藤本一勇『情報のマテリアリズム』

私たちが「発話」する場合、多くは「(話しかけている)他人をコントロールしようとしている」と考えられる。つまり、話しかける相手がいない発話は、「会話」ではない。会話の練習といってもいいが、ようするに、なんだかわからない行為だ、ということである。
ある人が、ある他人に話しかけている場合、そのある人は、その行為を何回か続けることで、その一連の行為を「止める」。この場合、以下の二つを考えられる。

  • 最初の目的である、相手のコントロールが、それなりに「今のところ」満足ができるようになった。
  • そうならなかったが、「あきらめた」。

この場合、いずれにしろ大事なのは、どちらにしろ、発話者は、その行為を「やめた」というところにある。もし、発話者がこの行為を続けようとしたなら、続けられたのに、である。ということは、たとえ、後者のように、そこになんらかの「あきらめ」があったとしても、それは、なんらかの意味での「満足」と共存して終わった、ということである(そうでなかったら、会話を続けていたであろうから)。
それではここまでの一連の過程を振り返って、お互いの「発話」の「文字列」を考えるとは、何を意味しているのかを考えてみよう。発話者にとって、後から振り返って、「自分が何を発言していたのか」を考えることには、意味があるだろうか? いずれにしろ、発話者は、この過程を経た後に、なんらかの「満足」を感じたから、発話をやめた。つまり、「満足」に至ったのだから、

  • それ以前に

自分が何をしていたのか、その文法的な整合性や論理性、相手の応答の「意味」について考察することには、意味があるのか。つまり、たとえ、それらの「言葉」が滅茶苦茶の意味のないものだったとしても、「結果として満足だった」という一点において、過去の発言が意味のあるものだったか、なかったのかは、

  • どっちでもいい

ということなのである(大衆は、自らの過去の行動に「無関心」である)。
それらの一連の発言の「意味」を考える、ということは、何を意味しているのか? もし、これを「当事者」である、発話者自身が振り返った場合、もちろん、なんらかの「整合性」をもって、それらを解釈するかもしれない。しかし、いずれにしろ、上記で指摘したように、それは「どうでもいい」のであるから、そもそもこの振り返るという行為が「どうでもいい」ということなのですから、つまりは、「適当にやったって」当ってようと間違ってようと「無関心」ということである。
では、まったくの第三者がこれを行ったときは、どうでしょうか。この場合、まず最初にぶつかるのは、「文脈」の不鮮明さでしょう。つまり、多くの場合、ここで「挫折」します。そもそもの前提として、上記の発話は、発話者とその相手の「回路」に閉じている、ということです。つまり、

  • お互いが分かればいい

ということを前提として行われたお互いの行為なのですから、そもそも、第三者が「十全」に理解できると考える方がどうかしている、ということになります。
しかし、そう言ってしまうと、人類の文章蓄積の歴史は、無意味だったのか、ということになりかねません。意味があったか、無意味だったかに関わらず、私たち人類は、そこに、

  • 物語

を読んできた(推理してきた)ということになります。これが、解釈学です。これらの蓄積が成功しているのかどうかに関わらず、いずれにしろ、この

  • 実践

を続けてきた、ということです。
しかし、この運動がある地点に到達したとき、ある「反転」が起きます。つまり、むしろ、この「物語」化の方に、「正統性」が与えられる、ということです。たんに、物語(=推理)として行っていたにすぎないはずだったのに、「反論されない」ということが、その唯一の解釈ということになり、実際の歴史がどうだったのかに関わらず、人々が「それを前提に生きる」ということになります。
つまり、テキストの「解釈」の方に、一般的な真実性が与えられるようになるという、どこか本末転倒な事態が起きる、ということです。
私たちは、過去の歴史上の出来事を、遺跡や、記録から、推論することしかできません。しかし、ここで言う「推論」とはなんでしょうか。少なくとも、当時生きていた当事者は、今は死んでいません。ということは、あとは、こうして未来に生き残った専門家たちの「作法」だけが、この「解釈」を成立させている、といえるでしょう。もちろん、新たな証拠があらわれれば、この解釈の正統性が揺らぐことはあるかもしれませんが、いずれにしろ、たとえそうであったとしても、それも「専門家」たちの「作法」が少し影響を受けるということを意味するだけで、結局は「推論」にすぎないことは変わらないわけです。

西洋近代を支えていた様々な正当化の「大きな物語」----たとえば、「《精神》の弁証法、意味の解釈学、理性的人間あるいは労働者としての主体の解放、富の発展」(リオタール『ポスト・モダンの条件』小林康夫訳、水声社、一九八六年、八頁。以下リオタールからの引用はすべて同書から)といった物語----は、二度の世界大戦の災禍を前にして信用を失った。
アドルノとホルクマイヤーが『啓蒙の弁証法』(一九四七年)で描いたように、近代啓蒙による人類解放の約束は果たされず、むしろ啓蒙の約束こそが、人間主義という名目の西洋中心主義、主知主義という道具理性主義、国民国家と国民経済の発展の帰結としての帝国主義的世界大戦を呼び招いた元凶とされる。人間理性の指導のもとでの科学や技術の発展や知識の向上は、地球環境を破壊する開発型資本主義を生み、さらには技術支配の矛先は人間の外部ばかりでなく、医学や心理学や政策諸科学に代表されるように、人間の内部や社会の操作と支配へと反転し、知による人格の向上を謳った教養(Bikdung)という啓蒙の理念とは逆方向へ転倒した。資本主義による生産性の上昇や富の分配の物語は、植民地経営による市場争奪戦争へと帰結する。
このように西洋近代を支えた、近代西洋の自己正当化の物語は、国民国家(政治)、資本主義(経済)、科学技術(文化)の三本柱において、西洋の自己中心主義----デリダの言葉を借りるなら「自民族中心主義」(Derrida, De la grammatologie, Ed. de Menuit, 1967, p.1)----を露呈し、自滅した。

なぜ解釈学や文献学は、こういった「自民族中心主義」という隘路に落ち込むのか。それは、そもそも、根拠のないものに「合理性」という、「解釈」を「正当化」させることの危険性を深刻に考えなかったから、と言えるだろう。つまり、こういった「楽観主義」の延長に、

  • 人間の傲り

が結果する。人々の慣習的な振る舞いや、「作法」といったものに、なんらかの「普遍性」があると考えたときに、人々は間違う。もしかしたらそれは、自分が日本人であり、ヨーロッパ人であるという「アイデンティティ」が、私たちにそれを「自明」と思わせているのかもしれない。つまり、日本人やヨーロッパ人という、自意識が、

  • なにかの「解釈」を「自明」と思わせていたのかもしれない

つまり、そこには、なんの普遍性もなかったかもしれないのだ。
こういった近代の「反省」が、さて、「ポストモダン」という表現によって、なにを「対置」することになったのか。その主張は、ある意味、凡庸にさえ思われる。

リオタールは高度に発達した情報化社会における知の変容は、それ自体が新しい知の成果に立脚していると指摘する。その新しい知をリオタールは「ポスト・モダン科学」と怪しげに呼んだりもするが(特に第一三章)、比較的妥当な範囲に話を限れば、現代情報化社会における最先端技術は「言語活動」を対象にしていると言う。それをもっと一般的に言えば、記号作用が、さらには情報活動がもっとも根本的なフィールドだということである。リオタールが挙げている学の進展の例は、知の領域における「情報化」を端的に示唆している。

この四十年来、いわゆる先端科学、先端技術は言語活動を対象にしていると言えよう。音韻論や言語学の諸理論、コミュニケーションの問題やサイバネティックス、現代代数学情報科学、コンピューターとコンピューター言語、言語翻訳の諸問題ならびに言語=機械間の両立可能性の研究、データの記憶あるいはデータ・バンクの問題、情報通信と知性をもった端末機を完成する作業、パラドックス学(......)。

私たちが日常行っている会話とは、そもそも、その話しかける相手との

  • 非常に狭い

関係だけを考える、狭い関係だけが考慮されたものである。私は、前を向いて歩いているとき、その目の前にいる人たちしか見えない。つまり、彼らとの関係のこと「しか考えていない」というに等しい、ということである。
つまり、大事なことは、話しかける私の口から発せられる言葉の数々が、まったくもって、他人から見たら滅茶苦茶であろうと、自分が考えたって滅茶苦茶であろうと、矛盾しまくりであろうと、大事なことは、ここで話しかける側が、「話すことをやめる」ことになる、そのなんらかの「満足感」なのである(もし、なんらかの満足が起きないなら、そもそも「会話」を止めることは想定できないだろう、という意味で)。
だから、そもそも言語は滅茶苦茶だっていい、ということになるのである(滅茶苦茶を発した方が「満足」するなら)。
こういった性格をもった言葉に対して、文献学的に、その「解釈」を考えるということは、何を意味しているのだろうか?
ここには、なんらかの「パターン」があるのだろうか? 私はすぐ前で、いかに「支離滅裂」であるかを強調した。そういったものの「パターン」を考えるとは、なにを意味しているのか。
上記で、音韻学や記号学が、ポスト・モダンの特徴と言われるとき、それが、果して、何を意味しているのかを考えたとき、ようするにそれって、「数学」について考えているのであろう、ということが理解できるのではないか。なにか「パターン」なるものがある。しかし、そもそも、パターンとか、

  • 数学的に記述可能

ということを意味しているわけであろう。つまり、抽象的に考えることの普遍性はありうるのか、を考えている、と。
私は上記で、人間が話していることは「無茶苦茶」だ、と言った。プレ・モダン社会においては、こういった言葉の「意味」や「解釈」が、そもそも、「可能かどうか」を問う以前に、それらは「たとえ正しかろうと間違っていようと」なんらかの「権威」が付与されたわけである。
つまり、実際に意味があるかどうかや、その公理系に意味があるのかどうか、わからないけど、いったん、そういった「意味」なりといったことを、

  • 棚に上げて

まずは、この膨大な「文字列」集合そのものを、データベースの中に入れてしまって、あとは、そこから考えよう、ということになるだろうか。
個々具体的な会話が、実際にはどのように会話されていようとも、その「意味」なる「神様しか理解できないもの」を、いったん「忘れて」、その

  • パターン

を考えるというわけである。つまり、もはや、会話の文字列そのもの意味の「特権」を、いったん、抜け出し、ただただそこに、なんらかの「形式」を

  • 仮定

するわけです。つまり、リオタールの言うポストモダンとは「数学」のことなのである。

実際、三角形のような、きわめてイデア的なもの(叡智的な・インテリジェントなもの)に近い存在者は、「現実の」物質界・質料界には存在しない。なぜなら、この世に実在するおよそすべての具体的な三角形は、どれも厳密な意味では「三角形」ではないからだ。どんなに精密にその他の手段で三角形を書いたり作ってみても、物質界に作られた以上、線は必ず歪んでおり、厳密な意味では「線」ではない。どんなに正確に線を書いてみても、それがインクやチョークや紙のような物質・素材・質料を用い書かれた以上、精密に見てみれば(たとえば顕微鏡などで)、粗雑な肉眼では真っ直ぐに見える直線も必ず曲がっている。極論して、原子レベルまで分解してみれば、線などありえないことは明らかである。また点も物質界には実在しない。宇宙に存在する「点」はすべてなんらかの広がり・厚みをもっているはずであり、すでに「面」であるからだ。

これが、いわゆる「イデア主義」である。こういう意味で「情報」とは、数学的な「パターン」のことであることが分かるのではないでしょうか。
しかし、私には、この21世紀の時代に、今だに、イデア論を、大まじめに、論じるに値するものであるように語っていることが、どこか「哲学」という学問の「前近代」的な、思慮の足しなさ、を感じなくはない。

デカルト心身二元論と精神の優位説は現代において評判が悪い。あまりに非現実的に聞こえるからである。

私とは一つの実体であって、その本質つまり本性はただ考えることのみであり、存在するためには、いかなる場所も要らないし、いかなる物体的なものにも依存していないこと。したがって、この私、すなわちそれによって私が私であるところの精神は、物体から完全に区別されており、またそれは物体よりも知られやすく、たとえ物体がないとしても、精神はやはり精神であり続けるであろう、ということを知った。
デカルト方法序説山田弘明訳、ちくま学芸文庫、二〇一〇年、五七頁)

さらに、「精神は身体なしに、また身体は精神なしにありえる」(デカルト省察山田弘明訳、ちくま学芸文庫、二〇〇六年、一五〇頁)とか、「私が、私の身体から実際に区別され、身体なしにも存在しうることは確実である」(同書、一一八頁)という文言を聞けば、誰しも観念論だと、オカルトだとさえ思うだろう。だが、ここで「精神」という単語を「情報」に置き換えればどうか。前章で見た多くの論者たちの議論(特にサイバースペース論)にそのまま重なるのではないか。

だから、違うのである。むしろ、逆なのである。
まず、私たちが、なんらかの会話をするとき、そこには、「視線」がある。私たちの目が見るものは、しょせんは、人間の眼球の「構造」から、似たような形で、物が見えている、と言えるであろう。そう考えたとき、私たちは、比較的似たように、回りの物の形を把握しているはずである。
例えば、ある色盲の人がいたとする、その人は、ある色と別の色が境界をはさんで存在しても、その境界を感覚できない。ということは、その人は、他の人とは、幾つかの場面で、違って世界を把握していることになるだろう。
同じように、子どもの頃から、目の見えない人が、どのように、世界を把握し、生きているのかは、まったく違った

  • 観念

を形成しているかもしれない、であろう。しかし、もしも、そういう人であっても、「三角形」という「イデア」の普遍性こそは、

  • 共有

するのではないか、と。しかし、私が驚くのは、リチャード・ローティを始め、ウィトゲンシュタインなど、さまざまな人たちが、こういった「ナイーブ」な振る舞い(=哲学)を批判してきたにもかかわらず、あいかわらず、こういったことを言っている人がいることが驚きなのである。
つまり、むしろ、逆なのである。
心身二元論が「普遍的」であるかどうかは、「情報」が普遍的で「ない」のと「同様」に普遍的でない、のである。
このことは、物理学者が、数学者と同様に、トレーニングされているのではないだろうか。つまり、「近似」である。私たちの視覚は、いつも、世界をクリアに見ているわけではない。ときどきは、

  • ぼー

としてる、ボーと外を眺めている。つまり、「解像度を荒く」して見ている。そうすると、その輪郭線は、「ぼやける」。そうすると、逆説的であるが、むしろ、こういった「もやもや」とした視覚で知覚するときは、

  • ほとんど理論的な「三角形」で「近似」しておいても、まずもって、「困らない」

ということなわけである。つまり、イデア主義者のように、「その主張の根拠」は何か、と問い続ける必要がない。こういった

  • 根拠主義

が、このセカイを「歪める」。数学において、なぜ、形式は公理化されるのかは、形式化という「ルール」化は、比較的に、このセカイを「近似」するには

  • 十分

だということである。だれも、「完璧」な「似姿」など作ろうなんて思っているはずもない。もし、完璧なコピーが作れるなら、そもそも、それは、

  • オリジナルではない、すでに「抽象化」されているもの

であることを意味しているにすぎないわけで、どうも哲学研究者には、こういった「素朴」に、古典の哲学書を読んでしまう人が後を断たない、ということなのだろうか...。

情報のマテリアリズム

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