らの行動は徹底して、

  • 非効率

となる。
しかし、私は、ここに、ある疑問をもたざるをえない。そういった有名進学校の彼らは本当に優秀なのだろうか? そういった有名進学校は多くは、私立であり、つまり、いいところのボンボンしか、そもそも入れない。そういう意味では、こういった有名進学校に入ることは、相対的には、「お金持ちであれば、難しくない」という側面が、最初からある、という意味では、現代における、一種の「貴族主義」という側面はぬぐえないのではないだろうか。
例えば、最近は知らないが、東大は、入った最初は、自らの学部や専門を決めない「モラトリアム」の期間が、1、2年あり、その後で、「選ぶ」という方法を採用していたと聞いたことがある。しかし、そのことは、本来、大学というところが、研究機関であり、優秀な研究者を「生み出す」ことが「目的」であることに反した態度のように思われる。なぜなら、大学に入るということは、「その」専門をやるための「行為」でありながら、入った最初の間を、「それ」をやらないことを強いられる、というわけだから、である。
つまり、最初の期間においては、研究を「禁止」されている、と考えてもいいであろう。研究とは、「それ」についての研究であるはずである。つまり、ある「一点」について、だれも知らなかったことを、「発見」することが研究のはずだ。であるなら、なにをおいても、研究者の卵たちは、自らに一つの「発見」を目指すために、日々を生きることは当然ではないのか。むしろ、それ以外に、やることなどあるはずがない。
ということは、東大においては、「研究」とは本質的に「違う」なにかを行う場所であることを、どこかトレーニングしているようにも、思われるわけである。
それは、どこか、大企業の社員が必然的に「ゼネラリスト」であることが求められることに似ていなくもない。
学問とは、本来、「狂気」と紙一重のものではないのか。そうでなければ、他人が思いつかないような、「だれも気付かなかった」真理を発見できるわけがないんではないのか。
このことは、京大が多くのノーベル賞学者を生み出しながら、東大からは一人も生まれていないことを、よくあらわしているようにも思われる。
私の仮説によれば、有名進学校に入り、教師から指示される「トレーニング」を真面目にこなしている子供にとって、そういった上の大学に入ることは、そう難しくはない。なぜなら、長い間、同じような進学校から多くの先輩が生み出されてきた「システム」によって、

  • こういった有名進学校で、伝統的に受け継がれている「感応」力(下記、引用参照)

を、自らも身体化すれば、論述問題では、「同じような」視点で、議論をするようになるし、ということは「正解に近くなる」わけであり、つまりは、そういったところから、あらゆる、勉強のやり方が、

  • 効率的

になる、というわけである。

ナチスには、SA(突撃隊)と、本来はその一部分だったSS(親衛隊)という軍隊様の組織ああり、両者の間には角遂があった。この内的な葛藤は、一九三四年六月の、レームの粛清事件で頂点に達し、その後、解消される。
エルンスト・レームは、SAのヘッドであった。このレームがある種の裏切り者であるとの嫌疑がかけられ、粛清されたのだ。実際はレームという人物はたいへん人気があったのだが、なぜか、粛清されてしまう。粛清の任にあたったのはSSである。以後、ナチス内でのSAの力は急速に衰え、主導権はSSに移ることになる。このレーム粛清事件は、ナチスの歴史の中でも特筆されるべき大事件である。
レームがなぜ粛清されたのか? それは、さまざまに説明されてきた。レーム粛清事件を、同性愛をめぐるナチスの自己矛盾に基づく自己否定の関係の帰結であり、そうした関係の現象化として解釈することができるかもしれない。ドイツ現代史の研究家モッセが、このような解釈を示唆している(Mosse [1985:153-159])。レームが同性愛者であるということは、ほとんど公知の事実だったからである。
他方、SSのリーダーであるヒムラーこそ、ナチス幹部の中でも最も過激な、同性愛糾弾者だった。だから、同性愛的な関係が同性愛を排除するという自己言及の構造が、ナチスのSAとSSの自己分裂と、前者の後者による排除によって解決がはかられるという、ヘーゲル弁証法を連想させるような現象が出来したのである。
しかしこれで矛盾が消え去るわけではない。同じ矛盾が、今度はSSの内部にこそ持ち込まれてしまうからである。ある意味では、SSほど同性愛的な集団はない。たとえば、前近代的な伝統社会では、しばしば、男性は、青年期に一種の同性愛的な青年秘密結社に加入し、そこでの同性愛体験を通過儀礼として経由して成人した。ヒムラー指導下のSSは、こうした秘密結社に似ている。SSの青年たちのグループは、中世を思わせる秘儀をたいへん好み、不思議な、外部の者たちには不可解な儀礼を執行し、互いの結束を固めあっていたと言われている。これはまるで原初的な共同体がかつてもっていた青年期の同性愛集団である。そうであるとすれば、SAのレームの同性愛を排除したSSこそ、ナチスの中で最も同性愛的な色彩の強い核であったと見なしてもさしつかえないことになる。
では、なぜナチスは同性愛を極端に恐れたのだろうか? まずヒムラー自身の言葉によって解説させてみよう。おそらく、ヒムラーの言葉は、当時の同性愛に対する一般的な偏見を代表したものである。ヒムラーは演説の中で、同性愛者には普通の人々には感知しえない、互いの間の意志疎通の能力があるとして、それに対する恐れを表明している。つまり現在のサブカルチャーの言葉で表現すれば、同性愛者は、互いの身体同士のシンクロによって意志疎通できる、というわけだ。ヒムラーは、この恐怖を官僚制の問題と関連させて表明している。そこで奴らは非常にずるつ振る舞っているというのだ。たとえば、役人の中に同性愛者が何人かいるとすると、互い同士がまるでテレバシーのような感応で協力しあうため、彼らだけが抜きん出て出世してしまい、公正な競争が阻害される、というわけである。つまり、われわれのよき能力主義が、能力主義を支える個人主義の原理が、同性愛者の不思議な感応力によって壊されていく、というのだ。
無論、こうした表現は、今述べたように「偏見」である上に、大衆を扇動するために、誇張もされているだろう。とはいえ、極端に誇張されたときに、こうした言葉に帰結するような、ユダヤ人に対する恐怖や不安が、ナチスやその支持者たちの間にあったことは事実である。

レームの粛清には、三島由紀夫の戯曲があるが、そこにおいても、ヒトラーとレームの関係は、どこか「同性愛」的な、

  • 若者同士の「だち」の感性の「なれなれしさ」

が描かれていたのが、印象的であった。なぜ、ナチスが、あそこまでのユダヤ人への「虐殺」を行ったのかは、当時においても、ユダヤ人コミュニティが、上記の日本における、有名高校出身者で、今の日本のエスタブリッシュが固められているように、

  • 「感応」力

によって、ドイツ社会のエリート階層を固められていたから、だったのであろう(この「感応」力と同様のものは、掲題の著者も言うように、オウム真理教の幹部たちにも、見られる)。
そして、そこには、強力な「官僚」内における、権力闘争の様相を示している。レームが粛清され、SAが事実上解体していく過程において、SSのヒムラーは、レームとヒトラーの、どこか「同性愛」さえ思わせるような、

  • だち

のノリの蜜月の関係が、自分たちSSが、官僚内において、大きな影響力を行使し続けるのに、邪魔だと考え、ヒトラーの見ていない影で、さっさと、レームたちをつぶしてしまう。
しかし、同時に、ヒムラーはSSを秘密結社化することで、今度は、その「感応」力によって、SSのドイツ「官僚」社会での強力な影響力を維持していこうとする。
私は、ここにこそ、日本やドイツのような「官僚」が強力な社会的影響力をもっている社会の弱点があるように思えてならない。
つまり、そもそも「優秀」とは、「多様」であることでなかったのか? 均質な「優秀」性など、語義矛盾ではないのか? さまざまな「違った」才能が、それぞれの方法で、切磋琢磨するから、

  • 多様な発見

が生まれるのであって、「金太郎飴」で、どいつに聞いても同じような解答が返ってくるような、「同質」性は、そもそも、優秀とは反対の概念なのではないだろうか?
つまりは、こういった日本社会の「同質」化が、さまざまなイノベーションを抑圧し、日本の国力を弱めてきている印象を受けなくもない。
(このように考えたとき、私は、東大京大慶応早稲田とは、まったく価値観の違い、採用方法も違う、

  • 別の価値観の大学

というのを、いい加減、目指すべきなんじゃないか、とも思うわけである。そして、そういった「その」大学そのものの「研究スタイル」によって、多様な人材の輩出を目指すべきなんじゃないですかね。)
まあ、逆に言えば、そういった有名進学校の金太郎飴たちの陥穽をぬって、入ってくる、田舎の無名高校で、一人意味不明にダントツだった子供というのは、本当の意味で「優秀」だということを意味しているように思われる。つまり、相当にムダな時間の使い方をしてきて、回り道をしてきて、でも、ここまで来れている、という意味で(しかし、今度は、そういった子供が、世渡りが上手かどうかとなると、また、別の話ですからね)。
こういった日本のエスタブリッシュの「進化論的な意味での脆弱性」を最も象徴したのが、311での福島第一事故だったのではないか、という印象はかなり強い。
有名進学校の子供たちはみんな、いいところの子供たちであり、彼らのほとんどは上の大学に行くわけですし、そもそも、国策である原子力工学をわざわざ教えている大学なんて、そういった国策に大きく関わるような、上の大学でしょうし、そう考えると、そういった子供たちと、原子力は親和性があるわけだ。
有名進学校が「必要」なのは、そういった上の大学に入る学生を必要としている、そういった大学であり、そのことは、回り回って、優秀な学生を必要としている、国家なりということで、その国家が「国策」として原子力をやっている、というのですから、原子力の必要性は、そのものずばり、

  • 有名進学校の子供たちの「必要性」

に関係している、ということなのであろう。しかし、問題は逆なのだ。有名進学校なんていらないし、上の大学なんていらない。そんなものがなくても、優秀な子供は優秀な大人になっていくし、日本社会は維持される。
むしろ、有名進学校の子供たちの「必要性」を担保するために、原発の必要性が証明されなければならないという、歪んだ「価値観」こそが、この日本の行く末を歪めてしまう。
つまり、有名進学校の子供たちの「必要性」には、深く、

  • 国家の仕事の必要性

が関係してくる。この二つは、深く関係していて、離せなくなっている。国策である原子力産業を国家が手放せないことと、有名進学校の子供たちの「必要性」が「リンク」してくることから分かるように、有名進学校の子供たちと国家の関係は深く結びついている。彼らの「正当性」は、国家の正当性「によって」、与えられる。つまり、
彼らはどんなことについても、国家に「対抗」的に振る舞えない。なぜなら、そうすることが、自らのアイデンティティを揺がすことになるから。つまり、どんな場合でも「国家対抗運動」の側に与することができない。
原子力という「国策」において、東電などの主要電力会社と日本政府は、311以前から一心同体であった。それは、原子力というものが、多くのタブーを内包していることに関係している。
この場合の基本的なフレームは、以下である。

  • 情報を隠す:主要電力会社&日本政府 --> パンピー
  • 情報を偽装する:主要電力会社&日本政府 --> パンピー

このことは、国家というものがどういうものなのかをよく現している。つまり、主要電力会社&日本政府は、国民に向けて言えないだけではない。世界中の人々に向けて言えない。なぜなら、

  • 世界中の原発を持っている国家が、それぞれが、その「嘘」を前提にマスコミ報道を行い各国の国民を「説得」しているから

日本だけが、本当のことを言うというわけにはいかないのである。しかし、こういった巨大事故において、本当のことを言えないというのは、「つらい」ことである。というのは言わないわけにいかなくなるからだ。だって、生データそのものが「語ってしまう」から。
そこで、主要電力会社&日本政府は、どうしても、

  • 生データの改竄

まで「やらないわけにはいかなくなる」。つまり、世界中の原発国が共有している「たてまえ」を守るためには、「そこまでやらなければならなくなる」。
大事なことは、ここにおいて、重大な「非対称」性が生まれる、ということなのである。

しかし、である。こんな生温い対応で、本当に「なんとかなる」のであろうか? 深刻な過酷事故が現に起こっている現場において、今だになにかを、国民に隠して、どうやって国民の知恵を貸してもらえると思っているのか? 原発政策を推進するには、明らかに国民の明確な「支持」がなければ進められるわけがない。ところが、「本当のこと」を言うと、国民がますます原発を嫌悪し始める。そこで、主要電力会社&日本政府は、ますます、本当のことが言えなくなる。しかし、そのことによって、国民はその「原発安全神話」に、うさんくさい目を向けるようになるだけでなく、「間違った」情報が「正しい」としてマスコミに存在することで、福島第一のように、

  • 本当の危機

が起きたときに、それを「コントロール」する人材や研究を、パンピーの自律的な活動から、集めることができない。
この場合、先ほどの、「有名進学校の子供たち」は、どういった行動をとることになるのか? 先ほども言ったように、彼らはどんなことについても、国家に「対抗」的に振る舞えない。
国家の必要性が自らの「有名進学校」というアイデンティティと深く結びついているため、その「国策」という、国家がその必要性から行っている行為を、単純に「否定」できない。
そこで、なにが起きるか?

クロード・ランズマン監督の映画『ショアー』(一九八五年)を、この二重の排除を例証するものとして見ることができるだろう。『ショアー』は、虐殺に何らかのかたちで関わった人々の証言を集めた映画で、上映時間は九時間三〇分にもなる。この映画には、一一年もかけて集められた多数の証言が収められているが、この映画自体が示していることは、ナチスによるユダヤ人虐殺を目撃することに人がいかに失敗するか、である。
ショアー』に登場する証言者は、大きく、三つのカテゴリーに分類することができる。第一に、生き延びたユダヤ人、第二に、元ナチ党員、第三に、収容所近辺にいた住民、まりポーランド人である。これらは、目撃行為の三つの遂行様式に対応している。犠牲者としての目撃、加害者としての目撃、そして傍観者としての目撃である。
だが、デリダの影響を強く受けた言語哲学者ショシャナ・フェルマンが述べているように、彼らは、いずれも目撃することを逸している(Felman [1992=1995])。犠牲者であるユダヤ人は、確かに、目撃はしているのだが、あまりのことに、それが何であるのか、彼らが目撃していることの意味を把握することができない。ポーランド人は、意味を把握してはいるが、それをきちんと完全には見ようとしない。見ることを避けているのだ。最後に、加害者は、収容所を慎重に遮断し、虐殺が不可視なものにとどまるように気を配っている。
さらに付け加えておけば、加害者ですら、それを正面から、きちんと見ようとしていない。「あなたは、ガス・トラックをご覧になったことがありますか」というランズマンの質問に、元ナチ党員教師の妻は、こう答えている。「いいえ......はい、外側からですが。......私はなかは見たことがありません。つまりユダヤ人たちがなかにいるのを見たことがないのです。わたしは何もかも外側から見ていただけなのです」。

当時のドイツの国民の多くは、近所のユダヤ人が、次々とどこかに連れ去られているのを知っていた。しかし、その連れ去られていったユダヤ人が、

  • どうなったのか

の最後について、なにか明確な「証拠」をつかんでいるわけではない。しかし、間違いなく、毎日のように、近所からユダヤ人が、いなくなっていったことは知っていた。
しかし、この政策に「関与」していた、警察やナチ党員に近くなればなるほど、そういったユダヤ人が、実際に、どこに連れて行かれていたのかを、実際に見ることにもなるだろうし、知っているわけであろう。しかし、そういった彼らにしても、そうやって収容所に入った人が、

  • 最後に

どうなったのかを見ていない。この構造は、まったく、上記の日本の原発情報に対応する。

  • 「正しい」ユダヤ人虐殺情報 ∈ ナチ
  • 「改竄された(虐殺の事実はないとされた)」ユダヤ人虐殺情報 ∈ パンピー

先ほどの、「有名進学校の子供たち」も同様である。彼らも、こういったナチ党員と同様で、

  • そこから先を考えない(そこら先のことを発言しない)

のである。それが、意識的か無意識的かはどうでもいい。
次々と街から連れ去られていって、いなくなっているユダヤ人が、最終的にどうなっているのか(国策として推進されてきた福島第一の原発が、今、どうなっているのか)を「考えられない」。
例えば、最近ブログにも書いたが、槌田敦さんによる福島第一について発表された原子炉の生データの解析をしている講演が、YouTubeで視聴できるが、彼はそこで、その生データから、ある推論をしている。
私が不思議なのは、福島第一をふまえた上での今後の原発政策であるはずなのに、多くの人が、

  • 実際に福島第一の原子炉の中で何が起きていたのか?

にほとんど関心をもっていないことである。そもそも、この事実なしに、今後どうすべきなのかなど考えられるわけがないであろう。これだけが、すべての「出発点」のはずなのに、だれも興味をもとうともしないし、理解しようともしない。

  • 生データを説明できる「明確」な推論が必要だと思っていない。

私が言いたいのは、もっと有識者の方々は、こういった推論に関心をもって、発言すべきだと思うのに、実際には、完全に「シカト」だという、ことの「気持ち悪さ」である。
こんなふうに考えてきてみて、私は逆にこれによって、アニメ「エヴァンゲリオン」が、何を描いていたのかが分かった気がした。
ようするに、ネルフというのは、有名エリート進学校なわけである。この場合は、その生徒は、シンジとアスカとレイとカオルくんしかいない、究極の

  • エリート機関

であり、あまりにもエリートすぎて、この4人には、すでに、「国家のために働く」ことを強いられている。
しかし、彼らは一体、何と戦っているのか? まさに、「カフカ」的世界だ(カフカの文学が、公務員という「官僚」の性質と切っても切れない関係にあることは自明であろう)。エリートである彼らは、国家、国民の「ため」に戦う。まさに、パターナリズムで「あなたのためだから」と、戦う。

  • 国民のために「原発推進」を「守る」
  • 国民のために「ユダヤ人虐殺」を「守る」

彼らが混乱し、欝になっていくのも分かるんじゃないだろうか。自分たちエリート進学校というアイデンティティにすでに、国家が行う「仕事」の正当性へのアイデンティティが、あまりにも、密接に、絡み合ってビルトインされてしまっている。

  • 自分が何を考えているのか?
  • 自分が実際には何をしているのか?

こういったことを、客観的に切り分けることができない...。
(前回のブログで書いた、スピノザヘーゲルに引き寄せれば、彼らのアイデンティティそのものが、あまりに、国家に「内包」されているため、うまく、この二つを切り離して考えられないわけである。自分を国家と独立した存在として思考できない。なぜなら、自分が国家という「全体」の一部であって、国家という「全体」がどうであるかに、自分が「どうあるか」が依存する、完全な「従属変数」だから。こういったスピノザにおける「神」が汎神論的に、このセカイ全体を現し、人間とはそういったセカイの一部でしかないこととのアナロジーによって、国家有機体において、個人は国家の一部であり、「そうでなければいけない」(そうでなければ、国家は十全ではない)となるわけである。エリート進学校というアイデンティティ、その存在意義が、著しく、国家の仕事を「行う」ための人々の養成と結びついているために、彼らのアイデンティティそのものさえもが、もはや切り離せなくなっている(切り離すことが優秀な生徒でないことを意味してしまう)、というわけである...。)

生権力の思想―事件から読み解く現代社会の転換 (ちくま新書)

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