加藤尚武「ヘーゲル体系論の四つのモチーフ」

よく、私たちは「自明」という言葉を使う。そんなの当たり前じゃないか、と。そして、その「自明」な言明が通じない相手を、論難する、というわけだ。しかし、そういった対立が起きている場合には、往々にして、お互いの主張は、その「前提」を違えているものだ。
このことは、ユークリッド幾何学に対して「非ユークリッド幾何学」なるものの存在が知られだしてから、だれもが知っていることだと思っていたのだが、どうも、今だに「プレ・モダン」の世界を生きている人が多いということだろうか。
私たちは、「平行」な線は、どこまで行っても交わらないと思っている。ところが、「非ユークリッド幾何学」の世界では、

  • フツー

に交わる。これは、球面上の二次元「平面」を考えれば、北極や南極まで行けば交わることぐらい「だれ」でも分かるであろう。
同じことが、前回とりあげた「三角形」についても言える。三角形とは、内角の和が二直角だと思っている。しかし、もし、これが成立しない

  • セカイ

があったら、どうする?
ある人は言うかもしれない。「そんなの反則だ」と。しかし、反則とはなんだ? 反則と「自明」は区別できない。
なんというか、ようするに、ヘーゲルというのは、晩年の講義録という形で、生徒たちがヘーゲルの講義をメモしていたものまで含めると、膨大な「資料」というのがあって、その「全体像」が、示されていなかった、ということなんですね。だから、多くの人たちが、結局のところ「ヘーゲルとはなんだったのか」の判断を保留してきていた。
だからこそ、哲学研究者の卵みたいな人たちは、最後は、「ヘーゲルの奥深さ」みたいなところに逃げ込んで、その神秘的なまでの、「一言で言えなさ」みたいなものに、この哲学研究の「価値」みたいなものを夢見てきた。
ところが、近年になって、ドイツ語の全集作成も、いいかげん、ここまでやればいいだろ、みたいなところまで来て、そろそろ、この問題に決着をつける時期なんじゃねえの、ということなんでしょうね。
掲題の論文が載っている、下記の本は、2009年に行われた国際シンポジウムでの発表論文を集めたもののようであるが、上記のような問題意識から、「総括」的なものが多いように思われる。
前回書いたように、ようするに、「ポスト・モダン」というのは、第一次世界大戦第二次世界大戦という二つの世界戦争を起こした、その「自民族中心主義」が、そもそも、彼らの「文化」そのものの中に、あったんじゃないのか、という「反省」そのものだったわけです。
いや。もっと、ぶっちゃけて言えば、「ポスト・モダン」とは、その「責任」を「ヘーゲル哲学」に、見出そう、ということだったのではないだろうか。「ポスト・モダン」の言論者に見られるのは、多分にヘーゲルを「意識」している、ということです。肯定的であろうと否定的であろうと、どっちにしろ、ヘーゲルこそ「問題」だと考えている、ということです。
では、なぜそこまで、ヘーゲルが「注目」されるかといえば、やはり、ヘーゲルが実際に語ったことが、それ以前のさまざまな論者と、異質なところがあったにもかかわらず、多くの哲学者がそれを、うまく「言葉」にできなかった。そのため、ある種の「正当化」が、ヘーゲルに対して与えられてしまった。
つまるところ、「ポスト・モダン」とは、プレ・モダンの「ヘーゲル」的な考え方が、二つの大戦を人類が起こしたことを「批判」するような視点を持つことができなかった、肯定するにせよ否定するにせよ、

を「まとも」に考えられなかった、プレ・モダン世代の「限界」を問題にした、ということになるのではないだろうか。

ヤコービは『理性を悟性にもたらし、哲学一般に新たな意図を与えんとする批判主義の企画について』を発表、そこには次のようん叙述がある。

それら[多様性と統一]の現存在は、わざとまことしやかに影へと影を投げかけて、錯覚を起こさせる二重ガラスによる営みである。影の本質との遊びを完全に詳述するなら、あの古代に立ち返って新たなイメージで叙述することになる。----世界を担っている一頭の象に支えられている世界について、そして象を担っている亀に支えられている象についてのイメージである。ただ、あなたがたは一つの図形を何回も、そして亀を二回にわたって用いているという違いはある。つまり理性は既に初めに注意していたように、あなたがたにあっては悟性に支えられている。その悟性は構想力で支えられている。構想力は感性で支えられている。それからまたしても感性は、ア・プリオリの直観の能力である構想力で支えられている。結局、構想力は何によって支えられているのか? 明らかに無である。構想力こそ本当の亀であり、絶対的な根拠、一切の本質のなかの本質なのである。構想力は自らの中から自己自身を純粋にア・プリオリに生み出し、ありとあらゆるものの可能性そのもの(現象において、介入や把握として明らかになる生産活動を生み出すもの)として、あり得るものだけでなく----おそらく!あり得ないものの可能性としても、構想力は生み出す。(Beytrage. 3, 47: Jacobi, 3, 115f)

ここでヤコービは、「構想力の前には何もなく、構想力の後にあるものは、ただ構想力を通して、構想力のうちで、構想力によってのみ存在する」(Beytrage. 3, 47f.: Jacobi, 3, 116)とする考え方を揶揄しているのであって、『フィヒテ宛公開書簡』でフィヒテに突きつけた「ニヒリズム」とする論難に通じた発想を示している。そしてこの箇所をヘーゲルは『信と知』でとりあげ、次のように批判したのである。

カントは......(中略)......<感性のア・プリオリな総合的な統一が普遍性へと高められ、この同一性感性と相対的に対立するようになるところ>に悟性を措定して、理性をさらに、前の相対的な対立より高次なポテンツとして措定する結果、こうした普遍性や無限性は、単に形式的で純粋な無限性でしかなく、そうしたものとして固定されていることになる。こうした実に理性的な構成によって、<能力>という悪しき名称だけは存続してはいるのだが、本当のところ一切のものの一つの同一性が措定されているというのに、ヤコービは、この理性的な構成を、能力が相互に依拠しあうことへ天下する。「理性は君たちにあっては、......悟性に依拠している。悟性は構想力に依拠する。この構想力は結局----何に支えられるのか? 明らかに無だ! 構想力は本当の亀であり、絶対的な根拠であり、すべての本質のなかの本質である。構想力は自らのなかから自己自身を純粋に生み出し、ありとあらゆるものの可能性そのものとして、あり得るものだけでなく----おそらく! あり得ないものの可能性としても、構想力は生み出す。」ヤコービは諸能力をこのように美しい結び付きのうちにもたらした結果、何かあるものが----確かに統一性から切り離されたものとしての構想力ではないが----自己自身に依拠しているということはヤコービにとって、自己自身を支えているる存在者によって世界を担わせようとする愚かなインド人の比喩のように、非哲学的であるだけでなく、冒涜的でさえあるのだ。(GW4, 367f.)

ヘーゲルには、ヤコービは<理性的な構成>と<能力が相互に依拠しあうこと>との違いが分かっていないと見えたに違いない。すなわち、ラインホルトに見られたように、さまざまな能力を相互に依存させながら、体系を一つの根本命題へと、体系の基礎へと還元しようとする<還元モデル>でしか、体系構成を理解できないヤコービに対して、体系の<理性的な構成>に見られる<自己自身に基づくこと>は、ヤコービにしてみれば、非哲学的なのだ、という強烈な攻撃が展開されたのである。とはいえ既にヘーゲルは、体系の「地球モデル」を超えるところに達しているように思われる。
『信と知』には、もう一回、「地球」と「亀」が登場する。

この[フィヒテの]観念論は、形式的な知の本当のさかさまである。しかし、ヤコービが言っていたように、スピノザ主義という立方体のさかさまなのではない。なぜなら、スピノザの立方体は自由なエーテルのなかに漂っていて、そこには、上も下もない以上、さかさまになることもないからである。まして立方体が土台とするような地球とか亀などは存在せず、むしろ、立方体は自らの安定と根拠とを自己自身のうちに持ち、立方体自身が地球であり、亀なのである。これに対して、形式的な知の不規則な多面体は、自らにとってフレムトな大地の上に立っていて、そこで自らの根を張り、自らの支えを持っている。であるからしてこの形式的な知にとっては、上も下もある。普通に形式的な知は、多様な経験を根拠として持っているが、この根拠から理念的な雰囲気のうちへと、多様な概念の頂点を引出してもいる。ところが、フィヒテの形式的な知は、そうして普通に形式的な知のさかさまなのである。(GW.4, 392)

ヘーゲルの見るところ、スピノザの体系は「根拠を自己自身のうちに持つ」一方、フィヒテにあっては、「フレムトな大地」に支えられる。

<体系の基礎付け(Ergrundung)>から<体系の構成(Konstruktion)>へとドイツ観念論が展開したなかで、フィヒテは、自らを基礎付ける<地球モデル>を語ったが、ヘーゲルは、数学的な用語である<構成>をも離れ、知の<自己展開モデル>の構築に向かうことになったのである。

だが、ヘーゲルは、『信と知』以降、体系の<構成>モデルから離れ、体系の<自己展開モデル>の構築に向かうことになる。幾何学の用語である<構成>を、悟性的なものでしかないと見たからである。

栗原隆「表象もしくは象が支える世界と哲学体系」

上記において、フィヒテにおける「構成力」を根底に置く「根拠主義」が批判され、それを受けて、中後期のヘーゲル哲学が構想されていることが分かるであろう。
ヘーゲルは「根拠主義」を、「乗り越え」る。それは、まるで、古代インド哲学のように、<自己展開モデル>というよりは、

  • 円環モデル

によって、と言うのが正しいのではないか。

ヘーゲルは『エンツュクロペディー』の個々の科目が「自己自身において完結した全体性の円」(GW13, 18)をなすことを認めた。こうして、論理学はまったく前提なしに始まり、その終わりにおいて始まりを根拠づけるものである。しかしヘーゲルは、論理学の「純粋思考」の立場が同時に『精神現象学』の終わりである「絶対知」を前提することも容認した。

この問題は、周知のように、『精神現象学』の「緒論」で「意識の経験の学」の方法の問題として述べられていた。すなわち、意識は自己の知を自ら吟味し、知と真理との不一致の故に一層高い形態に自力で転換しうるものの、「新たな対象の生成」(GW9, 61)は「われわれ」(同上)による付け加えを要する。こうして「学への道」それ自身が「学」(同上)である。このように、非学的意識の目標として捉えられ、まだそこに到達していないはずの学の立場が、しかし既に意識の内在的な進行において前提されていた。これは悪しき循環であるように見える。
だがこの循環も既にイェーナ時代初期に認められていた事である。というのは、ヘーゲルは『差異論文』で哲学の「二つの前提」(GW4, 15)として、「絶対者」(同上)と意識の「分裂の立場」(同上)を認めていたからである。絶対者は一方で「目標」として目指されるものの、他方でそれは「既に存在している」(同上)。なぜなら、「理性が目標を達成する」のは、「意識を諸制約から解放する」ことによってのみだが、この諸制約の廃棄は「無制約性という前提によって制約されている」(同上)からである。それと共に、ヘーゲルはまさに「反省」の背後で「ひそかな理性の作用」(GW4, 17)をも認めていた。実際、一八〇一/〇二年の論理学・形而上学講義によれば、「反省ないし悟性」が「ひそかに理性によって駆り立てられて、同一性にいたる」(GW5, 272)。そして、このことを認識するためには、「悟性が模写している原像、理性そのものの表現を常に前に置く」(同上)のでなければならないとされた。

久保陽一「ヘーゲル哲学体系の原理・条件・方法」

この「円環」つまり「輪廻」モデルにおいては、そもそも、前提とは「結論」のことである。それだけではない。最初において、すでに、定義は「前提」される。つまり、

  • 定義がない

のである。つまり、最初において、もう、「最後」であるかのように、書き始める。一切の「定義」を行うとを拒否して、書き始める。なぜなら、最初において、すでに、そこには「結論」があるから。
では、この「謎」の「呪文」群は、どのようにして「意味」を生むかといえは、その「論証」そのものが、「意味」と同値であるとされる。果して、本当に意味と呼べるような論証になっているのかどうかは知らないが。
ヘーゲルは根拠主義をとれない。自分が批判しだけに、根拠を探せない。ということは「あらゆる」根拠を、「最初」に、書かないわけにはいかないのだ。彼は自分が言ったことに縛られる。
しかし、いずれにしろ、彼の体系つまり、『エンツュクロペディー』が『精神現象学』を「前提」にしているところがある、という記述は重要である。というのは、『精神現象学』には、ある「重要」な「仮定」が、最も大事な場所に存在するからだ。

「意識の立場」には自己確信する精神としての良心も含まれると考えられるから、この一節が意味するのは、実体の外化がなかったとすれば、つまり神が人とならなかったとすれば、「現象する神」として登場した、良心における和解が、想像上のものであるという可能性がでてくるということである。承認が生じたと確信をもって信じているとしても良心の和解は見かけのものである可能性がでてくる。
これが二つの和解の決定的な区別であるとすると、絶対知そして学の概念の正当化という主題に対してどのようなことが言えるであろうか。それは、良心の和解の運動において精神の運動が妥当しているということには、精神の運動が遂行されたという確信が良心にあったとしても、想像上のものであるということではないだろうか。そうだとすると、人となることによる神の啓示は、精神の運動が人間の認識にとって普遍妥当性を得るために、存在論的な基礎を提供していることになる。この点で「神の本性は人間の本性と同じである」というヘーゲルの言明は、相互承認する人間のあいだでの精神の運動が、神が人となるのと同じ精神の運動によって基礎づけられるということを含意している。精神の運動形式がただ人間の精神のそれであるにとどまらず、それを超えた存在論的な裏づけをもつことが意味されている。つまり、この意味において啓示宗教は、絶対知ひいては哲学的な学の概念の成立にとって不可欠だということになるであろう。

ヘーゲルの真意として、宗教に対して哲学が優位にたつという点は揺るがないであろう。そして絶対知ないし学の概念の正当化という点にとっても、前節で見たとおり宗教的事実にその基礎づけを求めるということは考えにくい。しかし他方で、宗教哲学の議論は、第四節で見たように、論理的なものとしての精神の運動が意識にとって普遍的な妥当性をもち得るために不可欠であった。したがって、もし啓示宗教がなければ、非学的意識に対して精神の運動形式という論理的なものの普遍的な妥当性について確信をもたせることができなかったのではないか、という疑いは一向に消えない。

竹島尚仁「『精神現象学』における学の概念の正当化の問題」

精神現象学』において、その論理が絶対知に至るためには、最後の最後の最も重要な場所において、

を私たちが前提にしなければならないことが、実際にヘーゲルによって、記述されている、ということである。つまり、そもそも、ヘーゲル哲学のその「思弁」性、つまり、

  • 悟性を超えた

「普遍的な学」の存在の証明には、「キリストの奇跡」を認めるという、宗教党派的な「踏み絵」がすべりこませてある、ということなのである。

ところでデカルトが哲学的主体としての「私 Ich」即ち「自己 das Selbst」を哲学的思考の成立する場として規定して以来、思考 das Denken の成立する場は、或いは、知 das Wissen の成立する場所は人間の意識 das Selbstbewubtsein である。ヘーゲルは人間の意識に直接現象している思考を、即ち表象 das Vorstellen, die Vorstellung を、知 das Wissen とよんで、思考の媒介性 die Vermittlung des Denkens から区別する。思考の媒介性とは唯一の真理である「概念」の運動そのもの、つまり純粋な思考のことを指す。これに対して意識の上に現象する知は表象を内容とする点で、純粋な思考とは呼べない。「知」はむしろ「概念」の自己運動が意識の上に現象した形態なのである。ヘーゲルが「知」を哲学的な体系へと組み立てることが出来るのは、意識の上に直接、「知」として自覚されている知識をそのまま体系の内容にもつ(この場合には実定的な学問の領域となる)からではなく、「理念」として個々の規定性をもつ思考の形式 die Form des Denkens を内容とするためである。そのため体系構築の最初の仕事として、ヘーゲルは表象としての「知」から思考の規定性を区別し、思考の規定性を内容にもつ思考の媒介性を明示する必要性に駆られる。ヘーゲルは意識の行う直接的な反省と思弁 die Spekulation とこ区別する必要に駆られるが、思弁とは思考の媒介性のことである。そして、この思弁・思考の媒介性のみが哲学的思考であり、ヘーゲルの言う現実性 die Wirklichkeit なのである。

ヘーゲルにとって哲学的な思考とは思弁の働きのこである。そして思弁の働きは真の「理性的反省」として、意識の直接的な反省である「悟性的反省」から区別れている。哲学的反省運動の中で思弁は意識の直接的な反省(悟性的反省)を反省する。思弁の反省(理性的反省)は、そのため反省の反省という二重の反省となるが、思考の媒介という観点から見れば、二重の反省とは二重の否定の運動のことである。即ち媒介の働きによって、意識の内に直接存在している知は思考の形式へと還元される。思弁は知の直接的な反省との関係をヘーゲルは食事と食物との関係に譬えている(GW20, 53 参照)、理性の反省(思弁)は悟性的な反省(直接的な知)を喰い尽くし、消化し尽して、自らの血肉とするのである。ヘーゲルの哲学体系について論じる場合、私達はこの体系が純粋な思考の形式という立場から完成されたものであることに注意を払う必要がある。私達がヘーゲルの哲学に対して加える批判が単に悟性的な反省からなされるものであれば、それはヘーゲルの哲学にとって不当なものであるばかりでなく、私達がヘーゲルの論理を全く読み違えていることになるからである。

満井裕子「思弁の実定的諸学問に対する関係」

つまりは、この人の言っていることは「逆」だということである。つまり、ヘーゲルが「悟性」と言って、そんな「個別的」なものは「普遍的」でない、としりぞけるわけだが、むしろ、なんで、

  • 悟性

だけじゃいけないのか? どうして、そんな普遍的なもの、「思弁」とかいう

  • (普遍的という)妖怪

の存在を仮定しなければいけないのか?
学問は、個人の「悟性」のままでは、あまりに「相対」的すぎる、と。だから、そういったものから、「普遍的」なものへと、学問は「ランクアップ」しなければいけない、と。「悟性」的な各個人の「感覚的」な「妄想」の段階から、

  • 誰にでも「普遍的」に成立する法則

へ到達して、始めて「学問」と呼べる、と。まさに、

そのものでしょ。これに対して、上記の引用は、おもしろいことを言っている。「思弁」は、あらゆる「悟性的感覚」を「喰い尽くす」。つまり、これこそ、ポスト・モダンが夢想する

  • ビックデータ

そのものでしょう。大量のデータをデータベースに入れて、その「パターン」を導出しうるのであれば、それを、ヘーゲル的「思弁」、ヘーゲル的「絶対知」だと、呼べるんじゃないのか、と。
掲題の著者は、その論文の中で、もういい加減、ヘーゲル偶像崇拝するのをやめようじゃないか、といったような意図ともとれる解説をする。

へーゲルは、文章を精密に仕上げるという情熱を持たなかった。彼は、つねに自分の心のなかのイメージ、飛び去っていく観念を追いかけるようにして描いたが、建築的に構築する思索を厳密な言葉で刻むという書きぶりはしなかった。

ヘーゲルは、ゲーテに宛てた社交的な文書などを除けば、一行も精魂こめて、文章を仕上げていない。すべては書きなぐりであり、思いつきの羅列である。彼は非常にたくさんの豊かなアイデアを持っていた。「主人と奴隷」、「市民社会」、「権利」、しかし、どのアイデアも完成することはなかった。

ここは、重要なポイントのように思われる。彼は、多くのことを語ったが、そもそも、本当に言いたかったことは、なんなのだろう? こういった問いかけは変だろうか? 彼にとって、自分が書いていることが、自分が書きたいことであるという意識があったのだろうか?

病態発生論という観念によって、観念論(イデアリスムス)という概念は、個と全体、個人と国家の間の関係の原理へと変容した。「法の哲学」から主権を構成する観念論について引用する。

主権を構成する観念論は次のような規定である。その規定によれば動物の有機体では、そのいわゆる部分は[ばらばらの]部分ではなく、肢体・有機的な契機である。その肢体が分離されて一人立ちをすれば病気である。この同じ原理が意志の抽象的な概念においては自分自身に関係する否定性として登場する。それによって[この同じ原理が]自分を個別性へむけて規定する普遍性として現れる。この普遍性のなかではあらゆる特殊性と規定性が止揚されて[骨抜きになって]しまう。この規定が絶対的な、自己自身を規定する根拠となる。この規定をつかまえようとするのなら、ひとは実体と概念の本当の主体性であるものの何であるかを心に銘記していなくてはならない。
ヘーゲル『法の哲学』二七八節、上妻精・佐藤康邦・山田忠彰訳、岩波書店、四八〇頁。ズールカンプ版全集7巻、四四三頁。)

要するに、観念論とは、個体が実体ではないという教義になった。「政治的国家の根本規定はその諸契機の観念性としての実体的統一である。」(同二七六節、ズールカンプ版全集7巻、四四一頁)国家の諸勢力も、国家の諸業務も、単独では機能しない、特殊的な契機である。単独の臓器や肢体が有機体のなかで機能しないのと同様である。実体は、諸契機が単独では観念的で非実在的である限りで、それら諸契機の統一である。

一般的に彼は、有機体のモデルから理解した論理もどきの比喩を描いているにすぎない。ヘーゲルは、実際は、当時の自然科学の素材から有機体のオデルを借用してきた。それなのに彼は精神は言葉の本来の意味で自然よりも有機体的だと信じた。そして理念そのものが特殊な内的な構造を持っていて、その構造のおかげで自然物は「有機的」でありうるのだという理論を組み立てる。したがってヘーゲルによれば、理念は本来的に有機的であり、自然は二次的に有機的である。彼は、決して「自分は有機体をモデルにして、すべてものの論理構造を描き出しました」などと告白しない。

なんとなく分かるよね。彼は、そもそも、個々人の「悟性」について、だんだん、「どうでもいい」感じになっていく。というのは、そういうものを「超えた」概念とか、思弁とか、そういうものが「ある」っていう「イデア論」を信仰していっちゃうんで、もう、個々の人間なんか、なんとでも

  • 入れ換え可能

に見えてきちゃったんじゃないのかな。上記の引用は、つまり、個々人の人間に主体なんてない、あるのは、ここでは国家とか民族とか、そういうふうに言っているけど、つまりはその単位そのものに意味があるわけでもないんだよね。ようするに、個々人の人間「じゃないんだ」ということが言いたいってことで、ようするに、個人「こそ」が普遍的っていう考えに耐えられなかった、ということなんじゃないかな。
なんていうかな。彼が「本気(マジ)」で、人間有機体説を主張したいのなら、もう、これだけを徹底的に調べて、実証し論証しようと、生涯を捧げたらいいんじゃないのかとも思うんだけど、なんか、

  • 思いつき

で書いてるだけ、に思えるわけなんですよね。なんか、政治的に左翼が嫌いだから、文脈上、そう言わずにいられなかった、みたいなね。上記の『エンツュクロペディー』にしても、なんというか、やる気があるのかな、と思わなくもない。もう、面倒くさくなったんなら、やめればいいのにね。

ヘーゲルは、その哲学の全体的なテキストにおいて、このようなばらばらのモチーフを、一見、堅固な脈絡のなかで正当化するかのように記述している。しかし、次のような問いに答えるべき哲学的営為が欠けている。すなわち、1、絶対者の存在論的な規定は確定可能か。2、諸学に対して哲学は「女王」でありうるのか。3、歴史性と論理性は一致すべきなのか。4、哲学の叙述が始原と終わりを持つことは本質的であるのか。こういう問題に対する答えをヘーゲルは実は用意していない。
ヘーゲルには体系を完成する可能性がなかった。自己の体系についての、さまざまなイメージを思いつくままに語り続けていた。すべての学問を有機的に体系化したはずの「哲学的百科事典」の表面的な整合性を作ることができないばかりか、ヘーゲルには、自然科学の素材の増大の行きつく先を予見することなどできるはずがなかった。たとえヘーゲルが体系の記述を完成したとしても、それは根源一者が自己を対立のなかで変容させて、そこから統一を回復するという物語を、巧みに描き出すという意味にしかならない。それはせいぜい「上出来の」ファンタジではあろう。
さまざまの学問は、歴史的にはまったく異なる事情から生まれて、今日に至っている。それらが「哲学的百科事典」に統合され、単一の原理から導出されるべきであるとすれば、その理由は何かを問う思索がヘーゲルには欠如している。彼は、ただどのように哲学的記述を展開すれば、たるで単一の原理から諸学問が発生したかのような体系が展開できるかという問題に腐心した。

つまりさ。本気で主張しているように感じないんだよね。なんか、そういうのが伝わってこない。どこかしら、「党派」的な印象が漂ってきてしまう。彼こそ、「政治的」な人だったんじゃないのか、という印象を感じてしまう。本当に主張したいことを言っているというより、なんらかの、「立場」とか、そういうもので書いているんじゃないのか、って(政治少年として、左翼が嫌いなら、たんに、そうだって書けばいいのにね orz)。つまりは、哲学の歴史の中で始めての「東大話法」みたいなものだろうか...。

ヘーゲル体系の見直し

ヘーゲル体系の見直し