山本清『アカウンタビリティを考える』

日本においては、いわゆる言論人も含めて、「ふわっ」とした形で話すことが、その人の「センス=芸術」みたいな感覚があって、「いけてる」感があるのであろう。しかし、それを「パブリック」な場でやられると、聞いている側は、ほとんど「意味不明」である。ある種の「ジャーゴン」を共有する、狭い人間関係の中でだけ「なんとなく」成立する、そういった「センス」の競い合いのようなものを、個人的な人間関係の中でやられるのは、ご勝手にであるが、それをパブリックの場にもちこまれると、聞いている方は、たんに苦痛である。
まあ、そうはいっても、ほとんどの人にとって、そのこと自体が、どうでもいい

  • 無関心

なのだが。
現代社会は、ほとんどの「利便」性が必要十分な範囲で実現した社会のことであり、そもそも、人々は他人に関心をもつ必要がない。関心をもつ、つまり、強制したいと思わなくなって、「生きられる」からであって、そういう意味では、逆に言えば、どんなに関心をもたれたいと思っても、関心をもってくれない、ということなわけだが。
だれもが、勝手に生きているし、彼ら一人一人が、その「今の時点」での、彼らの生活の「文脈」において、たんに、

  • 反応

するのであって、しかし、その反応そのものも、どこまで、その人自身と「関係のある」ものとして、受けとられているのか、はなはだ疑問であって、つまりは、ちょっと、文脈を離れたら(つきあいがなくなったら)、もう思い出すこともないくらいに、そっけないものであると考えられるわけである。
しかし、そんな中において、ある種の「関係」性が、一つの形式として、半強制されているものがある。
それが、「国家的関係」であろう。
ここにおいては、お互いが、たとえ「無関心」であったとしても、ある種の、「形式」が強制される。それは、法律的なものであったり、行政指導的なものであったり、さまざまであろうが、いずれにしろ、ここには、国家的な諸関係が適用されている。
(私たちは、国家というと、公務員、つまり、官僚や、政治家、つまり、代議士たちが行っている行為のことだと考えがちであるが、こういった「二分法」は、多くの場合、欺瞞的である。なぜなら、たとえ民間の企業であっても、法律に従って行動しているから。官僚が法律に従って行動するように、民間の企業で働いている人たちも、法律に従って「契約」を行い、行為している。ということは、広い意味では、民間の企業で働いている人も、「官僚」なのだ。)
私が上記の「ふわっ」とした「芸術」にいらだつのは、ここに関係している。
もちろん、私は別に、国家が「特別」だと言いたいわけではない。国家の命令だから従わなければならないとか、そんな「ルール」主義的なことを言いたいのではなくて、そういった「芸術家」たちが、

  • 他人に意図を伝え、相手が「必要十分」な「応答」を返すとは、どういうことか?

といったような問題に対して、あまりにナイーブな印象を受けるから、である。
たとえば、ある「納期」のある仕事を、頼む場合を考えてみよう。そこにおいて、どうやったら、相手の意図をくみ、その納期に「必要十分」な製品を納められるのかは、重要である。
仕事を頼む側が、被依頼者の結果に逆ギレをすることは容易である。しかし、その逆とは、なんなのか? というのは、そもそも、相手が「必要十分」に依頼者の「コントロール」下にない限り、そもそも、依頼者の「納得」のいくものが「応答」されると、どうして思えるのか、ということなのである。
「凡庸」な依頼者は、自分の言う「芸術」発言には価値があると思う。というか、思いたがる。しかし、そいつのナルシスティックな自慢話が、たとえ、なんであろうと、被依頼者が、「なにを言っているのか分からない」のであれば、そもそも、依頼者が「求めている」レベルの成果物となるはずがない。
つまりは、こういうことである。

  • ナルシストの「芸術」の「価値」がなんであろうと、被依頼者に伝わらない限り、ナルシストは求めている成果を得る結果にならない。

さて。
これらが「芸術」かどうか、って話はどうなったんですかね orz。

  • 芸術発言:ナルシスト(依頼者) --> 被依頼者
  • 成果物:被依頼者 --> ナルシスト(依頼者)

大事なことは、この間にある「関係」である。ということは、どういうことか。この間の「関係」を「記述」することが求められている、ということである。
掲題の著者はこの本で、「アカウンタビリティ」という言葉が、なぜか日本において「説明責任」と訳されたことに、ある種の「欺瞞」性を指摘する。

民主国家の現代的文脈からは、デイとクライン(Day and Klein, 1987)が述べるようにアカウンタビリティは、古くは古代アテネ(紀元前五世紀)の市民社会に遡るとするのが通説である。執政と兵役の義務を担うようになった市民が、その結果について民会で報告し承認を得る責任を指す。そこでは年に一〇回の報告が求められ、承認されない場合は弾劾裁判にかけられ、その判決で死刑を宣告される確率は戦争で死亡するより高かったとされる。したがって、単なる報告義務でなく極めて厳しい懲罰性を帯びたものであったといえる。監査担当者は監査局に所属し、退職する執政官の会計書類を検査し、その承認を得ないと退職は許可されなかった(Chatfield, 1974)。

ここに書いてあることは分かりやすい。つまり、古代アテネにおいて、国民には「執政」と「兵役」が「義務」があった、と言うのだから、ということは義務と言ったからには、その義務が果たされているのか? が、

  • 関心とならなければならない

ということである。当然、古代アテネ市民は、それらの「義務」が果されているのかどうかの「判断」を求められる。つまり、ここにはなんらかの「ルール」が存在していくことになる。

  • 国民の「執政」と「兵役」に関する報告
  • その報告に対して「承認」か「不承認」かを判断する民会

ここからもし「承認」となるなら、問題ないであろう。しかし「不承認」となった場合はどうか? 上記では普通に「死刑」にされていたとあるわけだが、いずれにしろ、「義務」が果たされなかったという判断が、「懲罰」と関係している(「義務」そのものが、そういった行為を含意している)ことを理解する必要がある。

その後、財務的・会計的な意味合いでの用語として使用されるようになったのは、一〇八五年にフランスのノルマンディー地方出身のウィリアム一世がイングランドを支配し、領地内の資産保有者に保有状況を記載した台帳を作成・報告させたことに始まる(Dubnick, 2002)。

ギリシャアカウンタビリティは民主制の基礎として先駆的であった。しかし、前出チャットフィールド(Chatfield)も指摘するように不動産会計が存在せず、現金会計に近かったため、土地台帳の整備は画期的なことであった。台帳は王政財政を支える徴税の基礎となったからである。ここでは、アカウンタビリティは国王が家臣に対して行使した「上から下」への権限関係であり、技術的には財務会計を基礎とし、原点はアングロ・サクソンではなくアングロ・ノーマンであったことに留意しなければならない。

近代社会において、このことは「会計」の「報告」へと移っていく。上記の引用の場合、むしろ、アカウンタビリテイは、国王が国民に対して「命令」する形となっていることに注意がいる。国王は国民から税金を集めるためには、国民の「生活」を把握する必要がある。ある国民は何をしたか? 何を手に入れたか? 

  • だから

国王は、その国民に、それらに「対応」したお金を国王に払うことを「要求」する。つまり、国王が国民にお金を要求するには、国民の「生活」の把握が必須となる。
アカウンタビリティの大事なポイントは、これが、「登場する関係者の間にある諸関係」をはっきりさせないと、意味をなさない概念であるところにあるのではないだろうか。

もっとも、このパブリック・アカウンタビリティの用語は国際的に使用されているものの、アカウンタビリティの原語にある懲罰的な意味を含む責任概念で理解されているのはアングロ・サクソン諸国に限定的である。前述したように、これら以外の国々ではアカウンタビリティに相当する用語が最近までなかったことに加え、もう一つの類似用語である「レスポンシビリティ」(responsibility)と区別されることなく使用されてきた。

日本において「責任」という言葉が使われるとき、多くの場合、この「レスポンシビリティ」の意味で使われている。例えば、ある人から情報を開示することを求められた場合に、

  • 相手の要求に「応答」しようかどうか?

の問題へと議論がすり替えられる。つまり、なんでわざわざ、話しかけられたからって、反応しなければいけないんだ、なんで無視しちゃいけないんだ。つまり、こういった「道徳」的な問題として、考えられてしまう。
(例えば、日本の明治から終戦までの、アジアに対する植民地行為は、日本人のアジアの人に対する「戦争責任」として、「内面」の問題として受けとられる。どのように「反省」すればいいのか、どのように「応答」すればいいのか、またこのことは、靖国神社のような、「ある特定の意図によって恣意的に選ばれた」死者を「神」としてあがめることを、どのように考えるべきなのかに関係してくる。)
エリートは、国民に、いろいろと要求されたら、答えなければならないのか。わざわざ、クレージークレーマーにつきまとわれて、なんで、こんな些事に忙殺されなければならないのか、俺の才能が無駄に使われている、とか。
しかし、アカウンタビリティとは、そういったこととは、やはり、違うと考えるべきなわけであろう。

たとえば、日本原子力学会の倫理委員会は、倫理規定の憲章五で「委員は、自らの有する情報の正しさを確認するよう心掛け、公開を旨とし説明責任を果たし、社会の信頼を得るように務める」と述べている。しかし、その英文表記は "We shall strive to assure that all information we utilize is accurate and fulfill the obligation to disclose all information to the public in order t obtain the trust" とされ、説明責任は情報開示に置きかえられ、懲罰性の意味合いは消えている。

(それにしても、この「霞が関文学」的、欺瞞的「意訳」はすごいですね。日本人が英語が苦手なのも、こういったタブーと関係しているのかもしれない。)
311以降の低濃度放射性物質に対する安全厨と危険厨の議論は、つくづく、「日本的」であった印象を受けた。不安をあおるな、とか、そんなことを言って福島に住んでいる人が傷ついたらどうするんだ、とか、お前は間違いなく福島の人を不安がらせようとして言っている、それはお前の書いているものから明らかだ、とか、お前が俺を悪意をもって dis ろうとしているのは、お前が書いているものから明らかだから、お前は敵、とか。
つまり、こういったナイーブな議論が、いっぱしの知識人から出てくるところに、日本人には、なにか、この社会で起きること、起きている関係性を

  • 俯瞰的

にとらえることが難しいように感じるわけである。
そもそも、こういった事故が起きる前から、もし、こういった事故が起きた場合には、こういった「混乱」が起きるだろうことは、最初から分かっていたことであり、それが、低濃度放射性物質の「特質」だったわけであろう。
だとするなら、こういった事態がビルトイン「されていなかった」社会システムが、「十分なものだ」と考えて、そのままにされていたことの方こそ、「どうかしている」ということではないのか?
例えば、学校義務教育において、各教師は、どういう役割なのか。生徒はどうか、父兄はどうか、学校近隣の住民はどうか、教育委員会どうか、政府はどうか。

日本では、政治家や行政(教育委員会を含む)からの直接的統制よりも、学校側が自主的に運営状況や成果について改善サイクルを回そうとする姿勢が強い。しかし、その目標は学校が設定したものであり、有権者が委任した自治体がひゃ教育委員会が生徒や保護者に約束したものではなく、責任を負う者(学校)が自ら目標を設定し自己評価することになっている。自主性・自立性を教育で保証することは重要であるが、その結果について、責任でなく理解を求めるだけではNPM的な裁量拡大と結果責任の強化という均衡に反する側面がある。

そもそも、教育は憲法にも書かれてある「義務」である。ということは、その内容に対しては、当然、国民が「国家」に要求していくわけである。現場の教師の

  • やりたいようにやらせてあげる

というのとは、わけが違うのである。どうも日本の議論が歪なのは、ここにあるように思われる。日本の知識人は、頭のよいエリート官僚の手足を縛ることなく「自由」にやらせれば、ポピュリズムを離れて「いい仕事をするはずだ」というわけで、なんとかして、国民のクレームなどから「守ろう」とする。
しかし、主権は国民にあるわけである。学校が行っている教育内容に国民が不満なら、政府に言うのは当たり前であろう。
つまり、私は「当たり前」のことを言っているわけである。
よく考えてみてほしい。
学校ができたとする。この場合、上記の古代ギリシアの「義務」を考えてみてほしい。

  • だれが「報告」の「義務」があるのか?
  • それを「評価」するのはだれか?
  • 評価されなかった場合の「罰則」はなにか?

こういったことを、教師、生徒、父兄、学校近隣の住民、教育委員会、政府。これらに対して、「関係」線を引くわけである。そしてできあがったその

  • 構造

によって、始めて、「このシステムで大丈夫かな」とか、「このシステムであれば、事前に予測されるトラブルに対応できるかな」といった、

  • 判断

が可能になるわけである。
畢竟、人間が日常行っている「会話行為」も、つまりは、こういったシステムが回るために「必要十分」な「レベル」で相手に要求を行えて、そのチェックをおこなえていて、最終的な成果物が十全に満足のいっているものなのか、という、

  • 経験則

を超えるものではない、ということである。細かく見ていけば、「めちゃくちゃ」なものもあるのかもしれないが、総じて、上記のレベルの目的は達成されているくらいには、

  • うまく機能している

というレベルのものであって、芸術がどうこうとか、おこがましいのだ...。