村上隆『芸術闘争論』

私たち人間にとって、「概念」は「物」に「先行」するだろうか?
例えば、こんな例を考えてみよう。ある人がいたとする。この人は、毎日、なにかをしている。朝早く起きて、電車に乗り、ある会社のビルに入り、毎日同じイスに座り、パソコンのキーボードを打ち、終電近くで帰る。
この人について、ある人は彼を「プログラマー」と呼んだ、としよう。ここで、二つに分かれる。

  • その人が自ら自分がやっていたことを「プログラマー」だと「この言葉と共に」自覚していた場合。
  • そうでない場合。

一見すると、後者の場合とは、想像が難しいかもしれない。ある人は、なんだか分からないけど、毎日、このビルのこのイスに坐って、キーボードを打って、と言われた。彼は、最初はなんのことか分からなかったけど、来て、指示通りに行ったら、なんとなく、楽しくなって、最近まで、これを続けた、と。
後者の重要なポイントは、やっている本人が自分がやっていることが、世間でなんと呼ばれているのかに「興味がない」ということである。少なくとも、最近まではそうだった、ということである。
なにかをやるのに、それが「概念」によって、世間で共有されている「コード」で自らをアイデンティティしなければ、「やってはならない」のだろうか?
ある人が、なにかをしたとする。さて、「それ」は、なにかだと「呼ばれなければならない」のか?
掲題の著者は、西洋式の「ART」という表現と、日本語の「芸術」を区別する。そうした上で、自分が行っているのが、この西洋式の「ART」として考えている、と。ここで、その差異がなにかを考えることには、あまり意味がない。もし一つだけ指摘するとしたら、西洋式の「ART」というのは、その文字が示しているように、なんらかの「技術」と関係した概念である、ということなのであろう。
しかし、彼は、さまざまなそれ以上のことを言っている。でも、結局それが、彼がなにを言いたかったのか、正直、わからない。というか、彼が言いたいことに、私は興味がないし、実際に、たいしたことを言っていない印象を受ける、ということになるだろうか。

ほうっておいても人はそのままでみんな一人一人個性を持っているという人もいるでしょう。しかし、日本人はアイドルを見る時はハイコンテクストに見ているわけです。こういうプロデューサーが作っている、こういう傾向で、だいたい順位はこれくらいで、この辺で消えていくだろう、ということまで含めてファンたちはハイコンテクストな文脈で楽しんでいるわけです。
同じことがアートの世界であってはなぜいけないのか。

どうだろう? 彼が何が言いたいか分かるだろうか? 掲題の著者は、まず、「アイドル」が、こういった「友達同士の話のネタ」としてあることの「方」を、「アイドル」の本質と考える。つまり、ある「アイドル」個人を、ある一人の大衆が、実際にどのように思うかといったことを重視しない。それよりも、「舞台裏」的なものを、人々が

  • 噂話的に、ぺちゃくちゃ語っている

姿の方にこそ、物事の本質であり、価値を見出す。彼にとって、芸術は「それ」としてあるというより、

  • 大衆同士の「ダチの間のネタ」

としての「存在」の方にこそ、重要視する。

村上春樹はきちんと小説の構造、日本の小説の歴史の文脈を知っていて、ひき出しが多い。小説の文法を知っている。最近では外国でも評価され賞も取っています。アメリカの戦後の小説の歴史も知っている。翻訳もやっている方ですか世界の物語、ストーリー・テリングというのはどういうことかということまで思考が及んでいる。そのメカニズムを知っているので、その仕組みの中にこの日本の三〇年の歴史をぶち込むことで世界に発信することができるお話がでこいるということが『1Q84』では実験されているわけです。
そういうことが本当の芸術ではないのか。それがほくからの問題提起です。

彼にとって、芸術とは、「知っている」ということ、そのものなのである。つまり、なにが芸術(=小説)かは、「過去の作品(=小説)を、作者がどれだけ知っているか」と「同値」になる。つまり、芸術とは常に、過去の作品のパロディだ、というわけである。
西洋式「ART」は、技術と同値である。しかし、その技術は、なにをもって「新しい」とするのか、ということになる。もちろん、「ART」だから、新しくなければならない、ということはないのだろう。しかし、新しくないということは、上記の原則に従うなら「注目する必要がない」ということと同じ意味となる。なぜなら、それと「同じ」ものを、人々はすでに過去に注目「した」ということなのだから。
しかし、問題はこのことを「逆」から言った場合に、どういうことになるのか、なのである。つまり、なにかを「積極的」に新しいと「言う」とは、どういう事態なのか、と。そのために、備えていなければならない「条件」はなにか。一つだけ言えることは、「過去の参照」が重要であり、それそのものだと言ってもいいくらいに、そうだということである。
なにかを新しいと言うためには、過去に同じものがなかったことを「示す」必要がある。ということは、結局は、過去の作品との、

  • 衒学ゲーム

であることを、意味してしまっている、ということになる。
しかし、どうであろう。
問題は、むしろ、「世間の圧倒的多数」の大衆は、そもそも、芸術に興味がない、ということなわけである。これが、

  • 無関心社会

である。もちろん、ある人は「たまに」は、芸術を観賞することもある。しかし、多くの場合は、「すぐ」に自分がなにを見ていたのかも、どうしてそんなものに興味を起こされて、観賞をしたのかも忘れる。つまり、本質的に大衆は、「あらゆる」ことに無関心だということである。いや、もっと正確に言えば、

  • 大衆の関心を「一般的」法則として記述することはできない

ということである。ある一人の大衆がいたとする。その人が、「何」に今、関心をもっているのか、は、完全な「ランダム」である。多くの場合、「その」人の過去からの「つきあい」に関係した、「関心」であることの方が確率は高い。しかし、その関係は、結局は「人それぞれ」に依存するのだから、ランダムと変わらない、ということになるわけである。
アイドルを「プロデューサー」の「意図」を読み合う「おたく」たちの「中の人」たちによる「仕掛け」の「解析」ゲームと考える掲題の著者は、同じように、芸術も考えることの重要性を指摘するが、しかし、だとするなら、そもそも、一人一人の「アイドル」の人が、実際には、どういった人なのかとか、具体的なある芸術作品に、ある人がふれたとき、そこにどういった

  • 化学反応

が、その人の中で起きたのか、といったような、「今ここ」における「固有」の「体験」一つ一つを

  • 重要視しない

ということを意味している。というか、そもそも、具体的な作品など、どうでもいいと言っているのに等しい。つまり、むしろここにあるのは、具体的な作品というより、「おたく」たちによる、「楽屋裏」の人間関係や、「仕掛け屋」たちによる「戦略」の読み合いという

  • おたく同士でワイワイガヤガヤやれる「ゲーム」

の方に、焦点が移っているわけである。
つまり、そもそも「芸術作品などいらない」と言っているに等しいわけである。具体的な作品が、実際にあるのかないのかを「超えて」、とにかくなんでもいいから、「おたく」たちの中から

  • 理解者

を勝ち取ることが重要ということになる(つまり、これが「売れる」という商業的成功を結果する、ということを意味するのだから)。
具体的な「作品」なるものが、どうかを「超えて」、この「理解者」は、「作品」を買う。なぜなら「理解」してくれているから。しかし、この「理解」は、上記で指摘したように、なんというか

  • 高度に政治的

なのだ。つまり、アイドルのプロデューサーが今度はどんな「仕掛け」をやってきたのかの「それ」を、「理解」者が、「それ」厨になるか、アンチになるかの

  • 態度表明(ゲーム)

と同値となるのであり、もはや、具体的な作品に対しての「体験」が「どうか」など「どうでもいい」と言っているに等しい、ということなのである。
では、掲題の著者が考える、こういった状況において、果して、芸術家の「主体性」なるものは存在しうるのか、と問うてみよう。そもそも、芸術家は、こういった状況に、どのような態度表明が可能なのか、と。

ほくは、決してギブアップしません。今日の失敗はぼくの失敗ではないと思い込んで、もう一回やればリベンジできるのではないか。そういうネバーギブアップ精神で、次、もうちょっと良くなるにはどうするか。それを毎日毎日、毎日毎日繰り返す。それがぼくにとっての「圧力」です。
ぼくの作品を現代美術の仲間が若い頃に批判し、揶揄していました。ボロクソに言われていましたが、それでもめげないで、「別に関係ない、新しすぎて気味たちがわからないだけでしょう」と、丸め込んで自分の口の中に放り込んで吐き出すくらいの気概を持つ。その一方で、彼らの言うことに一理あるとしたら何だろうか、と考えながら、自分の作品を肯定し、しかし弱点を補完しながらやっていける持続力、これが「圧力」です。

うーん。なかなか複雑な感情を吐露している、ということなのだろうか。どこか、東大話法にも似ている。まず、「あやまらない」ことだけは決まっている。なぜなら、それは「負けを認める」ということだから。そういう意味では、コミュニケーションをするつもりがない、ということである。どんなに相手が自分を心配して助言をしてくれても、そもそも自分を「全肯定」してくれていない時点で、「アンチ」と分類するところから始めておきながら、そうやって、自分に「文句を言ってくる」

の「理屈」さえも乗り越えて、より「弱点のない」「誰からも文句を言われない」完璧を追求していく。どこまでも、ポジティブシンキングを一貫させるのだろうが、回りの人は、この「自己中」ぶりに辟易してくる、という感じだろうか orz
しかし、いずれにしろ、これが「実践家」なのであろう。実際に、なにかを実践している人を、「それ自体」において、否定することに意味はない。この世の中を、良くしようと実践している人は、それがどういった具体的な行動になるにしても、たんにそれ自体において否定するわけにはいかないのは、もしそうなら、人々はなにも行動しなくなってしまうからだ。
上記の議論で、私がなににひっかかっているのかと言えば、つまりは、「ART」であれ「芸術」であれ、なぜ、そういった「カテゴライズ」を必要とするのか、ということなのだ。なぜ、たんに、

  • 実践

があると言えないのか。なぜ、自らがやっていることに、そういった分類をしないではいられないのか。縄文人が土器を作ったとして、現代の私たちがどんなに「それ」を芸術だと言っても、当時の当の本人たちが、そんなことを思って作っていたはずがない。たんに祭の飾りと思っていたにしろ、祈祷術の道具と思っていたにしろ、いずれにしろ、たんに

  • それ

と思ってやっていたにすぎない。掲題の著者はMAD動画は芸術になりうる、と言うが、むしろ、こういったMAD動画であれ近代芸術であれ、そもそも、こういったものを

  • 区別しない

そういった「普遍的」な視点がありうるのか、と問うことの意味が問われている。すが秀実さんは、それを「J(ジャンク)」と呼んだが、この態度は、いわば、サミュエル・ベケットの「モロイ」のような「極私的」な視点が可能にするものを示唆していたように思われる。つまり、そういった「回路」を通ることで、凡庸な「おたくたちのワイワイガヤガヤゲーム」から、もう一度、

  • 作品そのものと「鑑賞者」との「個人的な体験」

に、その意味(=極私的な価値)をシフトさせうるのか、ということが問われている。つまり、なぜ、ある人が、ある芸術作品に「感動」するのかを、「一般化」することはできない。しかし、それを逆に言うなら、その鑑賞者の極私的な体験を否定することもできない、ということである。
一見すると、凡庸な、どこにでもあるような流行歌を聞いている大衆にとって、「それに励まされた」と思うことは、無意味であろうか? そんな

  • ジャンク

に「意味などあるはずない」は正しいのか? 私が言いたいのは、セカイを分類し、区分けしていくことは、デカルト以来の近代の作法であるが、そもそも、セカイは分類もされていないし区分けもされていない。たんに「それ」があるだけなのであって、絶えず、私たちはここに引き戻される、ということである...。

芸術闘争論

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