島薗進『つくられた放射線「安全」論』

戦後の日本のガバナンスがアメリカの「占領」政策から始まったことには、日本における、さまざまなシステムの「正統性」が曖昧に「存在」していることを結果しているように思われ、また、そのことに、日本の多くの知識人が無自覚であることが、この日本の特徴なのではないのか、ということを思わなくはない。
つまり、日本の多くの国民が民主主義とは何なのかを理解していない、ということになるのであろう。
例えば、311における、福島第一の事故以降、国民の注目の最前線に「科学者」がひきづり出された。おそらく、日本の戦後の歴史において、このように「科学者」が、国民の面前にひきづりだされて、「政治的発言」を「させられ」、それに国民が注目したことは、今回が始めてなのではないか。
つまり、始めて、日本政治において、「科学者」が、「民主主義」の一人のメンバーとして現前化したのだと思うわけである。
なぜ、科学者が、今回注目されたのかは、つまりは、福島第一原子力発電の発電原料から生まれる放射性物質から発せられる放射線の「物理的性質」が、あまりに自然科学の専門的知識であるために、そもそも「判断」するための知識を「科学者」以外に持っていない、という事情があったから、であろう(逆に言えば、放射性物質の特徴として、かなりの割合において「測定」可能であるところ、と言えるであろう)。
つまり、ここに大きな特徴があるように思われる。「科学者」は、別に、自分から進んで発言したくて、大衆の面前にひきづり出されたわけではないのである。その科学的知識を知っているのが、たまたま、専門家(=研究者)しかいないから、嫌でも話させられたわけであろう。そこに、どこか専門家自身が「被害者意識」を持っているように聞こえてくる。「言わされている」ということに、不快な感情をもっているように思われる。
興味深いのは、科学者たちは自分が話していることが、純粋に、自然科学における「知識」であり、「真偽」の問題だと考えている、ということであろう。だから、その「振る舞い」は、彼らが、学会でやっていること、ということになる。ところが、ここで彼らが「話させられている」のは、そういった「場所」ではないわけである。つまりここは、民主主義的な

  • アリーナ(=闘技場)

であることを分かっていない。彼らが話しているのを聞いていると、まるで、義務教育における、成績優秀者と成績劣等者の「クラス分け」の場面であるかのように聞こえる。相手の専門的無知を論難することは、例えば、学会のようなところでは「普通」のことであったとしても、ひとたび、

  • 民主主義的アリーナ

に舞台が移れば、そういった「無知」から導かれた結論によって「も」、普通に正統性が生まれる。そのことを分かっていない(しまいには、「愚民社会」とか言って、一人超越ぶっている)。つまり、ここが「政治的カテゴリー」の問題であることが、理解されていない。
つまり、日本の科学者は、カントの純粋理性批判までは、SFとも関係していて、興味深く読むんですけど、そこで終わっちゃって、実践理性批判を経て、

を読まないんですよね。今、自分が話しているのは、どういったフレームでありコンテクスト(=判断)なのか。それは、自然科学の「真偽」についてのコンテクストなのか、それとも、道徳のコンテクストなのか、それとも、芸術のコンテクストなのか、また、(上記であれば)政治のコンテクストなのか。
ある、一般の人に、「不快感」を与える「芸術作品」があったときに、この作品を「道徳的」に批判することに道理はあるのか。また、医者が自分の子供を手術することは、科学的には、自分の子供と他人の子供になんの違いもあるわけもないわけで、区別もないはずなのに、一般には、自分の子供の手術を避けられていることに道理はあるのか。
つまり、カントの判断力批判が言ったことは、こういった、各コンテクストに対して(ある種の)現象学的還元(カッコ入れ)が、必須であるだけでなく、不可避であり、

  • それによって

近代科学であり、近代合理主義の、「分野の細分化」が成立している、つまり、むしろ答は逆なのである。近代とは、こういった「分野分け」によって、

  • 成立した

のであって、「それ」が近代の「定義」だということなのである(いい悪いは別にして)。
おそらく、「科学者」は、政治家を「馬鹿」にしている。というか、科学者は同じ科学者を「馬鹿」にしている。それは、「優秀」な科学者と「そうでない」科学者がいる、という

  • アリーナ(=闘技場)

を彼らが生きているからであるが、その状況を、第三者の目から見るなら、そもそも、そういった科学者間の「差別」化には、まったく、意味がない。当の本人は、学会からほされるとか、研究者のポストを得られるかとか、死活問題かもしれないが、そもそも、第三者にしてみれば、それぞれの科学者の「全体の活動」によって生み出される「結果」にこそ、この社会の利益があるので、つまりは、「中がどうなっていてもどうでもいい」わけである。
三者からしてみれば、ある自称科学者がメチャクチャなことを言っていても、それに刺激をされて、別の科学者が、有益な研究を残してくれればいいし、その自称科学者にしても、生涯のほとんどをメチャクチャなことをやって終わったとしても、ある一つだけでも、決定的に重要な成果を残して、それが後世に大きな影響を与えたなら、その第三者から見れば、ありがたいと思うかもしれない。
例えば、こんなことを考えてみよう。
社会は合理的であるべきなのだろうか。
というか、「合理的でなければいけない」という主張は、「論理的」であろうか。
近代経済学、つまり、マネタリズムは、いわばこの、合理主義を追及している、と言えるのであろう。日本の経済活動が「非合理」であると、他国との「競争」に負け、日本の「国力」を衰えさせることになる。だから、経済的に「効率的」な他国と競争のできるシステムにしよう、と目指される。すると、企業はより従業員を解雇しやすいようにしよう、と。そうすることで、不況のときは、人件費を減らし、好景気になったら、また、新しい儲かりそうな事業が思いついたら、人を集めて、「その時だけ」経済活動をしよう、と。また、最低賃金を撤廃しようとか、福利厚生を撤廃しよう、とか、ようするに、労働者がイギリスの産業革命の頃から、勝ち取ってきた、

  • 権利

を手放せ、という方向に向かう。つまり、ここが経済合理的という意味で、「希少」性のある専門職や「ゼネラリスト」と呼ばれるような、その企業「固有」の何かを紐付けされる人は、多少給料が高くても「手放さない」という方向に向かうが、

  • その他全て

の労働は、単純に、労働市場に大量にあふれている労働者で競争させて、まさに、「オークション」のように、給料をダンピングしていく。
では、この場合、上記で問題になった、イギリスの産業革命における、労働者の労働環境の問題は「どこ」に行ったのか、というと、つまりは、

  • 国家におまかせ

した、ということであろう。つまり、個人が貧乏になったら、政府が福祉を与える。これは、ある種の、

なのである。しかし、言うまでもなく、国民の経済活動を最優先するということは、税金を集めない、ということですから、当然、国民に与える福祉は、その税金の額に「制限」されている。つまり、最初から「上限」のある話であることが、ここで決定されている。
経済的に「成功」した人の資産は、上限なく、どこまでも増える一方、

  • 99%

の人は、国家の福祉の「上限」によって、「等しく」貧しくなる。そう考えると、国家を「貧しく」することは、この「福祉の額」を最小化することに成功するわけで、

  • 経済的に合理的

ということになるであろう。ということは、どういうことか。むしろ、国家の弱体化が、イギリスの産業革命以前の「奴隷」制に近い

  • 労働環境

を、「自然」に生み出していくことになるわけである。
このように考えてきたとき、経済合理的で「なければならない」というのは一つの道徳判断だと考えられる。つまりそれは、

  • 価値

の問題だということで、一見すると、最近の経済学は軽量経済学と呼ばれるように、「理系」のように思われるが、こういった意味では、むしろ「政治学」だと考えるべきなのであろう。
一般的に経済合理的であることを目指そう、とすることに合意できたとしても、そりゃあ、困っている人がいれば、その人に多めに福祉を与えたっていいわけである。それが、裁量行政というもので、つまりは、「なんとなく」それらが、

  • バランス

されていれば、どっちにしろ、国家はそれで成り立つわけですから、つまり、「政治」には、政治の独特の

  • ロジック

のようなものがあって、「経済合理性」とか「科学的真理」と「等値ではない」ということなんですね。
例えば、一見すると、科学的にまったく意味のないことを国家が、大金を出して行っていたとして、それは「問題」なのだろうか?
このことは、例えば、BSEの全頭検査が、「無意味」というより、「そのリスクに対して、あまりにも大金をかけてやりすぎなんじゃないのか」という「科学的合理性」からの批判が当時もあった。
しかし、ここで、こういった主張をする科学者が分かっていないのは、現代が、

  • 無関心社会

である、ということなのである。つまり、別に、牛肉の全頭検査を業者が「やったって」、大衆は、そんなこと、どっちだって、自分たちが毎日を生きるのに影響がない。つまり、そんなことを「理由」に

  • 他者を強制しなければならないなんて思わない

のだから、つまりは、
他人に「無関心」
なのである。
そうなると、こういった政策は、特定の利害当事者たちの都合で決まっていく。外国の安い牛肉が入ってくるのを嫌がる日本の畜産農家は、むしろ、全頭検査を「歓迎」する、ことになる。
例えば、福島で生産される農産物が、「ほんのちょっと」の放射性物質を含んでいるからといって、廃棄処分にされているとしたら、科学者視点からは「非合理」と言いたくもなるであろう。また、「お金のない人は、むしろ、そういったものを安く買えることの方が、多少リスクがあったところで、栄養をとれて、ありがたいんじゃないのか」という「価値」を考えるわけである。
むしろ、そういった福島の農産物を、国民全員が「忌避しなければ」、今までと同じような値段で福島の農産物が売れて、福島の農家は生計が成り立ってくるであろう。そう考えるなら、

  • 総合的に判断して

国家は国民に、「ほんのちょっとだったとしても」福島の農産物にはリスクがあるなんていう、「風評被害=嘘」であり「デマ=嘘」を言ってはならない、と強制したくなるわけである。だって、科学者は

  • 無知な国民にかわって

福島の農産物の「リスク」と、これを買う国民の「裕福度」を秤にかけて、「評価」してやったんだから、むしろ、国民を「騙してでも」、彼らに「嘘」を信じさせてあげた方が、彼らの幸せなんだ、と考えたくなるのであろう(これがパターナリズムである)。
たとえば、どうせ晩発性の障害なら、寿命で老衰で「死ぬ直前」に、その症状があらわれてくれれば、

  • その人の人生には影響を与えなかった

と評価できる、ということになるんじゃないのか、ということであろう(これが、中西準子のリスク論である)。そうやって、さまざまな「リスク」を「比較」して「あげて」、できるだけ、リスクの高いものを優先的に解決して「あげた」方が、国民の幸せなんじゃないのか、と。
しかし、これも一種の「科学的合理主義」であろう。
私たち国民が、むしろ、311以前の原発をめぐって国民向けに行われてきた、「原発安全神話」によって、国民の全員が「国家や東電や御用学者に騙された」ことの

  • 信頼

が失われたことを「重視」する人であれば(科学者のような、えらい、「かっこいい」、自分がなりたいと思っていたような人によっ、そうやって簡単に国民が騙されたことが、裏切られたことが、何よりも許せない、
不快
なことと思っているのであれば)、むしろ、いったん原発をリセットすることの方が、国民の精神衛生上もいいことなのかもしれない、とは思わないだろうか(たとえ、原発を動かすことが科学的には合理的に思われたとしても、である)。それでも必要だと後世の世代が考えるなら、彼らがまた検討すればいい、と。
たとえば、以下のような発言が、政府の中枢から「内部告発」的にあらわれたときに、科学者たちは、どこまで「真剣」に、このことの

  • 政治的な意味

を考えたのかは、はなはだ疑問なわけですね。

序章でも述べたように、四月二九日には、内閣官房参与の小佐古敏荘氏が「年間二〇mSv近い被ばくをする人は、約八万四千人の原子力発電所放射線業務従事者でも、極めて少ないのです。この数値を乳児、幼児、小学生に求めることは、学問上の見地からのみならず、私のヒューマニズムからしても受け入れがたいものです」と述べて辞任した。

そのことは、科学コミュニティの「中の人」たちで、ずっと続いているように思われる。ある学者が「同じ学者」をボロクソに言う。しかし、それを見ている「外の人」であるパンピーは、むしろ、

  • 専門家でも意見が分かれるくらいに微妙な話なんだな

と「普通」に受け取るわけである。そうすると、ますます、このボロクソに言っていた側は、その「風評被害=嘘」や「デマ=嘘」が

  • 諸悪の根源

に見えてくる。福島の人の「安心を脅かすことを言っている」と、勝手に、判断して、自分の価値観で、人の「言論の自由」を

  • 道徳

で非難をしていく。こういった連中が、「デマ=嘘」を言わなければ、福島の農産物がもっと売れて、福島の農家は助かる、と。
しかし、そうであろうか。
というのは、現代というこの

  • 無関心社会

において、人々は「あらゆること」に興味がない。だから、福島の農産物が「本当」はどうかに関わらず、「なんとなく」で、買わなかったりする。まあ、買ったりもするが、いずれにしろ、そんな感じだから、売る側が、値段に差をつけたり、産地偽装するなりして、なんとかやりくりをしようとする。
しかし、このことは、この「無関心社会」において「ブランド」とはなにか、をよくあらわしている。つまり、むしろ逆なのだ。国家が福島産の農産物を「規制」することは、逆に、この規制を「通過」した福島産「でない」商品の

  • ブランド効果

を目指している、とも言えるわけである。福島産「でない」と言うと、「なんとなく」で、高くても「しょうがない」と買う人が現れる。
もし「風評被害=嘘」や「デマ=嘘」が問題であるというのであれば、「言論の自由」を超えて、それらを「刑事事件」化していくことを目指すべきであろう。
同様に、もし、福島の農業を守りたいのであれば、国民に強制的に福島の農産物を買わせる、原材料として使って加工品を作らせることを、法的に強制することを目指すべきであろう。
風評被害=嘘」や「デマ=嘘」や他人の福島の農産物を買うことを「なんとなく」忌避している行動を「やめさせたい」ということから、そういった行動を人々がとる「原因」である、

  • どれくらいの「危険」度か

を考え発言し議論する行為を、「不安をあおる」行為と呼び、

  • 道徳的に非難をする

ことで、「原因について考えよう」という

  • 科学的姿勢

を抑圧していくことになる。つまり、

  • タブー

の始まりである。つまりここには、

として、科学的合理性に反していると優れた科学者が考えているなら、なにかをタブーにすることは許される、という「価値判断」が入ってきている、ということになるであろう。
(つまり、道徳的に非難してタブーにさせようとするんじゃなくて、刑事事件化できるように、法改正を目指すべきなのだ。そして、もし法改正を目指す行為が不要だと考えているなら、これをタブーとすることも不要なのであって、この二つは分けられない、ということである。)
原発安全神話」とは、利害当事者たちに、

  • 原発が国民に忌避されるという東電にとって被害の)「風評被害=嘘」
  • (東電から言わせればその「危険」は科学的に証明されていないという)「デマ=嘘」

と言われて、「不安をあおる」行為だから、

  • 禁止

されていたがゆえに生まれた、「タブー発言」だったことを忘れて、今度は、低線量放射線被曝の影響を考えることを、タブー化しようとする姿は、どこか「いつか来た道」のように思われる。
議論の内容にレベルの差はあれ、そういう人は「言論の自由」ということをどのように考えているのか、ということになるであろう。
在特会のデモで、「朝鮮人への差別」を平気で口にする人があらわれたとして、2チャンネルで、明らかな差別発言があるとして、それをどういった「根拠」によって、刑事事件として裁くことを目指すのかは、具体的な「法的手続き」の問題になるのであって、そういった行為を道徳的に非難することで、

  • タブー

にしていこう、ということとは違う。「言論の自由」とは、発言する主体を社会的な道徳的非難により、コミュニティから「迫害」し、「タブー」化し、そのコミュニティの言説を純粋培養的に「健全化」することではなく、

  • ある発言をするならば、それに対応して「法的制裁」になることを辞さない

という「覚悟」と関係して生まれるという形で、「言論の自由」に関係している、ということになるのであろう。

このシンポジウムの課題について主催者である哲学委員会の野家委員長は次のように述べている。

レベル7にまで達した過酷事故に際して、日本の科学者や学会は、果たして迅速かつ適切な判断を行なったのか、また被災地域に対して十分な情報発信がなされてきたのかどうか。あるいは原発災害のリスクに対する十全な事前評価と安全対策はとられてきたのかどうか。ことは科学者の社会的責任に関わっており、現在われわれが直面しているのは、国民からの科学と科学者に対する「信頼の危機」という事態にほかならない。
現代の巨大化した科学・技術においては、科学によって問うことはできるが科学だけでは答えることのできない問題群、すなわち「トランス・サイエンス」の領域が増大している。そこでは、事実認識と価値判断が交錯しており、政治・経済的考察や倫理的配慮を欠かすわけにはいかない。それゆえ、「科学と科学を超えるもの」の関係を適切に認識し、領域横断的コミュニケーションを促進することは、言論活動を基礎とする人文・社会科学者の責務でもある。(九ページ)

この点では、「放射線の健康への影響と防護分科会」はまったくの失敗だったと言わなくてはならないだろう。放射線の健康影響の専門家たちには、「トランス・サイエンス」とか領域横断的コミュニケーションといった問題意識がまったく欠けていたことが大きな理由と言わなくてならない。

ここで指摘されている「トランス・サイエンス」も、上記で私がカントの判断力批判を通して見てきたような状況を示唆していように思われる。
低線量被曝の話は、晩発性であり、蓋然的な現象であるだけに、どうしても人それぞれの「価値観」と分けて考えることができない。

  • 政策として他に優先すべきことがあるんじゃないのか?
  • 「豊か」に生きることを優先するなら、これくらいのことを気にしてもしょうがないんじゃないのか?

どうしても、こういった議論になりやすい。しかし、それを福島に実際に住んでいる当事者の方と、東京に住んで、その被害に実際に悩んでいない人では、その議論の「深刻」さを比べられない。
つまり、この場合の「政治的合意形成」とはなんなのか、ということなのである。
今だにネット上で繰り広げられている、安全厨と危険厨の論争の「混乱」は、なにか「今さら」感がすごくする。つまり、こんなことは、低線量被曝の性質を考えるなら、

  • 事故が起きる前から予想できた

ことであろう。実際、京大の小出さんは、一度事故が起きれば必ず、こういった「混乱」になる「から」、原発に反対という面もある、と言っていたくらいなわけであろう。
身も蓋もないことであるが、民主主義とは多数決であり、日本中には「いろいろな意見の人」がいるのであるから、その政策決定が、ある種の

  • 合理主義

的な判断からは「愚民」たちの決定にしか思われないことが、「たくさん」起きる。しかし、だからといって、この日本だって、とりあえず、戦後体制の転覆もせずに続いているわけで、つまりは、なんでも「バランス」だということになるであろう。愚者の愚行が、たとえ、繰り返されようと「一定の秩序」が存続する「条件」とはなんなのか。これが政治学の永遠の課題なわけで、それは必ずしもエリートが考える理想社会と同値ではない、ということである...。