狂った果実

それにしても、戦後社会で最も大きな出来事が、ソ連を中心とした、社会主義圏の「崩壊」であったことは、だれもが認めることであろう。そしてこの事態が、チェルノブイリ原発事故と、「並行」して理解されたことは、大変に興味深いものがあった。
ソ連がロシアとなり、東ドイツが西ドイツに吸収され、米ソの対立がなくなり、世界は、西側によって「統一」された。つまり、社会主義圏の消滅は、資本主義圏の全景化として結果した。
しかし、そもそも戦後の世界秩序は、この二つの勢力の拮抗関係によって成立していたのであろう。その一方の消滅が、もう他方の

  • 性質

の変化をもたらさないわけがないであろう。これ以降、世界中の国々には、

  • 福祉競争

を行うモチベーションを失う。福祉は少なければ少ないほど「良い」という「価値観」が、世界を覆うことになる。
この理屈は「カルテル」と同じだ。世界中の国々が、資本主義圏で「覆われた」という意味は、「対立」であり「競争」が国家のレベルでなくなったということである。これによって、世界中の国々は、

  • 仲間

になった。地球上にあるすべての国家は、すべてで「カルテル」を結ぶ。つまり、国家の対立の消滅によって、

  • 国家と「国民」の対立

が、より「先鋭化」してきた、というわけである。国家連合は、自らの「利益」を、「仲間」である他の国家と競争することによって生みだそうとしなくなる。そうではなく、自らの利益の増大を

  • 国民

から、むしりとるようになる。つまり、

こそ、ソ連崩壊後の世界中のトレンドとなる。世界中の労働者の労働環境の悪化が、失業者の増加と、並行に起きる。一方において、賃金が低下しながら、労働環境の悪化はますます進み、しかし、そのことと、失業率増大が、なぜか、矛盾しない。つまり、

  • 国家が国民を「安く」使える社会

が、世界中すべての国家連合による「カルテル」によって進むことになる。これが、

である。国家は、できるだけ国民を「安く」労働させたい。国民が、できるだけ安く、タダ同然で働いてくれればくれるほど、

  • 国富

は増大する。つまり、国民の貯金は減っても、

  • 国家の貯金は増える

というわけだ。国家が福祉を減らす理由は、いくらでもある。国家予算の半分は、国債という国の借金でまかなわれている。これは、国民の裕福と引き換えに国家が貧乏になっている、と解釈するわけだ。ポピュリズムによって、国家は衰亡する。むしろ、国家はより国民を

  • 奴隷化

する。そうすれば、国家の「国富」の増大を実現する。いや。国家にとって、国富の増大など、本当はどうでもいい。むしろ、国家が求めるものは、

  • 国民の従順さ

であると言えるであろう。国家は国民を思うがままに操りたいのだ。
さて。
この運動は、どこまでも続くのであろうか?
このことによる、国家による国民の究極の「奴隷」化は、実現するのだろうか?
それは、ソ連を中心とした社会主義圏の崩壊によって、世界が資本主義圏で覆われたことに「よって」、

という、一つの「逆説」として、問題提起できるであろう...。
ソ連スターリン時代、スターリンは、日常的に、国民を処刑していた。まるで、国民の処刑が、

  • 趣味

ででもあるかのように。一定の数の国民の処刑は、それらの「行為」に「意味がない」からこそ、実行される。なんの論理的必然もないからこそ、国民は、その「不合理」に、恐怖し、

  • 従順

となる。なんの意味もなく、なんの理屈もなく、国家が恣意的に国民を殺せば殺すほど、国民は国家に逆らわなくなる。国家のやろうとしていること、国家が言おうとしていることに、なんの反論もしなくなる。
スターリンにとって、定期的に、一定の数の国民を殺すことは、自らの「権威」を守るために、むしろ、必要としていた。そのことによって、国民がスターリンに恐怖を覚えることが、スターリンにだれも逆らわない「担保」となり、スターリンの「政治」運営を潤滑にする。
ところが、このスターリン以降受け継がれてきた、ソ連の恐怖政治は、チェルノブイリ原発事故を境に、終焉を迎える。なぜなら、スターリンの「恐怖」政治は、国民の主体的な行動を、禁止するものであったから。つまり、この禁止が、チェルノブイリ原発事故の「意味」を国民に隠蔽し、国民はその事実が何をもたらすのかを考えることを自らにタブー化した。そして、チェルノブイリ原発事故から、一年一年とたつごとに、その国民の自らに戒めた禁忌が、

  • ブーメラン

となって、自らに刃を向け、自らを傷つけ始める。国民は、スターリン恐怖政治を怖がって、黙っていた「から」、ロシアの大地は、穢され、その汚れは、国民の健康を蝕んでしまった。取り返しのきかない、ロシア国民の健康は、もう、取り戻すことはできない。それは、国民が

  • 何も言わなかった

から、起きたのである。つまりは、こういうことである。国民がスターリンを恐怖し、スターリンに逆らわないことは、国民にとっては、毎年の数えるくらいの一部の国民の、スターリンによる「殺害」という、

  • 国民の中のほんの一部の人たち

の「不幸」という「上限」で抑えられると思っていた。つまり、これだけの「少なさ」であれば、「たまたま」選ばれた人たちにとっては「不幸」だったかもしれないが、「どうせほとんどの人は選ばれない」のだから、「たまたま」選ばれた人は「運が悪かった」んだ、と

  • 無視

した。しかし、そのことによって、国民は「合理的に生き延びる」ことが可能だ、と、進化論的に功利的な行動だと考えたわけだ。
しかし、「合理的」な国民は、あることを忘れていた。つまり、原発事故である。このように、恐怖政治による、絶対的な権力を手に入れた権力者たちは、その権力によって、「火遊び」を始めてしまう。
彼らの絶対的な権力は、彼らが「火遊び」を遊ぶことを可能にするほどの、絶対的な権力を手に入れる。彼らは、なんの「正統性」を証明する必要もなく、一切の「火遊び」に興じる「自由」を手にしてしまう。
スターリン的権力は、しまいに、国中を、放射能で「汚す」ことの

  • 国を亡ぼすことの「魅力」

にとりつかれる。絶対的な権力は、その絶対的な権力によって可能な

  • あらゆること

を「したい」と思うようになる。あまりにもの権力は、まずもって、

  • 自分自身の破壊の衝動

から逃げられなくなる。あらゆる力を手に入れた後、

  • 「このセカイ」を破壊する

ことと

  • 自分自身の破壊(=国土の破壊=自殺)

の衝動を区別できなくなる。
チェルノブイリ原発事故によって、ソ連は崩壊するが、それは、単純に、国民がそれ以後も、ソ連が存続することを許さなかった、ということである。つまり、ソ連という国家によって、ロシアの「国土」を「破壊」させ続けることに、いい加減、ロシアの大地に住む国民が、許さなかった、からである。ロシア国民が、広場に集まり、大規模なデモを行う。ソ連は、この国民のデモに対抗するために、ソ連軍の戦車を、広場に向かわせる。もちろん、ソ連の指導層は、ロシア国民を戦車の大砲で打ち殺すことに、なんの躊躇もない。それによって、何十人、何百人が死のうが、ソ連から人がいなくなるわけではない。このことは、スターリン時代に、必ず、毎日、何人かが、なんの合理的な理由もなく殺されていたことと同じである。
ところが、である。
一つだけ、この二つには差異がある。それは、ロシア国民の方に、なのである。スターリン時代において、毎日国民が殺されていたとき、ロシア国民は、「恐怖」したから、スターリンに逆らわなかった。ところが、チェルノブイリ原発事故以降、ロシア国民は、

  • たとえ戦車の大砲によってデモに死者が出ようとも

たとえソ連国家に、国民が恐怖しようとも、「逆らう」ことをやめなかったのである。それはなぜか。チェルノブイリ原発事故が

  • 暗示

していたことは、スターリン政治に恐怖して、国民がずっと黙っていると、独裁者の

  • 自殺願望

によって、ロシアの大地を、人が住めない場所に汚される

の危険を感じたからである。
国民が国家に何も言わず、抵抗しないことは、その「個人」一人にとっては、一見すると合理的である。たとえ、国家が国民に牙をむいたとしても、

  • 通常時

においては、スターリンがそうだったように、「せいぜい」毎日、何人かの数えるほどの人が死ぬだけであり、

  • まさか、その中に自分が入るわけがない

と思っている限り、「利己的」には、国家に逆らわないことが、合理的と思われる。
ところが、ここに、落とし穴がある。

  • もしかしたら、国家が狂っているかもしれない

ということである。それが、チェルノブイリ原発事故であった。国家の中の、ある一部が「狂気」を発動したとき、国家は、その自らの内側にある狂気を

  • 隠蔽

する。暴走を始めた自らの内部の「ガン細胞」を、自らの「絶対的権力」ゆえに、撲滅できない。なぜなら、それそのものが、

  • 国家自身

だからである。ソ連チェルノブイリ原発は区別できない。ソ連全体にその被害が拡大する中、ソ連は、チェルノブイリを隠蔽する。国民に、事故そのものを伝えない。なにも知らせない。国家は自らの「自死」を国民に隠す。国民に、なにも起きていないかのように、

  • 日常

を送らせる。こうして、

である国家は亡ぶのである...。