葉留佳と佳奈多

アニメ「リトルバスターズ!」の第16話から第18話は、三枝葉留佳(さいぐさはるか)の物語であったが、この回は、それまでの、神北小毬(かみきたこまり)や西園美魚(にしぞのみお)とは、ずいぶんと違った印象を受ける。
それは、一言で言えば、「非常に分かりにくい」ということである。
小毬ちゃんや西園さんの場合、確かに彼女たちの「悩み」は、どこか個人的なものであったが、ある意味、この「学校」との関係は、1対1であり、分かりやすかった。リトルバスターズのメンバーも、彼女たちの場合は、どう接すべきなのかは、はっきりしていた。
ところが、葉留佳(はるか)が、なぜ、学校で、いたずらばかりやって、周囲に迷惑をかけるのかは、逆に、姉の二木佳奈多(ふたきかなた)が、風紀委員であり、学校内で信頼される存在であることと、

  • 関係

している。
彼女の「劣等生」であり「トラブルメーカー」である性質は、単純に彼女の「キャラ」が、この学園内で閉じていない。いや、閉じていないというだけでは、小毬ちゃんや西園さんにしても同じなのであるが、その「閉じなさ」が、

  • その学園内の存在

である、姉の佳奈多(かなた)との

  • 二人だけの個人的関係

によって、制限されている、ということなのである。つまり、この学園内に存在する二人でありながら、その二人の「関係」が、この学園内において、各リトルバスターズのメンバーが入ってきて、築きあげてきた、

  • 文脈

に収まっていない。この学園という「弁証法」の中だけでは記述できない「外部」性が、どうしても関与しているために、この二人の「仲直り」を、この学園内での各リトルバスターズのメンバーたちの、「経験」の範囲の中だけでは、「導けない」関係になっている。
その特異な様相は、「ヒロイン」である、葉留佳(はるか)が、姉の佳奈多(かなた)に向かって「いい気味(きみ)」と毒づく場面に象徴される。
葉留佳(はるか)が、自らの「悪意」をさらけだすことに、リトルバスターズのメンバーは驚くが、基本的に、姉の佳奈多(かなた)の卑劣な行為を、表面的には見ているため、彼女に「同情」的にふるまう。当然、姉の佳奈多(かなた)の前では、彼女の味方であることを、強調する。
しかし、主人公の直枝理樹(なおえりき)は、逆に、その、姉の佳奈多(かなた)の「態度」の方にも、アンビバレントな反応をかぎとる。しつこく、葉留佳(はるか)を「目の敵」にしている姿に反発を感じながら、理樹(りき)は、むしろ、そういう行為をしている姉の佳奈多(かなた)の方が、どこか

  • つらそう

にしている印象をぬぐえない。また、姉の佳奈多(かなた)が実家の人間に、葉留佳(はるか)の親が犯罪者であることを告発するビラを学校内にばらまく行為を「やりすぎ」と抗議して、ビンタされる場面で、彼女が「死ねばいいのに」と、こういった行為を自分はやりたくない、と「つぶやく」姿を見かけることで、さらに、その思いを強くする。
この二人の関係は、お互いが「悪意」をもっているところに、その特徴がある。一般に悪意をもつことは、リトルバスターズ的な人間関係において、許される属性ではない。しかし、葉留佳(はるか)と姉の佳奈多(かなた)との二人の

  • 閉じた

関係において、その感情は、お互いの「相補性」によって、単純に肯定も否定もできないものとして理解される(お互いが、こういった「悪意」を、どこかに対して持っている場合、そもそも、その「どちらか一方」の「感情」だけを、糾弾することは、フェアではない、ということである。ここには「構造」があるのであって、その一部だけで、なにかを説明できない、ということである)。
「自分なんて産まれてこなければよかった」と言った葉留佳(はるか)に、激しく反発した理樹(りき)は、なぜなら、自分も以前、そう思っていたから、である。それは、リトルバスターズにおける人間関係が彼に信頼を与えたように、葉留佳(はるか)にも、ここが、そういうものであるはずだ、という確信があるから、なのであろう。
主人公の、理樹(りき)は、前回までとは違い、たんに、葉留佳(はるか)に、「自分がどうなりたいのか」と問う。それ以上は、言わない。それは、彼女にとっての、姉の佳奈多(かなた)や三枝家との関係と同じように、リトルバスターズがもう一つの

  • ホームベース

であることに対しての「確信」をもっているからであろう。彼女はやりたいように生きるべきだ、と思うことは、「いざとなったら自分たちが彼女を守る」ことを、リトルバスターズという「共同体」には可能だという、自信とも考えられるであろう。
葉留佳(はるか)は、姉の佳奈多(かなた)に、「本当のことを教えてくれ」と頼む。姉の挑発にも動じず、土下座して頼む。動揺する姉の佳奈多(かなた)であるが、なぜ、葉留佳(はるか)にそれができたのかは、つまり、葉留佳(はるか)は、理樹(りき)でありリトルバスターズに、姉や三枝家との関係を「相対化」する、別のホームベースとしての位置付けを理解したから、であろう。
しかし、こういう状態は、むしろ、姉の佳奈多(かなた)の方こそ、望んでいた関係だったと姉の方が告白することになる。姉がすべてを打ち明けた後、葉留佳(はるか)はその姉を許すのだが、その姿は、たんに仲の良い「昔の」二人の姉妹として描かれることで、エンディングとなる。
姉妹であり兄弟というのは、どこか、不思議な関係である。というのは、お互いの関係が、いわゆる、学校的物語(弁証法)に閉じないから、である。
私たちが使っている、さまざまな用語(概念)は、そもそも、「学校コミュニティ」の中で、意味が「確定」されてきたもので、学校内で生まれる人間関係を「記述」するようにできている。つまり、小学校なり中学校なり高校なり、そこで「初めて」集められる人たちが、意志疎通をしていく「コード」としての役割を意味するものとして使われるのが、こういった用語だということである。
そこから、こういった用語には、どこか「クール」な、一期一会的な関係を記述することを意図したような含意が、すでに最初から、含まれている印象を受ける。
ところが、姉妹であり兄弟の関係というのは、どうしても、そういった範囲にとどまらない。つまり、そういった用語で説明するには、あまりにも、

  • 次元が違う

のである。つまり、究極の「おさななじみ」であり、究極の「産まれてからずっと、寝食を共にしてきた」存在であるわけで、どうしても、そのお互いの関係を記述するのに、そういった「学校用語」の「共感ゲーム」では、どこか、「薄っぺらく」なってしまう、ということである。
姉の佳奈多(かなた)が、最後に、ずっと、自分が葉留佳(はるか)に、つらくしてきたことが「つらかった」と、ずっと妹のことが心配でいたことを告白する場面は、一見するとチープな印象を受けるが、兄弟や姉妹がいる人には、ああいう描き方は、なんとなく理解できるし、共感できるのではないだろうか。
というのは、結局のところ、あんなふうにしか描けないだろうな、と思うからである。
子供の頃から一緒にいた、という、その関係を、そもそも名付ける「言葉」なんて、どこにもあるはずがない。あまりにも、濃密すぎて、深すぎて、そんなものを、だれもが理解できる言葉で言えるはずがない。伝わらないのが当たり前なのであって、むしろそのことの方が不思議ではない、ということなわけである...。