水野和夫『資本主義という謎』

大澤真幸との対談。)
もし、ある人が、自給自足の生活をしていたとき、その人にとって、「不安」とは、なんのことだと思うだろうか? もしも、本当に自活が「できている」なら、そういう人が「不安」とは、逆に、意味が分からないのではないだろうか?
これは、一種の逆説である。ある、旧石器時代縄文人がいたとして、その人は、一切の食糧を木の実や、狩りで得ていた、とする。確かに、この人は、一人で生きているわけだから、動物に襲われて死ぬかもしれない。病気になって死ぬかもしれない。しかし、逆に言えば、

  • 他人の「行動」に「依存」していない

わけである。つまり、「不安」とは、むしろ、

  • 他人が自分の「予期」の通りに「動かない」のではないか?

という方にあるのであって、そういった

  • 他人に依存する生

のことを言っているように思われて、しょうがないわけである。
(むしろ、彼らにとってみれば、動物に襲われるとか、病気になるとかいうのは、たとえ、そういう場面になったとしても、ギリギリまで「抵抗」するわけであり、そうやって人類が生き延びてきたのだから、

  • ある程度の割合

で、この抵抗によって、人類は、それなりの年齢までは生きたのだから、それは「恐怖」であっても「不安」ではない、のではないか、ということである。)
ところが、近代になり、この社会は、完全な分業社会となった。それによって、自分のことを自分だけでは賄(まかな)えなくなる。自分がなにかをするたびに、常に、「他人の行為」を介在させずには、自らの行動を「完成」させられないのである。
同じようなことは、贈与に対しても思わなくはない。

大澤 「いくら何でもこれからの水野さんとの付き合いもあるし、ここで一円とか言って『ケチなやつだ』と思われるのもイヤだし』とかね。あるいは未知の人間どうしで、今後二度と会わないとしても、そこでいきなり「何だ、あいつ? やなやつだ、ケチなやつだ」とか思われるのもイヤだから、人少し気にするわけですね。だから、半額に近い多めに提案することになるのです。ここまでなら、ぼくたちでも十分想像がつくんだけど、実は想像をはるかに超える行動に出る場合もある。
普通は、五〇〇円より多くの金額が提案されることはないだろう、と思うでしょう。ところがそんなことはないのです。これはスピアマン教授だったら絶対気がつかない行動パターンですが、八〇〇円とか九〇〇円、場合によっては一〇〇〇円全部渡しますと提案する人たちがいる。文化によっては、そういう信じられない金額を提案する人がたくさんいる。相手としては「やった!」という感じでしょう。ところが、一方がそういう提案をするというだけでも不思議なのに、あろうことか相手も断るんですよ。「いや、けっこうです」と。考えてみれば、これはとてつもなく経済的に非合理な行動です。
いわゆる「未開社会」の人たちにこういう行動がしばしば見られるのです。互酬的な贈与がドミナントな社会では、そういう行動のほうが一般的ですらある。どうしてかおわかりになるでしょう。このゲームが、小さなポトラッチになってしまっているのです。両者は、気前のよさを競い合っている。

安冨歩さんの言う「東大話法」とは、つまりは、「立場」主義のことであった。この場合、「立場」とは、「ルール」に近い。
例えば、入学試験のペーパーテストでは、「あるルール」を前提にして、行われる。必ず、正解があるし、そのルールに従ってさえいれば、ちゃんと、点数をもらえる。「態度が気に入らないから、点数をやらない」とか、そういうことはない。
しかし、人間関係には、「ルールはない」。というと語弊があるが、つまりは、たとえ社会にルールがあったとしても、人間相互の「つきあい」には、ルールはない。結局は、お互いの「フィーリング」で、やりとりをしているもので、入学試験のペーパーテストで勝ち上がったエリートは、

と言って、大衆を馬鹿にしがちである態度を、安冨さんは「立場」主義であり、「東大話法」と言ったのであろう。
安冨さんが「コミュニケーション」という「言葉」を嫌うのも、そういうことで、つまり、「コミュニケーション」と言った途端に、それは「ルール」になり、エリートは「それさえ従っていれば、大衆は従わなければならない」と考えがちだから、そもそも、「コミュニケーション」なんて存在しないと考える方が政治的に正しい、ということなのであろう(安冨さんは、それに代わり、ホイエンスの言う「振動」を重要視する)。
「不安」という言葉を、哲学の文脈で使い始めたのは、ハイデガーであるが、彼がこの言葉を「現代」とほぼ同値で考えたのには、現代社会を特徴づけるテクノロジーの発展を意識していたのであろう。
功利主義が、やたらと、「真理」と「同値」の意味で使われがちなのは、こういった現代社会における「不安」と関係があるように思われる。結局のところ、私たちは、他人に依存している。社会に依存している。どんなに勉強ができて、いい大学に入っても、

  • 他人に依存している

ことには変わらない(いや、むしろエリートがその「権力」をもっていることと「他人に依存している」ことこそ同値なのであって、大衆は「なにも持っていない」がゆえに、逆に「不安」は少ないのかもしれない)。それが、分業社会の意味なのであって、つまりは、「不安」なのだ。だから、だれもが功利主義者であることが前提で「なければならない」と考えたがる。
その逆に、未開社会において生きている人たちは、ほとんど、自分とその回りの人たちで「完結」している。つまり、

  • 外の人

に、ほぼ関係しないで生きている。そうすると、そもそも、「わざわざ外の人がお金をくれると言ったからって、貰う必要があるのか」という問題になるわけである。
どうせ、自分の生活は彼らと関係なしに「独立」している。今、彼らがお金をくれなくたって、自分の人生は自分の狩りでまかなえる。だったら、むしろ、自分の方こそがあげられるものをあげた方が、相手に感謝されるかもしれないし、合理的だということにならないだろうか?
この場合、「分業」とは、具体的には、何のことを言っているのだろうか?

大澤 地上のものは、すべて時間的に有限であり、永遠というものはありえない、というのがキリスト教の基本です。だって、神が天地を創造し、そして最後の審判のときまで被造物の歴史は続く。ということは、時間には始まりがあって、終わりがあるわけです。全部の歴史でさえも有限なのです。他のものの持続は、もっと短い。中世では、永遠の存在とか、永遠の繰り返しとかということを口にするだけでも、異端の疑いがかけられたくらいです。だから、永続性を担保するための法人という概念は、とても抵抗があるのです。

大澤 同じ一神教として、イスラム教とキリスト教は、法人という概念を前にして同じ困難を抱えていたはずです。前者は、法人に、ものすごう拒否反応を示した。しかし、後者は、逆に、法人というものを生み出す母胎となった。この違いは、どこから来たのか。
考察すべき様々なことをすっ飛ばして結論だけ言いますが、それこそ、まさにキリストが鍵なのです。キリスト教イスラム教の最大の違いは、まさにキリストにある。イエス・キリストは、十字架にかけられて殺されていまいますね。人類史上最大の冤罪死ですよ。
キリスト教には、教会はキリストの身体である、という考え方があるのです。パウロに由来するものです。キリスト教徒の観点では、教会とは、結局、人類共同体のことです。すると、どうですか。キリストというのは、個人でありかつ集合である、個人でありつつ類である、特殊でありつつ普遍である、という二重性がある。よく考えてみると、これこそ、法人の原型ではないですか。集団に、個人と同じ主体性・人格性を認めるというのが法人ですから。

「法人」とは、「永遠」の存在である。つまり、ある個人が死んでも、その「機能」は、他の誰かが引き継ぐことで「存続」が可能になっている「存在」というわけなのだから。
つまり、この「法人」の発明によって、近代は「成立」したわけである。「法人」によって、「分業」の「意味」も分明になる。
(東アジア的な伝統では、この類似のものとして、血統とか、家系というものが代替していたのだろうが、この関係は、いわば、子供を残さない時点で終わりますからね。そこから、日本などでは、イエ制度といった、養子もどんどん受け入れる形になったり、中国では、同じ名字であれば、「同じ家系」であり、同じ名字である限り、結婚を避けるといったような、「擬似的な共同体」を志向していったのであろうが)。
いずれにしろ、近代社会は、分業社会となった。ということは、この「運動」は止まらない、ということである。つまり、

  • グローバライゼーション

である。この動きは、どこまでもどこまでも続く。しかし、普通に考えるなら、どこかで止まるだろう。なぜなら、この地球には限りがあるから。それは、完全に動きなくなるということではなく、上限があるのだから、上に近くなれば、その変化は少なくなるだろう、という意味である。
結局のところ、「儲かる」というのは、いろいろな収支を差し引きして、収入が支出を「圧倒的」に上回るからであって、これが、

  • とんとん

だったら、そもそも、この事業そのものをやらない方がよかったんじゃないのか、と言いたくなる。
これが、水野さんの言う利子率革命である。

スーザン・ソンタグが『火山に恋して』で述べたように、蒐集は必ず「過剰・飽満・過多」に行き着くということを経済的事象で表せば、「利子率革命」ということになります。

水野 つまり、利子率が2%以下になるということは、資本家が資本投資をして工場やオフィスビルをつくっても、得られる利益が年率換算で2%以下になるということ。このような、利潤率が著しく低い状態が長期化することは、企業が経済活動をしていくうえでの必要最低限の資本蓄積ができないということです。
とはいえ、これを言い換えると、投資機会が消滅するところまで投資が行き渡ったということでもある。

(例えば、心理学の根本の考えには、人間には「欲望」が「ある」ということであろう。このことは、人間は「蒐集」をする、ということと同じことを言っているように聞こえる。つまりは、人間は「功利主義」者である、と(つまり、心理学とはむしろ、近代的な「経済学」の基礎付けをやっていたと考えるべきなのだろう)。このことは、東さんの言う一般意志2.0が、googleが、ビックデータとして、「情報」をどこまでの「蒐集」することと繋がっているのだろうが、しかし、このことは、人間の本質として、どこまで自明であろうか? 上記で見たように、未開社会においては、独立自尊して生きている人たちの間では、ポトラッチのように、そんなに簡単ではないように思われるわけで...。)
日本は、あらゆる「需要」が満たされてしまったし、輸入エネルギー資源は高騰してしまったし、もう「圧倒的」な利潤は、そう簡単には生まれなくなった。全体のトレンドとしては、一握りになってしまった。全体として、日本の利子率は、もう回復することはないんじゃないのか、という悲観論のようだ。
それはむしろ、日本だけ、というより、発展途上国を含めて、日本の戦後成長のような(石油がただ同然で湯水のように使えた頃のような)発展は難しい、という意味である。
この状態で、日本であれ、中国のような国であれ、設備投資をすればするほど、その工場の過剰設備の扱いが難しくなる。用意しすぎた、工場は、動かさなくても、ただ、そこにあるだけで「維持費」がかかる。かといって、動かして製品を作っても、市場には、その物がありあまっているので、儲かるような値段で売れない。進むも地獄、退くも地獄、というわけだ。
しかし「儲からない」というのは、ある意味、それだけ「自由な競争」のための

  • 空間

が、広がり、多くの世界中の人々が、この「競争」に、ほとんど「変わらない条件」で参加するようになった、ということであろう。
普通に考えれば(超マクロで考えれば)、この運動には限界があるんだろうな、ということなのだろう。

水野 ですからそもそも近代経済学というのは、やはり一国単位の経済学だったのだろうと思います。たとえば、金融工学が進んで貨幣が貨幣を生む自己増殖過程に入ると貨幣の量なんてまったく把握できない。そもそも、株式交換で企業買収ができるようになると、どこまでを貨幣とするかという定義もできないわけですから。

大澤 投資して、モノやサービスを売って、投資額を回収したら、それをまた投資することで、「より多く」を目指す。このように、自身の未完成を自己言及的に越えていく、という論理が純粋な状態で出ているのが資本です。
しかし、この自己更新とは、常に、その前の状態を「これではダメ」とし拒否していく反復ですから、自己否定の運動です。ハーバマスは、近代は未完のプロジェクトで、その先にはものすごく完成した理想の近代があると思っている。でも、近代は、むしろ未完である限りで存立しているのです。自己更新・自己否定を真に徹底して反復すると、ついにトータルに自分自身を廃棄するところまで行ってしまうのではないか。つまり、自己否定そのものが「未完」の間はよいのですが、完成した、徹底した自己否定というのは、近代の原理そのものの拒否や排除にまで、自己否定のシステムの自己否定にまでいたいるのではないか。

こういった「超マクロ」的な分析から、水野さんは、リフレ政策に批判的であり、現在の日本のリフレに批判的な経済学者の主張は、この水野さんの主張のより専門的な視点から語っているだけのように思われなくもない。
これは、前民主党政権が、子供や老人への福祉に重点を置いた政策であったにもかかわらず、ひとたび、高校や大学を卒業した後は、

に「競争」させ、ほとんど、若者の失業率の拡大に、なんの手も打たなかったことには、この水野さんのような方たちの意見が大きかったのではないだろうか。
確かに、「超マクロ」的な視点から、こういったことは言えるのかもしれないが、しかし、どこか水野さんの主張は「優等生」的に聞こえる。というのは、グローバリゼーションが確かに起きているとしても、結局、今の世界は、各国単位で動いているからである。日本が円高を容認したところで、韓国や台湾は、独自の金融緩和で、自国の輸出企業を「保護」しているのであれば、日本としては、その

  • 差異

をどのように考えるのか、を問われるのではないか。もし、水野さんの言うことに賛成するのだとしても、それはどこか「東アジア政府」なり「世界政府」によって、グローバルに実現していかなければならない目標に聞こえるわけである。

水野 再分配は現在のところ評判があまりよくないですが、現実には再分配機能はある段階を超えるとまったく機能していないのです。まずはこれを是正すべきなのに、再分配はできる人のやる気をそぐとかいう変な批判がすぐに出てくる。横軸に合計所得金額をとり、縦軸に所得税負担率をとると、所得金額が低いほうから一億円までは負担率が上昇していきます。つまり、累進課税は所得が一億円までの世界です。ところが、一億円少し手前の段階で、負担率は28・3%でピークアウトし、一〇〇億円の所得がある人の負担税率は13・5%まで低下します。この負担率は一二〇〇万円の人とほぼ同じです。
一〇〇億円の所得のある人は給与ではなく、株式譲渡所得(株式を売却したときの利益)が九割を占めています。株式保有がお金持ちに偏っていることや、分離課税となっている金融所得に軽減課税している実態をまず是正しなければなりません。再分配政策に否定的な人はこうした特典に焦点が当たるのを避けているのではと勘ぐりたくもなります。

水野さんの考えからすれば、むしろ、こういった方向の「改革」が必須となるわけであろう。むしろ、こういったことをやらないから、さまざまな「差異」が、別の場所に「大きく」しわよせとなって現れてしまう。民主党政権が、こういったことをやれたのなら、説得力がまだあるが、やれてなかったわけで、単純にリフレ政策を嘲笑していればすむ話でもないように聞こえるわけである。

水野 一八四八年、マルクスエンゲルスの『共産党宣言』以来、資本と労働の分配律はある一定期間(一〇年)をとれば、一定値を保ってきたのです。経営者と雇用者の間で暗黙のうちに、総付加価値の増加は当初決めた比率を長期にとれば動かさないという一定の取り決めがあったことになります。
一九九〇年代末にこの取り決めが一方的に資本側から放棄されたのです。ライバルのソヴィエト連邦が解体したことで自己規制のタガが外れ、グローバリゼーションで資本は国境にとらわれることなく生産拠点を選ぶことができるようになったからです。資本側の完勝と言ってもいいでしょう。景気回復も資本家(株主)のためとなり、民主主義政治であったはずの政治も資本家のために法人税率を引き下げたり、雇用の流動化といって解雇をしやすい環境を整えたりしてきたのです。

この本では、水野さんは正面から、格差社会について答えているわけではないように思われるが、ようするに、民主党政権において、高校や大学を卒業した若者をどうしたかったのか、ということになるであろう。
彼らを、とにかく、介護などの、あまり儲からないけど、必ず、「需要」のある仕事に向かわせたいのであれば、今の、大学の学科や高校の教育内容は、そもそも、どこまで必要なのか、ということにまで行かないだろうか。
みんなが介護の仕事をやるようになったときに、果して、どこまで「経済学部」や「工学部」のような所が、今の規模で大学に必要なのか、という話にまでなるであろう。そもそも、大学教授が、ここまで必要なのか、ということにまでならないだろうか。
言いたいことは分かるのであるが、それならそれで、それなりの「レジームチェンジ」を訴えなければならないんじゃないだろうか?

水野 一方、政治は何をすべきでしょうか。イリイチの言葉を敷衍すると、「未来の制度設計をする」ことだと思います。その際に中国春秋時代の紀元前三二〇〜三一七年に書かれたと推定される『春秋左氏伝』が参考になります。「国が興るときは、民を負傷者のように大切に扱う。これが国の福です。国が亡びるときは、民を土芥(どかい)のように粗末に扱う。これが国の禍です」。二一世紀の現在、非正規社員が三割を超え、年収二〇〇万円以下で働く給与所得者のうち23・7%(平成二三年)、金融資産非保有世帯が26%(平成二四年)という日本で、現在「民」は大切に扱われているとはまったく思えません。新自由主義の人たちは、個々人の努力が足りないと非難し、貧乏になる自由があるとまで言います。『春秋左氏伝』によれば、亡国の道をひた走っていることになります。二〇〇〇年以上前の忠告を無視するとすれば、人々の希望までが奪われて、いずれ滅んでしまうでしょう。

もしも、グローバリゼーションの運動が必然であるなら、ここで言っている「春秋左氏伝」の話は、どう考えても、一国で閉じては語れないように思われるわけである。つまりは、

  • 地球政府

のような、そういった「全体」によって、始めて語れることのようにも思われる。しかし、そんなものを「健全」な形で、提起することは「現実的」なのだろうか?
(例えば、石油メジャーというものを歴史の授業で習ったものだが、なぜそこに、日本の企業が入れなかったのかとか、そういったことを考えるなら、この「地球全体」が「民主主義」で動くようになる、というのは、なかなか容易には進まないのであろう...。)

資本主義という謎 「成長なき時代」をどう生きるか (NHK出版新書)

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