都築響一『ヒップホップの詩人たち』

ユーチューブなどで、二次創作の作品を見ていると、一体これを作っている人はどんな人なのだろうか、と思うことがある。多くは、アニメなどの場面をコピペでパッチワーク的につなげていくようなものであるが、細かい説明的な文章を画面に表示するところが、こっていたり、変なところにこだわっているんだな、みたいな。
実際、まあ、確実にこういったところにあるものは、「匿名」だ。しかし、一部の人には有名な人なのかもしれない。よく分からないが、一つだけ間違いないことは、日本のどこかに、この作品を作っている人がいる、ということである。
インターネットの普及によって、こういった電子ファイルコンテンツは、あっという間に、世界中に「公開」される。もちろん、公開されたからといって、それらが視聴されるかどうかは別だが。
このドラスティックな変化は、おそらく、商業音楽の分野において、最も過激に激変が起きているのではないだろうか。
インターネットが普及する前まで、こういった個人的に音楽制作を行っていた人たちは、いわゆる「メジャーデビュー」をしない限り、ほとんど「全国」的な知名度を得ることはなかった。
ところが、である。
ユーチューブなどのサイトに、ポンって置いてしまえば、どんな地方の片田舎で、しこしこやってた作品でも、たちまちにして、全国的な「パブリックネス」を獲得する。

いまはどうだろう。自分で録音したデータを、自分でCDにプレスするか、ネットに乗せて、ダウンロード販売すればいい。webサイトや Facebook など、さまざまなチャンネルでファンと直接コンタクトしあい、セールスを拡げていけばいい。テレビに出られなくても YouTube があるし、自分でストリーミング放送してしまえばいいだけのこと。そこでは既存のレコード会社も、芸能プロダクションも、CDの流通網すら不要になる。

掲題の本は、タイトルから分かるように、15人のヒップホップ・アーティストへのインタビューから構成されている。そこには、こういった、いわゆる、ラッパーたちの作品(リリック)と共に、彼らの読者に向けた、たんたんとした「語らい」が、オーバラップして、並べられることで、ある種の、リアリティであり、緊張感を読むものに与える。
しかし、この本には、明確なコンセプトが一つある。

地方出身、ではなく地方に生まれ育ち、そこに住みつづけながら活動しているアーティストたち。

この15人は、たしかに、ばらばらな、なんの関連もない、それぞれの思うヒップホップを実践しているだけの関係であるが、ある一つの点において、強烈な「同一性」を示している。
つまり、都会に上京して活動していない、ということである。田舎であり、郊外であり、そういった「生まれ育った場所」にこだわり、

  • たんにそこを離れない

スタイルを一貫させている。ここで重要なのは、彼らが、

  • 都会進出「でない」
  • アーティスト活動

の、この二つを両立させることを可能としていることに、大きく「インターネット」が関係している、ということである。
ヒップホップというスタイルが、アメリカの黒人たちの「音楽」というアイデンティティがあるように、こういった音楽には、どこか、黒人たちの強烈な被差別感情が伝わってくる。現在においても、さまざまな形で差別されながら生きているアメリカの黒人たちの、どうしようもない「叫び」が、このような独特の「不協和音」を生み出しているのであろう。
こういったスタイルに、まっさきに「共感」する人々として、この15人の半分近くは、いわゆる「学校的おちこぼれ」つまり「ワル」と、地元で呼ばれたような人たちなのであろう。
しかし、掲題の本を読む限り、彼らは、その人当人に注目するなら、傷つきやすい、ナイーブな少年たち、という印象を受ける。しかし、家庭環境で、親がいつもケンカしてたり、学校に行かなくなったり、街でケンカしたり、そういった環境に、自らが入っていくことで、例えば、学校から退学を迫られ退学したり、傷害事件を起こして、警察や少年院にお世話になることで、

  • 非常にショックを受けている

印象を強く感じさせられる。つまり、なんだかんだ言って、まだ、彼らは「若い」のだ。そんな、子供の頃に、こういった「社会」の、自分ではどうやっても抗えない壁にぶちあたり、学校の先生に捨てられたように思い、警察にお世話になり、なにか社会からドロップアウトしたように受け止め、

  • 非常に傷ついている

印象を受ける。そう考えると、私には、なにか違うんじゃないか、という印象をどこかで受けなくはない。なんだかんだ言っても、彼らは、まだ「子供」だったんじゃないのか。もう少し、この社会は、そういう人たちに、包容力をもって、接することはできなかったのか。なんとか、しんぼう強く、学校を卒業することを応援できなかったのか。簡単に、警察沙汰や少年院に入れるんじゃなくて、もう少し違った「更正」を目指せなかったのだろうか。
ヒップホップの人たちのファッションは、どこか、ぶっきらぼうだ。金属ものを体に付けていたりもするが、全体的には、黒っぽい服が多かったり、質素な印象を受ける。
彼らのリリックは、どこか、サミュエル・ベケットの『モロイ』を思わせるような、「極私的」な、印象を受ける。そしてそれは、

  • フラッシュバック

を想起させるような、詩の一行一行が、なにか過去の「体験」を目の前にイメージしているかのように、次々とイメージが、連続していく。彼らは、そういった過去の「苦しみ」と今を、

  • 共存

している。彼らには、抽象的な思考が「それそのもの」として独立しない。抽象は、そういった「フラッシュバック」と「目の前の光景」と、それらを混然として受け取る「日常」と切り離しては、存在しないのである。
彼らのリリックは、徹底して「ストイック」である。それは、いわゆる、テレビドラマやアニメのような「幸せ」をコードとして、やりとりするような、「共感ゲーム」と決定的に離れている。
日本のアニメやテレビドラマのパノラマ写真には、「幸せそう」な笑顔をしたみんなが、集合写真として写し出される。しかし、そういった、日本のマジョリティの家族や学校友達から「ドロップアウト」した彼らには、そういった彼らが無意識にやりとりする

  • 幸せ前提

を「共有」しない。彼らは、そういった「無邪気な」差別に、耐えられず、自然とそういった物語から、離れていく。
(こういった姿は、子供の頃、目が視えなかった、エリック・ホッファーが、生涯に渡って、本の挿絵さえ嫌うほどに偶像崇拝的なものを忌避したのと似ているように思われる。)
彼らの生み出すヒップホップの「音(おと)」は、どこか、ノイズのようにも聞こえる。それは、いわゆる「幸せそう」な笑顔をしているパノラマ写真の中のマジョリティが嫌う音であるがゆえに、彼らには、親近感がわくのであろう。しかし、その彼らの「音」も、いつもそういった、ノイズであり攻撃的なものであるわけではない。
リズム。
私たちは「日常」を生きる。いらだつとき。怒りに震えるとき。悲しみの洪水に溺れるとき。しかし、そういった波も、やがては、おさまり、静かな静寂が訪れる。彼らもただの人間なのだ。そういった「波」を繰り返す...。

誰とも交差しない部屋の中
暗いまま夕方を迎えた。
また現実の厳しさばかり教えられて
いつまでもここに居ていいって言ってくれよ
何時の間にか冷えきった馬鹿には
教師、フリーダイヤルも締め切った優しさ
過剰する自意識 ほら嫌われ者
夢をくれるなら才能をくれよ
顔隠して叫ぶ逃亡者
自分を生きる為に逃げた逃亡者
逃げる者には孤独しかない
孤独の先には孤独しかない
ドアを音を立てて思いきって締めた
顔を隠すと少し落ち着いた
嫌味を言われて、冷たい目で見られて
同情はやめてくれよ こんなにプライドがある
優しくされても遮ったくせに
逃げても追い続けて欲しがる
本当に痛い所を言わないくせに
わかって貰えないって、一人で泣く
必死で愛してくれる母親を泣かして
色んな夢を抱いた父親を困らして
俺でごめんなって、泣かす度にまた泣いた
壁を殴って
溢れてまた叫んで
でも
i love me
i love me
i love me
i love me
誰も頑張ってるって認めてくれない
自分なりにやる事をやってたよな
誰にも言えないデカい夢を持ってた
死んだ目の振りするな、生きたかった目だろ
甘いって何?あんたみたいに働けないよ
どうしたらいい?どうすればいい?
泣きそうになるなら誰にも謝るな
お前はお前でいいよ
孤独だって自分で孤独にしたんだろ
掻くと腫れる、掻くと暖かくなる
大事な物を思いっきり壊した後
泣きながら母親と直した
人、クソ喰らえって言って人恋しくて
晴れの日は外に出たくなってイライラした
期待に応えたいけど、もう無理なんだろう
信じられた時に泣きそうになっただろう
i love me
i love me
i love me
i love me
他人に愛されたい 他人を愛したい
でも暗くて投げやりなこんな馬鹿だから
諦らめず居てくれてわかろうとしてくれて
そうやって愛されてやっと愛せました
そんなに苦しむな そんなに泣くな
毎日叫ぶな そんなに拗ねるな
お前が思い描くあそこまで行けよ
今はこんなに温かい
ほら、
ここまで生きろよ
i love you
i love you
i love you
i love you
(「I LOVE ME」『一人宇宙 -- 起源 FREESTYLE --』)

(チプルソ「本当に痛い所を言わないくせに わかって貰えないって、一人で泣く」)

彼ら「田園詩人」たちの姿には、どこか、「プライド」のようなものを感じる。そこには、いわゆる、「都会に挑戦して成功してやる」というのとは違う。自らの「その土地」と共にあった「アイデンティティ」を捨てて、都会の

  • スタイル

で、「競争」しようという気負った印象を彼らには感じない。彼らの子供の頃の「日常」。その延長に

  • 連続

して彼らの今がある。そして、それは、これからも続くのであろう。彼らは、彼らの住む場所であった、田舎や郊外で子供の頃に感じた直観を捨てることなく、それとの連続を生きる。彼らが今感じていることは、子供の頃感じたことであり、その二つが切れて存在しない。彼らが子供の頃、そうであったことは、彼らが今

  • ここにいる

ことを証明する。その二つは区別できないのだ...。

ヒップホップの詩人たち

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