西尾維新『悲痛伝』

ミステリ小説という「分野」がある。
しかし、この表現は変だ。
というのは、もしも小説なるものがあるとするなら、ここには、

  • ミステリと分類される小説
  • ミステリと分類されいない小説

の二つが「ある」と言っているからだ。さて。あなたは小説を読むとき、小説を書くとき、それが、「どちら」だと考えているだろうか? というか、どうして「どちら」だと考えなければならないということがあるだろうか?
ミステリとは何か?
一般に、ミステリと言う場合、ある種の、「推理小説」として、エンターテイメントとして、市場において、

  • 消費

されてきたものを「まとめて」呼ぶ場合に使われているように思われる。つまり、この場合、ミステリとは、なんらかの定義が先行してあったというより、そういった推理小説と呼ばれるようなものが、「事実」性として、市場に流通するようになっていったことを「指示」するものであって、それ自体に、なにか意味があると考える必要がないのかもしれない。
ある小説が、どのような体裁をもっている場合に、我々は、それをミステリと呼んでいるのか。このことは、比較的に簡単に答えられる。

  • ある「謎」の答が、最終的に、与えられるのだが、それが「意外」だと多くの人に思われること。

つまり、ミステリは一種の、人間の本能に根差した「カタルシス」を意味していることを理解する必要がある。
物語を、「語る側」、つまり主人公なりの、この物語を「説明」的に語り部として話を進める登場人物や「作者」が、自分の心情を吐露しながら、物語を進めながら、決して彼らの視点からは「見えない」形であったその「謎」が、なんらかの、「外部」的な要因の「差異」に示唆されることによって、彼らが「推理」によって、「気付いていく」過程そのもの、だと言えるであろう。
これは、私たちが「日常」を生きることそのもの、とも言っていいわけで、日常、私たちは、さまざまな外部世界と、格闘しながら生きているわけで、それらを「支配」していく形態そのものが、推理であり「ミステリ」だと言ってもいいわけで、そういう意味では、ミステリは、一つの

  • 成功した範例

として、人々に「カタルシス」を残す。
しかし、である。
ここまで書いてきて、気付かないだろうか?
つまり、ミステリの定義とは「これだけ」だということである。
どんなにSFのような、奇想天外な、物語設定であろうと、そこに上記の「構造」さえあればいいわけである。
このことは、ミステリが一種の「受験勉強」に似ていることが分かるのではないか。ミステリは、「答」がある。つまり、「答」が解かれなければならない。そのため、どうしても、「論理」性を包含しないわけにはいかない。しかし、このことは、逆から言えば、ミステリは、

  • 意外な種明かしを「始め」に決めた場合

あとやることは、かなり、「必然的」に記述できる、とも言えるわけである。つまり、こんな受験問題が考えられる。

  • この「種明かし」に対応する、ミステリの「前半」を記述せよ。

しかし、このことは「逆」にも言える。一見すると、ミステリはこんな感じなのであるから、「簡単」なように思われるかもしれない。つまり、多読書家なら、いろいろな、「オプション」をストックしているだから、頭のいい高学歴者であれば、「だれでも」書けるんじゃないのか、と。
ところが、一点、この想定をくつがえすものが、

  • 読者にその「意外」性によって「カタルシス」を与えなければならない

というところなのである。つまり、読者の「快」の感情に「依存」しているわけである。読者の多くがそれを、「どこか、わざとらしい」と思う限り、このストーリーが、高く評価されることはない。
つまり、残念ながらこれは、

  • 芸術

と同じく、「読者」の一方的な評価に「依存」する、ということである。
ミステリは一見すると、「論理」的である。ところが、上記の条件から、必ずしも論理的であることが条件となっているわけではない。つまり、結局は読者が、これがミステリだと思えば、また、ミステリとして評価に値すると思う人がそれなりにいれば、これはミステリとしての条件をそなえている、と言える。
つまり、必ずしも、論理的で「ある」ことが求められているわけではない。つまり、「論理」体系が記述されていなければならない、ということではない。もっと言えば、その論理が「完全な」体系でなければならない、ということではない。
むしろ、求められているのは、あくまでも「読者」の印象である。読者が「納得」するかどうか、だけなわけである。
例えば、SF的な設定は本来ありえないという意味では、「非論理」である。しかし、それを「仮定」することに、読者が同意するならば、

  • それ以降の論理

について考えることができる。つまり、SF的設定を「仮定」した後の物語を。
この「自由」性こそ、芸術の芸術たる所以といえるであろう。
ミステリは、どうしても、なんらかの「論理」性を含まないわけにはいかない。しかし、その論理は、必ずしも、数学や形式論理学や、もっと言えば、コンピュータのような、厳密性を求められているわけではない。それは、

  • 推理

という人間行為の性格を考えても、どんなに強い蓋然性が主張できたとしても、結局は、確率は確率でしかないからである。
掲題の著者のラノベ的小説群は、一言で言えば、

  • 国語的

と言えるのではないだろうか。
多くの人たちが、なんとなく感じている義務教育への違和感は、一点、「国語」に集中している。つまり、国語という教科は何をしているのか?

  • 狭義の「国語」...私たちが英語を学ぶときのグラマー(文法)。ここには、辞書的な単語も含まれる。
  • 広義の「国語」...日本語で書かれた「あらゆる」文献に対する「文献学」

つまり、多くの日本人にとって、後者の「国語」が「必要」なのか? ということである。前者を学ばなければならないのは、たとえ、私たちが、ネイティブに日本語を話すとしても、それが(オーソライズされた形で)「正しい」かどうかとは、無関係だからだ。
ところが、後者はどうか? これはむしろ、「研究」に近いのではないか。ところが、私たちは、学校時代に、この後者に対して、

  • 試験

で、その「能力」を判定される。しかし、そんなことは可能なのか?
後者の特徴は、日本語で書かれた「あらゆる」文献が、その対象だということである。ここには、どんなに「適当」に書かれた文章も含まれる。ただの、落書きだって、学校の中間試験や期末試験の問題の題材として使われる可能性がある。
しかし、このことは、逆に言えば、

  • 学校の試験問題に使われた論文やエッセイには、「なんらか」の「オーソリティ」が賦与されている

ということなのである。
つまり、ここに、「国語」という「権威主義」が生まれる。国語の題材として、相手にされるかどうか、という「不思議」な基準が、なにか、この国の

を「代表」しているかのように、人々に受け取られる。
掲題の著者のエンターティメント小説群においては、さまざまな「ことわざ」や、日本語的な論理的な話術を、

  • 饒舌

なまでに、繰り返す。これこそ、「広義の国語」である(彼の父親だったかが、大学で国語を研究しているだったか、教師だったか、という設定があったと思うが、つまりそのことが、こういった主人公の性格の「非人間性」の原因であることを示唆している、ということなのであろう)。
言ってしまえば、どんな文章も「国語」であるが、あまりに「センス」がないと、

  • やぼ

だと思われる。つまり、国語は「芸術」だということである。
例えば、掲題の主人公である、空々空(そらからくう)は、いわゆる

  • 感情

がない。というか、「国語」的に

  • 反省

された感情「しか」ない。よって彼には、ナチュラルな「感情」が「意識」されることはない。つねに、国語の授業で、あらゆる、感情が

  • 解釈

されたものとしてしか、「存在」しないように、彼には、自分の目の前で人が死ぬことも、自分が人を殺すことも、

  • 文学的(=国語的文法=国語的論理)

に「解釈」されたものとしてしか、「表出」できないのだ。
そもそも、子供にとって、「死を恐怖する」とは、何を意味するのか。空々空(そらからくう)の行動は、

  • 自らの死を避ける

行動である。しかし、なぜ彼は、自らの死を避けようとするのか。彼は、自らがなぜ自殺をしないのかを問わない。なぜなら、それは「自明」なことだからである。しかし、それは変ではないか。なぜなら、だったら、自らが自殺をしないことと

  • 同等

のこととして、自らがナチュラルな「感情」のまま生きることが考えられていない、根源的な理由はない、ということになるであろう。
ミステリを根本的に「定義」づけていることが一つだけある。それは、

  • 探偵の「種明かし」は、探偵の視覚の「外」で生きている「犯人」によって「肯定」される

というところにある。つまり、探偵の推理は、犯人によって「肯定」されることによって、

  • 始めて

その「正統性」が与えられている、ということである。
つまり、推理小説を決定的に定義付けているのは、この、
ノローグ性
にある。
探偵と犯人は、「同一人物」である。つまり、両方とも、「作者」の「発言」によって構成されている「だけ」という意味で。つまり、一見するとこの会話は、ダイアローグのように聞こえるが、そうではないのである。たんなる、

なのだ。空々空(そらからくう)を決定的に、特徴付けているのは、彼の「ひねくれた」ニヒルな態度ではない。そんなニヒルな「おぼっちゃん」に、彼の周辺に現れるキャラクターたちが、

  • ことごとく彼に「興味」をもつ

というところにある。これこそ、近代における「エリート」の特徴である。

「いずれにしても、これで確認は終わりです。あとは答合わせを残すだけ」
空々は言った。
「もしもあなたがその必要がないと思うのであれば、その答え合わせさえ飛ばしてしまってもいいんですけれど......」
「必要があるとは思わないけれど」
と、鋼矢は調理実習室の時計に目をやった。別にずっと計測していたわけでもないだろうから、それは『時間を気にした』ということを空々に示すための、彼女なりのオーバーアクションだったのだと思う。
「でも、折角時間が余っていることだし、ひけらかしてもらいたいね。名探偵そらからくんの推理って奴を」
魔法少女『メタファー』こと登澱證を殺したのは」
鋼矢からの皮肉交じりの促しを受けて、空々は結論から言った。できる限り、なんの感情も込めずに----もっとも、その件に関して込めるような感情など、彼には何もなかったのだが。
「あなた達のリーダーである魔法少女『コラーゲン』だったんですね?」
「くっ」
そんな声を発した。
苦笑だったのだろうが、それは今まで浮かべていたにやにや笑いとは違っていて、明らかに、空々の解答に対する花丸を意味していた。

空々空(そらからくう)がどんなことを話しても、回りの登場人物たちは、ことごとく、彼の意図を理解し、彼に積極的に、会話を成立させようとする。しかし、そうだろうか?
現実社会は、もっと、カオスではないのか? 基本的に、私たちが行っている日常会話の半分は、相手が何を言っているのか分からない。そもそも、相手に興味がないから、聞いていない。しかし、それが、

  • 普通

であろう。なにか、会話が成立している、ということの方が、どこか、奇跡のような「意外」さがある。
こういった特徴を、「ナルシズム的モノローグ」と呼ぶことにしよう。こういった「文学」形態に意識的だった人の代表こそ、村上春樹であろう。
村上春樹の小説においても、主人公の「僕」は、たんに、女性にもてるだけでなく、そういった周辺の女性たちが、

  • 主人公を「理解」する

わけである。なんの「根拠」もなく。主人公が意味不明な謎かけのようなことを「つぶやいた」としても、「必ず」彼の周りを固める美女軍団は、彼に「適切」な応答を返す。つまり、そもそも、彼の周りの美女軍団が彼に「無関心」という態度をとることは
ない
という「形」で

  • 作られたセカイ

なのである。そして、ゼロ年代とは、この村上春樹を「正当化」の手段で使った人たちの集団であった、と考えられる。彼らが、西尾維新のような、カントで言うところの「非社交的社交性」、つまり、人間の非人間性や、残虐性を、人間の「欲望」に関連した本質的な衝動と考えたことは、この

  • 必ず応答してくる(他者とは名ばかりの)「自分自身」という周りの人

の「自明」性と関係していた、と言えるであろう。
なぜゼロ年代は「セカイ」を考えたのか。それは、セカイが、

  • 必ず自分に「応答」してくる

から、である。つまり、このことは、彼にとって、自分に応答を返してこない人は「他者」ではないのである。つまり、そういった「無関心の人たち」は、彼の言う

  • セカイ

の一部では「ない」わけなのである。
こういった、一貫したモノローグ世界の中において、彼らはその「外部」に出れたのであろうか?
例えば、彼らは「動物」という言葉を好む。しかし、彼らの言う動物とは「人間の比喩」である。つまり、彼らは、

  • 自分に反応しない人間

を動物と呼んでいるにすぎないのだ。動物が本質的に人間に応答してこないように、自分という「エリート」に敬意をもたない(興味がない)人を、侮蔑的に「動物」と呼んでいるだけなのだ。
そこから、人間を「動物」のアナロジーで考えるようになる。つまり、

  • 動物の「管理」

である。「危険」な動物は、物理的に檻に入れるなどして、エリートに「危害」を加えないように「隔離」する。なぜ、そんなことをしていいと言っているのか。言うまでもない。「動物」だからだ。動物なんだから、首輪をしたり、檻の中で「飼う」のは当たり前だというわけだ。
よく知られているように、赤ん坊は、一歳までは、基本的に、目の前にいる人の顔をじっと見る。ところが、一歳を過ぎた頃から、ほとんどの目の前の人を「人見知り」するようになる。そして、子供は成長していく間、基本的に、親に興味を示さない。もちろん、親がいなければ生きられないとしても、そのことが、親に依存していることを意味しない。たんに、自分が苦痛だったら抵抗をするだけだ。
そこには、なんの「国語」的な内省はない。
本質的に子供は親に無関心である。しかし、親は子供に無関心でありながら、親が世話をやめた途端に、子供が死ぬことを理解しているだけに、子供の「世話」を放棄できない。子供はたんに、不快であったり、快であったりを、外に「表出」するだけである。そのことに「意味」はない。だれも子供の育児をしなくなれば、死ぬし、そうでなければ死なない、ということを意味しているにすぎない。
村上春樹の小説において、主人公をとりまく「美女軍団」が、ことごとく、死んでいくことは、西尾維新の小説における、非人道的主人公の周りに集まり、ちやほやしてくれる「美女軍団」が、ことごとく死んでいきながら、唯一主人公だけが、

  • 意味もなく

生き続けることに対応する。つまり、

  • 非人道的であることは、唯一、「僕」が死なない、ことによって成立している「ゲーム」なのだ。

もしも、残虐な物語によって、地球上の全ての人が死ぬのであれば、それは、ある意味、「平等」である。ところが、ノルウェイの森の主人公の「僕」が、彼の周りを固める美女の一人が死ぬことで、どんなに傷付こうが、

  • (主人公の)「僕」は死なない

わけであって、そうやって、周りの人間が死ぬことによって、主人公が「成長」するという、テメーカッテな物語が、無意味に再生産されたのが、ゼロ年代だった、ということになるだろう。
死とは、実は、「相対的」な問題である。もし、この世の中が、非人道的であり、道徳など存在しない、と言うのであれば、それと
同等
の意味で、「お前には生きる意味がない」ということを言っているのに等しいわけで、そういった「相対性」に無自覚なナルシストということになるだろう。
例えば、今週のアニメ「絶園のテンペスト」は、ちょうど、不破愛花(ふわあいか)が、自らが、

  • 被害者でありかつ探偵でありかつ犯人

と宣言する場面であったが、これを時間のパラドックスとして「成立」させると同時に、過去の人であり未来の人である、鎖部葉風(くさりべはかぜ)が、その不破愛花(ふわあいか)に自身による、これから自らが、

  • 自殺

をするという宣言を聞く「探偵」に対する「犯人」の役割であり、「犯人」に対する「探偵」の役割として、彼女に対面している。つまり、この場合、鎖部葉風(くさりべはかぜ)の方こそ、

  • 被害者でありかつ探偵でありかつ犯人

の三役を行っていると言えないこともない。いや、むしろ、このように考える方が「自然」だとも言えないことはない。なぜなら、どう考えても、不破愛花(ふわあいか)の自殺は、「不自然」だからだ。それは、なぜ、空々空(そらからくう)が自殺しないのかに、完全に対応している。空々空(そらからくう)が自らが生き延びようとしていることと、不破愛花(ふわあいか)が

  • このセカイを救う

ために自殺をしようとしていることが対応する。つまり、どちらも、

でしかないし、どうでもいい「作者の自意識」であり、なにか「深い」意味があるんじゃないかと考えること自体が、

  • どうでもいい

つまり、

  • 「この」作者がどうでもいい

つまり

  • 「この」作者が論じるに値しない

ということなのである orz。
掲題の作品において、唯一、読むに耐えられる、「自然」な場面の描写が以下である。

「箸が止まっているわよ。早く食べなさいよ、馬鹿ね」
考え込んでしまった空々に、證が言う。
文脈上、何が馬鹿なのかはわからないが、これはただ手癖口癖で、空々を罵っただけだろう。
「おいしいものを食べるときに難しいこと考えてんじゃないわよ。ちゃんとあとで説明してあげるって言ってんじゃない。心配しなくても、ちゃあんと生き残るすべはあるわよ」
「うん......」
別に空々は、生き残れるかどうかを心配していたわけではなかったが----それもものすごいことだが----、しかし證の言うことももっともだった。
今だけはすべてを忘れ、食事に集中しよう。
意を決して空々は、つかんだ麺を口に入れた、そして。
「うまい!」

このことは、よく考えてみれば、当然のことだと言えるのかもしれない。この現代という無関心社会においても、唯一、

  • 食べること

だけは、人間は止めることができない。どんなに空々空(そらからくう)が、国語の勉強をやりすぎた、国語バカだろうがなんだろうが、とにかく、食べなかったら死ぬわけである。どんな、国語的屁理屈を並べようとなんだろうと、たんに食べる。食べることが、どうであろうと、たんに食べたら「うまい」。だったら、そうとだけ言っていれば、かわいげがあるってものなのにね orz。
しかし、これらのことは、「逆」から考えることが可能だ。
私たちは、食べないわけにはいかない。
ということは、食は「工学」なのだ。私たちは、ロボットを作るように、肉や野菜を「作る」ようになる。私たちは、自分の体を維持するために、ロボットに燃料を注入するように、血管から、養分を注入するようになる。むしろ、人間こそが
ロボット
の「比喩」なのである。なぜ、空々空(そらからくう)が、これだけの非人道的な「人格」を維持するのか。それは、

  • どうやったらロボットを非人格的に「維持」できるのか

と「同値」となる。つまりは、

  • 薬物

である。

しかしまずは例の精神ブロック剤から集めにかかるところが、空々空らしさでだった。焦りがないわけではないけれど、しかしとことん、合理を追求する。
精神ブロック剤。
精神を落ち着けるための薬ではあるが、痛み止めにもなり、そして即効性が高い。とにかく戦わず、逃げ切ろうと思うのならば、足の裏や、それに全身に受けた拷問の傷の痛みを、更に麻痺させておきたい。空々空のことだ、精神には党是ながら乱れはないのだが、しかしそれでも肉体に乱れがあると、咄嗟に動けなくなる。

空々空(そらからくう)の、非人間性は、ドラッグによって「作られる」。例えば、子供が受験勉強に耐えられるように、いつまでの眠気を感じなくさせ、いつまでも勉強に集中できるように、

  • 薬漬け

の体にして、「薬」によって、非人間性という「ロボット」を作るわけである...。精神崩壊しそうになったら、「薬」で、精神崩壊させないようにする。「薬」で、ノイローゼにさせないようにする。「薬」で、多くの死者に対してなにもできなかった、という「負い目」の感情を「薬」で、感じさせないようにする。
さて。
果してそれで、「国語」的なんですかね...。

悲痛伝 (講談社ノベルス)

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