久坂部羊『医療幻想』

結局のところ、科学といってみたところで、ようするに「帰納」のことなわけである。というのは、数学や物理において、「演繹」というのが、すべての源泉のように記述されるのだが、それが「フワッとした議論」であれば、「なんとでも言える」から、あまり、意味がない、ということである。
このことは、けっこう、重要である。
例えば、こんなふうに問うてみよう。

  • 人間には「心」があるのか?

この「あまりにも、フワッとした議論」に私たちは、耐えられるだろうか? もしも、「心」なるものがあるなら、それと実際のその人が話していることや、行動していることとの「関係」が、どうなっているのか、が問題となるであろう。
これに対して、リチャード・ローティは、プラトンの頃から、あらゆる哲学は、「心」という、

  • 鏡(かがみ)の「比喩」

を前提にしてきたことを批判する。つまり、彼は、一切の「哲学」は、この「鏡の比喩」によって、あらゆる人間の心的現象を説明してきたがゆえに、その前提が、なんの根拠もない「物語」でしかないんだから、一切の哲学には、なんの根拠もない、とバッサリと切ってしまった、というわけである。
もし、「心」なるものの「存在」を前提にしなければならないとしたら、それは一つの「形而上学(=物語)」となるであろう。
大事なことは、「心」なるものの存在を「仮定」してみたところで、私たちには、その「存在」を「科学的に実証できない」ということなのである。なぜなら、私たちは、しょせんは、その人の外面的に「現れる」現象に対してしか、「経験」できないからだ。
たとえば、だれかが、ある人に「嘘」を言おうとしている、ということにしよう。しかし、である。その人が「嘘を言おうとしている」のか「そうでない」のか、を、どうやって判断すればいいのだ? 私たちは、しょせん、当の本人が「自分は嘘をつこうとしていました」と告白するときに、この人と話を合わせるために「そういうことにしておく」ということをやる位が、関の山だ。もちろん、当の本人がそう言ったとしても、本当にそうだったのかを確かめる手段などない。
というか、そもそも、この前提は間違っている。たとえ、本人がそれを考えた、ということを、どこかにメモしていたなど、さまざまな「裁判の場では証拠となりそうなもの」があったとしても、そのメモがどこまで、その人の「心」そのままなのかは、まったくもって、客観的には判断できないのだから。
つまり、こういった「区別」自体が「無意味」なのである。人間は、心があろうがなかろうが、「ある行動をする」。あるのはその行動だけであり、それに対して、評価をするだけなのである。
大事なことは、こういった態度は、「シンプル」だということである。
例えば、スターリン時代のソ連に生きていた人が、スターリンに殺されないように、自分の本音を徹底して、外に現さないようにしていた、としよう。たしかにこの場合、その人の行動を生涯にわたって観察することで、「この人は、スターリンが怖くて、ずっと、建前を言うことで、生きてきた。本音をできるだけ言わないようにしていた」という仮説が、かなりの、彼の行動を説明できるように思えた、としよう。
しかし、もしかしたら、彼は「ある時」は、スターリンの命令で他人を殺さなければならないとなったときに、その殺人を「純粋に楽しんでいたのかもしれない」。そういった波を、ずっと繰り返していたのかもしれない。
ある絞首刑の紐をひっぱる仕事をしている公務員が、毎日そのことを日課としていたこともあり、「いい運動」だと考え、逆に、毎日やっていることで、体が「健康」になってるなあ、と感じていたかもしれない。
こういった場合、その人には「何」が起きているのか。スターリンの「殺人」について「考える(=反省する)」とき、多くの場合、その人は「憂鬱」になる。今度は、自分の番なのではないか、と考え不安になる。ところが、「その他」の多くの時間において、そもそも、彼は「何も考えていない」。ほとんど「反射」しているだけである。もちろん、前者の「反省」が「こじれ」たとき、彼は精神のバランスを壊し、亡くなるかもしれない。しかし、ソ連時代においても、当然、多くの人がロシアの大地で生きたように、そういったカタストロフに至ることなく、生き延びた。
デカルトは「我思う、ゆえに我在り」と言った。このことは、次のような意味である。私たちは、言葉を発したり、文章に書く「直前」、その表現しようとした「文章」を作っているのだろう。そうでなければ、話せないだろう、と。つまり、それを作るという行為を行おうとしていたものを「思う」という行為だったんだ、と「定義」しようじゃないか、ということである。
なにか文章を書いたり、演説をする「直前」においては、少なくとも、なんらかの「文章作成行為」を頭の中で、やっていなければ、そこまで論理的な文章を、しゃべれないんじゃないのか? というわけである。そして、その行為を

  • 狭義の「心」

なんだと定義しよう、と。そして、なんとなく、あるイメージを反射的に思い浮べて、別に言語化されているとまで意識をしていないんだけど、ちょっと、顔色が変わったりするような場合を、

  • 広義の「心」

と定義するわけである。どうだろう。ここまでやれば、なんとなく、「心」っていうのは、存在するって言ってもいいんじゃないのか? と思い始めないだろうか。
例えば、こういった場合、私たちの脳に電極を埋めこんで、脳のここの部分に、電気が走ったら、ある部分が、非常に活発に活動をしていたら、「心は、これこれ、のことを考えている」と、定義したら、どうだろうか?
これで、「心の正体」をつかまえた、と思うかもしれない。
しかし、そういうことではないのである。
私がさっきから言っているのは、その脳の電極にしても「外に現れる科学的経験」なのであって、それはいいわけである。
問題は、上記のスターリン時代のソ連の人の例にあるように、ある「内省」を人がしているときに、いわば、私たちは、この「心(=本音)」と「建前」との「二人」の「登場人物」を、頭の中で「登場」させて、この二人に「対話」をさせることで、一つの「物語」を

  • 作っている

ということなのである。これが、リチャード・ローティが、哲学の「根拠=形而上学」を嘲笑する理由なわけである。
では、この場合、この二人の登場人物のどちらが、より根底的(=心そのもの)であろうか? まったく、空虚な問いであることが分かるであろう。なぜなら、この「二人」が「登場」する物語を

  • 反射的

に作っている「なにか」が、いなければ、そもそも、この物語ができあがるわけがないのだから。
ここは、けっこう重要な話のように思われる。つまり、ここで「心」を例にして、私が長々と書いたことは、ようするに、「なにが科学的なのか」「なにが科学的対象なのか」についての、考察だということである。
なにが科学的なのか? この命題に、一言で答えられる人は、どれだけいるだろうか。つまり、科学的であるということは、けっこうテクニカルな問題ではあるんだけど、かなり「説得的」に定義できるわけである。

EBMという言葉をご存じだろうか。「Evidence Based Medicine(根拠に基づいた医療)」の略で、1990年代から提唱された概念である。この言葉を聞いて、「それじゃ今までの医療は根拠に基づいてなかったのか!?」と吃驚するのは、私だけではないだろう。
医療はまったく根拠に基づいていなかったわけではないが、思い込みや机上の空論に基づくものも少なくなかった。理屈で考えてこのほうがいいはずだとか、著名な医師がこの方法で患者を治したとか、経験的にこの治療で症状がよくなるからなどで、正しいと信じられていたのである。
EBMにするためには、その治療をやった場合と、やっていない場合を比較して、有意な差があるかどうかを見極めなければならない。それをせずに、単によいと信じ込んでやっている医療は、いわば"幻想医療"である。

どんなに、高名な医者が、「あなたの病気はこれこれで、以下のようにすれば、治ります」と言ったところで、それが本当かどうかは、その治療をやってみた後で、治ったのかどうかによってしか、判断できない。しかし、近代科学においては、「思弁」的に、以下のようには言える。

  • こういった症状の患者さんに、ある治療方法を施した人と、ほどこさなかった人の間では、ある割合で、治った人と治らなかった人の割合が分かれています。そして、その差異は、この実験を行った場合で、だいたい、毎回、同じ割合になります。

私たちは、そもそも、科学とは「因果関係」の学問だと思っている。つまり、ある科学法則があって、ニュートンの重力の法則で、リンゴが下に落ちるように、たいていのことは、その因果性を説明できる、と。
しかし、それは「これを否定する結果が起きている」と主張して、この仮説が今まで「否定」されなかったから、ということを意味しているにすぎない。
つまり、あくまでも、あらゆる科学は「帰納的」なのだ。
たとえば、こんな例を考えてみよう。
福島県の、ある地域が、どれくらい、放射性物質が存在するのか、そして、高濃度に多く存在する場合は、その地域の住民を避難させよう、と行政が調査をした、とする。しかし、福島県の全域を全部調べることはできないので、幾つかの代表的な地域を調べた。そこから、ある地域は、ほとんど、放射性物質を観測しなかった、とする。そこから、行政は、「そこより遠くの場所」なら、問題ないだろう、と判断した、としよう。
ところが、そこから、はるか遠くの地域に、なぜか「ぽつん」と、高濃度の場所があったことが、後から、発見された、とするのである。この場合、大事なことは、それが「なぜ」起きたのかは、どうでもいい、ということである。大事なことは、「そこを観測していなかった」という「事実」である。
しかし、このことがなかなか「容易でない」ことは、想像がつくであろう。あらゆる場所を計測することが、「お金がかかる」から、ポイントをしぼって観測したのであったわけである。こんなことが起きてしまうようでは、逆ギレだって、したくなるというものであろう。
しかし、これが、医療における「患者」であったなら、どうであろう? 医者が、ある薬をくれたとする。しかし、その薬を飲めば、本当にその病気は治るのか? それは、どこまでの蓋然性が示されているのか?

医師として恥ずかしいことだが、私は最近まで、抗がん剤ではがんは治らないことを知らなかった。なんとなく、治ることもあるのではないかと思い、治らないのは手遅れのがんや悪性度の強い場合だろうくらいにしか考えていなかった。
事実はちがう。抗がん剤は、はじめからがんを治す薬ではなく、延命効果を期待するだけのものなのである。一般の人はこの事実をどれくらい知っているのだろうか。

抗がん剤の認可についても、その実態を知れば、たいていの人が愕然とするだろう。厚労省が認可した薬だから、有効性も高いと思ったら大まちがいだ。
少しややこしいが、認可の基準は次のようになっている。
「腫瘍の縮小率が50%以上で、新しい病変の出現が4週間以上ない患者が20%であること」
つまり、がんの大きさが半分になって(がんが消えるのではない)、4週間、新たな転移や再発のない患者が、5人に1人以上であれば、認可されるということである。逆にいえば、5人のうち4人が効かなくてもよいということ。効いた1人も、4週間以後に悪くなってもいいということだ。
これで果して「効く薬」といえるのだろうか。
なぜそんな甘い基準になっているのかというと、やはり製薬会社の圧力が考えられるが、必ずしも製薬会社ばかりが悪いわけではなく、莫大な研究費と時間をかけても、それくらいの薬しか作れないということである。それを認可してもらえないなら、どの製薬会社も新薬の開発をしなくなるだろう。

だれもが知っている、あまりにも有名な病気である「がん」でさえ、こんな調子なのである。それ以外のさまざまな病気においては、さらに、心もとなく思わないだろうか。
なぜ、このような「非科学」的な状況が、医学の分野において、はびこっているのか。
それは、上記の引用の最後で示唆されているように、そもそも、医学の世界であろうと、たんに「資本主義」の世界だから、という、身も蓋もない話にすぎないわけである。
私は、この現象は、「教育」に似ているな、と思った。
ここのところ、桜坂高校における「体罰」が、話題になっているが、桜坂高校の教師が、「体罰」を行ったとき、この教師は、「むしろ、この体罰によって、部長を<みせしめ>にすることで、部活の空気がしまり、生徒たちの取り組む姿勢を、画期的に、改善する」というわけである。つまり、この「教育法の効果は絶大」なんだ、と。
しかし、本当なのか?
このEBMはどうなっているのか?
たんに、その教師の、都合のよい「経験則」にすぎないんじゃないのか?
(そもそも、一人をスケープゴートにして、「いじめ」抜いて、その他の「みんな」で、「うまい汁を吸おう」とか、これを知った、「いじめ」のターゲットにされた親御さんが、どう思うかね。恐しいわ orz)
医療の現場にしても、患者が長く治療をしてくれた方が、「儲かる」し、教師も、たんに、各教科を教える「以上」の、生徒の「取り組む姿勢」までを、スパルタ的に「改善」する教師のパターナリズムを、親たちが求める。
どっちにしろ、医療技術や、教育技術以上の行為によって、

  • 資本主義

的なインセンティブが、医者や教師に発生しているところに、なにか、不純なものを、どうしても感じずにはいられない。
つまりは、医療技術や教育技術という「科学」。つまり、EBMを「超えた」科学などないし、それ「以上」のなにかが「ある」と言い始めるとき、そこには、なんらかの「堕落」した(=非科学的な)慣習がはびこっている、と考えられるのであろう...。