大竹弘二「公開性の根元」

(雑誌に連載途中であるが、現在までのところで、考察してみたい。)
結局のところ、国家って、なぜあるのだろう? 国家は、何がしたいのか?
おそらく、このことは、近代「以前」の国家においては、自明であった。というのは、国家とは「宗教」と区別されていなかったから、である。
その当時は、どんな国家も、ある「宗教」を、国民に強制していた。つまり、その宗教の価値を「実行」することが、国家の「役割」であった。このことは、疑うべくもなく、自明であった。
ところが、ある時期から、国家と宗教は分けられる。その理由は分からないが、そういうことになったのである。
これによって、途端に、分からなくなった。
国家とは、なにをするものなのか?

近代の始まりにあるのは危機の時代である。中世末期から教皇をも巻き込んで繰り広げられたイタリアでの都市国家間の抗争、そして宗教改革の開始に伴ってヨーロッパ全土に拡大した宗教内戦のなかで、宗教や神学は政治を律する力を失っていく。もはや宗教規範に頼ることができなくなった政治は、こうした戦争と政治的混乱を収拾するための新たな統治論理を必要とすることになる。統治はいまや哲学的もしくは道徳的に考案された理想をモデルとするのではなく、危険と無秩序への恐れを出発点とする。したがって、近代政治の母型は秩序や規範ではなく、危機と非常事態である。宗教内戦という秩序の欠落状況のなかから、統治の新たな手段としての国家理性の思想が生まれてくる。それは、神学・宗教すでにその権威を失墜したが、国家主権はいまだ生まれていない時代の産物にほかならないのである。
(「第4回 例外状態と国家理性」)

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ここで、宗教から乖離した国家の目的が、「危険と無秩序への恐れ」といった「消極的」な意味に変わっていることに、注意がいる。こういった「否定」による定義に変わったことで、

  • 国家とは、(国家という)危険で「ない」状態を維持するために、活動するもの
  • 国家とは、(国家という)無秩序で「ない」状態を維持するために、活動するもの

という、(どこかトートロジカルな)「否定」によってしか、その存在をイメージできなくなっていく。
(否定が、どこかトートロジカルになることは、一般的に観察されることのように思われる。そもそも、あらゆる命題は否定を使う必要がないはずである。ところが、「あえて」否定を使う場合というのは、「なにかに対して拒絶の意志を現している」というふうに考えられないだろうか。つまり、具体的なオールタナティブを提示しているわけではなく、自分のなんらかの「意識(他者への脅迫)」を実行すること「自体」を目的としている、と。つまり、否定は、肯定文が「自明」としている事態への「不快感」を自らの「権威」を使って「脅す」ことで、その「状況」への「配慮」を他者に求めている、と。そういう意味では、むしろ「否定」とは、肯定の「強調」に近く、ある意味、肯定以上に肯定しているとも言えるし、いやむしろ、ここまで来ると「何も言っていない」に近い、とさえ言えるのかもしれない。つまり、「たんに相手を脅している」とも言え、実際に、「AはAだろ(怒」といった感じで、「怒っている」のと、あまり、違いはなくなる、と...。)
しかし、そもそもその「状態」とは、「なんのことなのか」。どういう状態のことなのか?
この問題は、数学においては、「排中律」として知られている。肯定文と否定文の、少なくとも、どちらかは「真」である、と言うとき、その命題は、「神」の視点から語られている。
つまり、この場合、肯定文と否定文のどちらかを具体的に例示した、というわけではないのである。つまり、「人間は、まだ、どっちが正しいのかを見つけていない」けれども、きっと神様なら、どっちなのかを知っているだろう、というだけでしかない。
しかし、よく考えてみるなら、そもそも、人間にとって、こんな「論理」は必要であろうか。こういう場合は、「まだ、どっちも例示できていない(具体例を構成できていない)」と言っておけばいいんじゃないのか?
(まあ、こういった「数学」を、「直観主義的数学」などと呼ばれたりもするのだが、一般的にこのフレームがあまり、うるさく言われないのは、つまり、こういった「直観主義的数学」が、「普通の数学」のサブセットとして記述できるので、結局は、「普通の数学」の方でやっとけば、なんとでもなる、って感じだからなんでしょうね...。)
たとえば、数学において、しばしば現れる命題に、

  • 具体的な例は挙げられない「けど」、そういったものが「存在」することは分かっている

という、いわゆる「存在命題」というものがある。しかし、よく考えてみると、なんか変な気がしてこないか。具体的に目の前に例示することができないのに、「ある」ことだけ分かってるって。
ここから、「とにかく、あることが分かってんなら、もう、それが、目の前にあるってことで議論しようぜ」というのが、「選択公理」である。
まさに、「宗教のない国家があることにしようぜ」って感じであろうか。「それ」が具体的に、なんのことなのかは、「だれも知らない」が...。
ところで、上記の引用における、「国家理性」とは、なにを言っているかということなのだが、国家がある非常事態(つまり、上記における「危険と無秩序」)が起きるときに、国家「そのもの」が、法や規範といった、

  • 平常時

におけるルールを「超えて」ふるまう場合に、その行動が、いわゆる「なんでもあり」でいいのか? という問いだと考えられる。
しかし、よく考えてみると、この問いは、奇妙だ。だって、「非常事態」だと言っているから、平常時のルールを「超えて」行動する必要があると言っておきながら、その行動に、「ルール」がいる、と言っているのだから、だったらそれって、非常時ではなく、「平常時」なのではないか、少なくとも、「想定内」的な状態であって、それを「非常事態」と呼ぶべきではないように思われるからだ。
(掲題の論考にもあるように、マイネッケの考察した「国家理性」とは、第一次世界大戦のことであったわけで、著しく、状況論的なものであった、というわけである。)
国家と宗教の分離が進むにつれて、国家統治は、シュミットいわく「技術」に近くなる。その動きは、マキャベリから始まる、とされる。つまり、国家の考える、国民によって起こされる可能性のある「危険と無秩序」の回避、つまり、「非常事態」を回避するために、

  • 常に「非常事態」的に(ルール無視で)、国家が特定の個人の(法的な)権利を犯しても

行動する、という感じであろうか(しかし、その目的が「危険と無秩序」なのだから、そのターゲットとなってしまった「特定の個人」には災難であるが、その他、大勢には、「国家の安泰」によるメリットがある、みたいな話になるのであろうか)。

国家理性であれアルカナであれ、それは宗教規範に代わる新たな指導原理として政治権力者たちに勧められたのである。それは、必要な場合、とりわけ対内的安全の維持のために、法や道徳を侵犯して執行される統治技術である。戦争・内乱・陰謀によってつねに秩序の危機に直面していた近代初期の支配者は、法律や道徳規範に違反せざるを得ないような政治的緊急性に絶えず晒されていたのである。
(同上)
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「キツネ」は、場合によっては欺瞞や背信といった不正な手段をも利用してでも支配を維持する君主の「理想的な」シンボルとなるのである。
(同上)
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つまり、この議論は、どこか、論点がずれている。国家が宗教と乖離していったとき、まっさきに始まった議論が、

  • (宗教道徳から逸脱した)国家による「陰謀」行為

が、国家の目的(「危険と無秩序への恐れ」)に利する「技術」として追及される、ということを意味するにすぎず、「それ」が国家の「役割」のように受け取られると、なにを言っているのか分からない議論となっていく。
つまり、おそらくは、以下のような論理の段階を踏んで、考えられていった、と考えられるのではないか。

  • 最初は、ある個人が、その地域を「支配」しようと、国家建設を目指す。
  • その段階では、その人の意志(価値観)と国家に区別はない。当然、その人がもっている宗教と国家宗教も区別されない。
  • ところが、その人も年老いていき、死んだりして、その「国家」だけが残されると、この組織が、どういった自律的な行動をしていくのかが、よくわからなくなっていく。
  • ところが、だからといって、その国家が衰退してしまうと、その地域にその国家があったがゆえに存在した「秩序」が崩壊してしまうので、いろいろと問題があることが理解されるようになる。
  • ということで、いずれにしろ、国家の崩壊は、いろいろと、面倒なことが多いということが理解されるようになるにしたがって、「なにがなんでも」国家を存続することが「目的」という、「目的なき」存続を目指すようになる。
  • この段階に来ると、宗教と国家の分離が明確になる。すでに、国家創設者のもっていた「宗教」の倫理観に、国家の行動が縛られる理由はない、となる。なぜなら、そんなものに縛られることで、国家が滅んだら、無秩序となり、国民生活に大きな影響を与えるから。
  • しかし、もしそういったことだとすると、そもそも、国家の行動は、ひとつひとつが「なんでそんなことをするのか」が、よくわからなくなっていく。一番いい例が、第一次世界大戦であろう。国家は「よかれ」と思って、戦争を行う。しかし、そう思った国家同士が、泥沼の「戦争状態」を、何十年も続けることで、国民生活はボロボロになっていく。国家がなければ無秩序だと言ったが、今度は「国家存続のために、国民生活の無秩序が要請される」というわけである。

カール・シュミットの言う「独裁」とは、この意味で、本来の、「国家創設者」の意志を、「主体」つまり「主権」とする、「主権国家」以外の国家を認めない、という態度だと言えるだろう。
というのは、上記で私が検討してきたように、そうでなければ、国家がなにかをする、ということが、「実際には、なにをしていることになるのか」が、よくわからなくなるからである。
しかし、それがうまくいかないから、そうなっていないわけで、シュミットの「ジレンマ」は深いわけである。国家が、たんなる「独裁」でない、という場合、近年の流行は、「民主主義」であろう。つまり、国家は、「社会契約」という「物語」によって、人民が主権を「譲渡」している、と考える。しかし、さっきから言っているように、だったら、「何をする」のが国家なのか、という問題に収斂する。
前回、「人の心」なるものが存在するのか、という問題について検討した。それについて、ヒュームは、人の心は、「国家における民主主義」のような形態をしている、と考えた。つまり、人の心における「多主権説」である。人の心の中には、国家における人民のように、多くの「主権」が存在し、それらがそれぞれ、自らの「主張」を心の中でしており、そして(国家においてそうであるように)その中で「採用」されたもの「だけ」が、意識の中から飛び「出て」きて、実際に言葉として発せられる、と。
つまり、このことは何を言っているのか、ということ、ダーウィンにおける進化論が、実際は、当時流行していた社会進化論や経済学から、借用した「アイデア」であったように、人の心も、「むしろ」国家における意志決定を

  • まね

したものだ、と考えられるということである。
では、この場合、「心の存在」の話はどうなるか。なるほど、国家において、「心の中の言葉」は存在する。つまり、行政執行者たちが、お互いで「話している」もの、そのものが、そうであろう。つまり、それらの発言を、国民に向けて「発表していない」段階の、会話のことである。
つまり、この場合、「(国家の)心は存在する」と言っていいことが、分かるであろう。
しかし、ここで問題が発生する。カール・シュミットのように、「独裁」つまり、主権国家を考えるなら、この場合の「心」は、分かりやすいし、別に、外に発表する必要もないであろう。だって、独裁者が「やりたい」ことが、国家の意志そのものなのだから。
問題は、そうでない近代国家の場合である。もし、そういった近代国家における、意志決定機関が、自らの「プライベートな会話」を、人民に公開せず、「国民のためだから」と勝手に、パターナリズムによって、さまざまな意志決定を行ったとき、それは、「国家の意志」と言えるであろうか?
もしかしたら、それはたんに、その行政執行官たちの「個人的な意志」であって、利益相反そのものであるかもしれない。
つまり、国家機関内の、あらゆる「行動」の「公開」を行うのかどうなのかが、必然的に、その国家の「正当性」のアポリアとなる、ということである。
ここで、この問題の「切り口」を、変えて考えてみたい。
つまり、この問題を国家の側からではなく、「個人」の側から考えると、どういうことが言えるのか、ということである。
独裁者が国家統治をする場合、必要なのは、「優秀な統治サポート者」である。つまり、独裁者が「やりたい」ことを、実際に「やれるようにしてくれる」人たちである。
ここで、そういった独裁者をサポートする人というのは、ようするに、独裁者がやりたいことを提言する「知を売る人」であることが分かるであろう。
つまり、「なにかを言う」ことによって、その「情報」によって、人に「利便性」をもたらし、その報酬によって、生きようとする人たち、ということになるであろう。
しかし、問題は「出る杭は打たれる」と言われるように、なにかを言う人は「嫌われる」ということなわけである。なにかを言うということは、今まで常識とされていたことに反対するということですから、今までの既得権益の利益を減らすことになる可能性がある。つまり、いつの時代も、なにかを言う人は、嫌われ者だということになる。
ということは、ある意味、なにも主張しないということは、だれにも恨まれない、ということであり、「安全」だということになるであろう。
しかし、何も言わないということは「不可能」なのですから、つまりは、それは、「嘘」を言う、ということと「同値」であることが分かるであろう。

ところで、大衆向けと賢人向けという二重の語りの思想は、タキトゥスのみを古代の源泉とするわけではない。それは周知のように、支配者が国民に偽りを述べるのはしばしば有益であると説いたプラトンの『国家』にすでに見出せるものであり(三八九B--C)、これは一般に「高貴な嘘」(四一四B)として人口に膾炙することになる。プラトン以来のこのような秘教主義を政治哲学の伝統の核心とみなしたのは、言うまでもなく政治学レオ・シュトラウスである。
(「第5回 偽装と隠蔽のバロック」)

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「嘘」を言うということは、エリートが大衆に嘘を言うことによって、大衆をエリートが考える、ある地点で、引っぱって行ことしている、つまり、大衆「操作」のことを言っていることが分かるであろう。
エリートは、発言することで、お金を貰って生きようとしている人たちですから、なんにせよ、自分たちが話す言葉によって、大衆を自分の思う方向に動かさなければならない。
ということは、どういうことかと言うと、自分が「嫌われない」ように話すということであり、つまり、「大衆に好かれるように振る舞う」ということである。

マキャベリが言いたいのは、君主の力は、彼が大衆の前に現前するイメージのうちにあるということだ。力を持つ者とは、力を持っていると人々から思われている者にほかならない。したがって、君主は自らの見かけにこそもっとも気を使わねばならない。だからこそ『君主論』では、いかに民衆からの尊敬を勝ち取るべきか、あるいは憎まれ軽蔑されることを避けるべきかが語られる(第一九節)。
(同上)
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しかし、ここで、ある「反転」が起きている。エリートの大衆支配は、「嘘」さえ方便であり手段であったはずだが、なぜか、「大衆に正直に見えるように振る舞う」ことが求められる。
でもそれって「正直」ってことなんじゃないですかね?
生涯に渡って、他人から正直に見られるように、日々、振る舞って、年老い死んでいった人々を私たちは「正直な人だった」と言うんじゃないんですかね?
エリートは確かに、大衆を支配するために、「嘘」をつくことも、手段の一つと考える。ここから、そういった「嘘」を見破れない大衆への「軽蔑」が始まる。

これに対し、グイッチャルディーニの『リコルディ』においては、各所で民衆に対する容赦ない侮蔑的発言が見て取れる。「人民のことを語るのは、気が狂ったような獣のことを語るのと同じである。奴らは数限りないあやまちと底ぬけの混乱にみちあふれる」、「人民について語る人は、まさに狂人について語っているのである。彼らは無定見と誤りでみちあふれている化け物だ」、伝々。
(同上)
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例えば、独裁者は「わがまま」である。つまり、そうやってサポートをしてくれる人であっても、ちょっとした「きまぐれ」で、なんか気に入らない、と思ったら、そいつを身近に置いておきたくなる。場合によっては、殺したくて、しょうがなくなる。
というか、むしろ、同じことは、大衆の方にこそ言えるわけである。もし、間違っても、自分が「知」を売るということで、発言した内容が、大衆の怒りをかえば、いつか恨まれて悲劇的結果にならないとも限らない。そして、大衆は「たくさんいる」わけである。確率的に、一人ぐらい、狂った人が中にいて、自分が被害にあうかもしれない。
エリートが大衆を嘲笑するのは、自分の売っている「知」が、とても大衆には理解ができないような、「価値」のある「商品」であることを「差別化」するための「ブラフ」だと言えるであろう。つまり、エリートが大衆を嘲笑するのは、他意はないわけである。自分を高く売りたいがために、大衆を貶めている、ということを意味しているにすぎない。
しかし、他方において、自分がこういう発言をすることで、大衆のごく一部にであろうと恨まれると、「やっかい」というわけである。
こうして、エリートにとっての大衆への対応は、次のように整理できる。

  • エリートは君主へ「知を売る」ため、話すことをやめることができない
  • エリートは君主に対して自らの優秀さを大衆と差別化をするために大衆を侮蔑しないわけにはいかない
  • エリートは大衆に嘘をつく手段を駆使してでも、大衆から「信頼」されなければならない
  • エリートは自分が話したことを大衆に聞かれることで、大衆に恨まれることを「恐怖」している

のこの四つが複雑にからみあって、進行する。
しかし、どうであろう、このアポリア。ということで、まずは、それぞれ、その対抗策を考えてみようではないか。

  • まず、「知を売る」ことをやめよう。そうすれば、「知が売れなくても食べていける」ようになって、こんなことで悩まなくてすむ。
  • 「知を売る」ことをやめたんだから、国家に自分が優秀なんて思われなくてもいいのだから、こんなことで悩まなくてすむ。
  • 国家からの評価を気にしないで生きられるのだから、大衆からの「信頼」などどうでもよくなるだけでなく、そもそも大衆に知られる必要すらないのだから、そもそも嘘なんて不要。
  • わざわざ話す必要がなくなったので、この悩み自体が不要。

大変に結構なことに思われるが、実際の社会は、このようには進んでいない。ということで、その状況が何を意味しているのかを、パラフレーズしてみよう。

  • テクノロジーの進歩によって、大衆は多くの娯楽のツールを手に入れたことで、相対的に大衆はエリートに興味がなくなった。つまり、エリートが国王にいろいろ話しても、大衆は無関心。
  • エリートがいくら大衆と自分は違うと言っても、大衆はエリートと国王のやりとりに興味がないので、たんにシカトで終わり。
  • エリートは大衆に興味をもたれていないため、なにを言っても反応がないのだから、嘘をわざわざ言うプライオリティが、そもそも見つからない
  • 大衆がエリートに興味がないのだから、「恐怖」って被害妄想もいいところ。そんな注目してもらえると思っているのが、キモオタ。

アメリカにおける社会的関係資本の名著である『孤独なボウリング』という本があるが、ようするに、アメリカにおいて、昔に比べて、今の人たちは、人付き合いに積極的でない、ということなのである。
じゃあ、なんでそうなったのか、ということだが、まあ、テクノロジーの発展によって、便利になった、ということですわね。わざわざ、近所の人たちで、「つるまなくても」、たいていのことは、自分一人でできるようになった。ロボットが自分に代わって、仕事をしてくれる。
じゃあ、私たちは何もしなくなったのかというと、そんなことはない。大量の文字をキーボードで毎日打つようになった。これも、テクノロジーの発展によって、多くの「暇」な時間が生まれたから、やれるわけである。
つまり、暇になることによって、「別の忙しさ」を生きている。
わざわざ、中間集団を作って、秘密結社のような儀式をやらなくなったといっても、今度は、SNSで、秘密結社のような会話を毎日、文字ベースで繰り返すようになったりして。
こうして、人付き合いのような、年中集団行動行事のような、人類が累々と営んできた所作をやらなくなって、毎日ゴロゴロすることが可能になって、実際にそうしているんだけど、それも、毎日、朝から晩まで、キーボードに文字ばっかり書いていて、手や肩が疲れているんで、ゴロゴロしていないと、やってられないからで、しかも、文明の利器で、ゴロゴロしてても、スマホをゴロゴロいじってやがるわけで、そりゃ、スマホのない時代以上に、今の世代は疲れているよな、っというわけだ。
こんなに大衆が「疲れている」というわけでは、国家も、

  • 国民の無関心

なわけで、ようするに、近代国家の「アポリア」は、国民の国家への「無関心」によって、

  • 支えられている

ということなんでしょうねえ...(言論の自由は、国民の無関心によって担保されている、ってわけですかね orz)。