鈴木健『なめらかな社会とその敵』

日曜日に映画館で、タランティーノの「ジャンゴ」を見たが、あいかわらず、血のりを大量に使う、エンターテイメントだったかな、といった印象だろうか。
ああいった映画を「ブラックスプロイテーション」(Blaxploitation)と呼ぶのだそうだが、おそらく、歴史的な「正確さ」というより、アメリカ黒人奴隷制度と呼ばれてきたものに対する、「イメージ」をエンターテイメントとして描いた、ということなのだろう。
南北戦争の2年前、黒人の主人公は、もともと、南部の黒人奴隷であったが、ある、賞金稼ぎに、賞金首の顔を知っているという理由で、救われ、同じ「賞金稼ぎ」として、パートナーとして、行動するようになる。
しかし、言うまでもなく、こんなことが歴史上起こった、ということは知られていない。というか、あるわけがない。そもそも、南部で、元黒人奴隷が、賞金首を、連邦政府にもっていって、賞金をもらえるわけがない。
「もらえなければならない」というのは、現代の価値観における、「フェアネス」であるが、当時、どこにも、文言上の断りがなくても、

  • 白人のルール

  • 黒人のルール

に「優越」していた。それが、「黒人奴隷制」というものの「意味」なのであろう。
主人公の元黒人奴隷は、次の二つの特徴をもつ。

  • 結婚している。彼の妻は、同じ黒人の女性で、かつては一緒に暮らしていたが、彼の見ている前で、ひどい虐待を受けていた。
  • 彼は、なんとかして、彼の妻を見つけ出し、二人でこの「黒人奴隷制」の虐待行為を避け、逃げ出したいと思っている。

黒人でありながら、結婚制度を尊重していたり、彼の妻の名前がブルームヒルダといい、ニーベルングの指輪の、ジークフリートに救出される女王の名前であることを聞き、主人公を救い出した、ドイツ出身の白人の賞金稼ぎは、なんとか、この黒人の妻の救出劇をサポートしたいと考えるようになる。
ここで興味深いのは、ニーベルングの指輪が意識されているように、この構造が、完全に、

  • かつて「白人」を登場人物として描かれてきた

ヒロイックファンタジーの「構造」そのものだということである。つまり、ヒーローとヒロインを「白人」にすると、「そのもの」かつて、

  • 白人文化

が、何度も何度も作り出してきた、「物語」そのものになっていることである。
そのことにより、非常に興味深い現象が起きている。まず、主人公の黒人が「怒り」に身を震わせ、昔、彼の妻に、暴力をふるった、賞金首を、これでもかと殺す場面は、まるで、その主人公の姿は、

  • 白人の「俳優」が、振る舞っていた姿「そのもの」

にしか見えない。つまり、これは一種の「パロディ」になっているわけである。白人たちが行ってきた「慣習」を、この黒人の主人公がまったく

  • 同じ

に振る舞うことで、白人たちの

  • 似姿

を彼は観衆に「見せる」。それは、もともとは、白人たちがよくやる「仕草」であったり、彼らの「徳性」と思われていたものを、まったく、この主人公は「真似」する。
そのことによって、非常に興味深いことが起こっている。
当時の黒人たちは、たとえそれが、奴隷制によって「強いられた」ものであったとしても、それなりに、彼らなりの、

  • 慣習的な振る舞い

をしていたはずである。それは一見すると、白人を怖がる姿から派生した動きだったかもしれない。しかし、いずれにしろ、それは

  • 彼ら

の「アイデンティティ」であったはずだ。ところが、この主人公は、まるで、そういったものを「嫌悪」しているかのように、

  • 白人「のように」振る舞う

わけである。この映画は一見すると、黒人の「応報感情」のカタルシスを与えるように思われるかもしれない。しかし、おそらく、多くの黒人たちは、この映画を見ることで、逆に

  • 気持ち悪く

なっているのではないか。というのは、結局のところ、黒人が「ヒーロー」になると、完全に、

  • 白人の「似姿」

になることを知らされてしまったからだ。彼らは、自らのプライドを、このアメリカの大地で、白人に迫害されながらも「耐え」て生きた、彼らの両親たちの祖先が、「生き延びた」ことに、プライドをもっているわけであろう。ところが、彼らが「ヒーロー」となった途端に、まったく、白人と

  • 区別がつかない

という事態は、彼らに強烈な幻滅感を残すのではないか。

不条理に敵の認定を受けた者たちが、そうみなされることを通して、迫害される存在としてのアイデンティティを獲得していくことがある。迫害される者たちのカテゴリーは、はじめ実体がなくとも、迫害を通して実体化していくのである。たとえばユダヤ人問題を考えたときに、「迫害には根拠がない」と政治的に正しい発言をいうことは容易だ。
だが問題は、命がけで自分を殺そうとする人がいて、命がけで自分を守る人がいる場合、はじめ無根拠であった迫害が、迫害を通してそれ自身の根拠をつくりだしてしまうということがある。一般に、なんらか恣意的にカテゴリー化され攻撃を受けた場合、自衛のために迫害された者同士が団結する必要性が生じる。もし、団結を拒否した場合でも、迫害から守ってくれる誰かが不可避に生まれてしまうことだってあるだろう。自分のために、そのことに無関心でいることは難しい。こうして互いが互いのことを敵だと認定しあう集団同士が生まれてしまう。

上記の引用は、なぜ国家同士が「一見すると」敵対した形でしか存在しえないのか、また、「一見すると」国家の内部では、国内の平和の維持(トラブルの解消)を各メンバーが目的として行動しているように見えるのか、ということを言おうとしているのだろう。
たとえば、日本にとって、なかなか、韓国や中国が国家として友好な関係になっていかない、というような。
そこから、著者独自の言い方になるのだろうか、「なめらか」なメンバーシップのようなことを提言していく。たとえば、自分は、60%は日本人だが、20%は韓国人で20%は中国人だ、というような。
それは「迫害」と、そこからの「自衛」「団結」という過程をへて、各人間の行動様式が、グループ化されていくことを、「なめらか」にするとは、なにを意味しているのか、ということを言いたいのであろう。
このことは、近年のグローバル化によって、世界が「フラット」になっていく、といった主張と、平行しているようにも思われる。世界中で文化的な差異がなくなれば、そもそも、各自の行動様式や人種的な「見た目」上の違いから、人々がグループ化して敵対化していくモチベーションが弱くなっていくんじゃないのか、と。
実際、アメリカにおいて、白人と黒人が結婚をし、また、そういった人々の割合が多くなればなるほど、その二人の子供は、単純に白人の文化であり、黒人の文化のどちらかに、自らをアイデンティティしていればいい、ということにはならないだろう。
しかし、その結果として、ある種の「徳性」のようなものが、どこか、白人ヨーロッパ文化における、白人コミュニティの「伝統」を、まるで、

  • 普遍的

な人類が含有すべき「人格」性のようなものとして、扱われていく。上記の映画「ジャンゴ」において、黒人の主人公が、まったく、それまで白人の主人公に負わされていた特性だったものと、まったく同じ「しぐさ」をすることで、

  • 白人のパロディ

となってしまったように。

これに対し、ロックは次のように考えた。

「このようにして各人は、一政府の下に一個の政治体を作ることに他人と同意することによって、多数者の決定に服し、それに拘束されるべき義務を、当該社会の各員に対して負うようになるのである。
政治社会を開始し実際に構成するものは、多数決をすることのできる自由人が、このような社会を結成するのに同意することに他ならない。そうしてこれが、またこれだけが、世界のあらゆる合法的な政府を開始させた、あるいはさせることのできたものなのである。」
ロック『市民政府論』(Locke, 1690)

ロックは結婚も契約にすぎないのだから、条件さえ整えば離婚してもよいと考えていた。国家も同様の論理で契約にすぎないとみなしていた。国家が自我や意志をもつ生命ではなく、単なる契約によって生まれた仮想的な存在にすぎないと、ロックは捉えていた。
著者は基本的にロックに追随しようと思う。

この指摘は、上記の映画「ジャンゴ」を考える上でも興味深い。というのは、映画「ジャンゴ」の基本的な構成、つまり、その主人公のモチベーションが、自分が「結婚」した「妻」を、奴隷制度の中で抗うことを許されない、虐待から救い出すことにあるからだ。
このことは二つの側面から考えることができる。一つは、その「契約」である。主人公は自嘲的に、作品の中でも言うが、「めずらしく」彼は黒人の中で、結婚制度を「重要視」している。このことも、「白人のパロディ」と考えることもできるだろう。そもそも、黒人奴隷制度とは、そういった「扱い」を許さない側面があったと考えるなら、こういった作品設定はどこか、非現実的だと言えなくもない。
たとえばそれは、黒人奴隷たちは「キリスト教徒」だったのか、という問いと同様に考えることができるかもしれない。つまり、この作品は、黒人たちが自らを、

であると目覚めることを含意していると考えることもできるのかもしれない。つまり、結婚を重視する黒人主人公は、結婚という「キリスト教」と深く関係する制度によって、自らのアイデンティティを宗教に見出している、と。そのことは、主人公がここまで妻の救出に執念をもやすモチベーションを説明するし、上記のロックの主張に反するようだが、結婚の契約の破棄を「彼らがやらない」ことの説明ともなっている、と。
またこれは、掲題の本で言及されている、「構成的社会契約」として考えることもできるだろう。つまり、一般に国家と個人の間で考えられてきた「社会契約」を、ロックの社会契約に従って、それを

  • 個人と個人

の「契約」をベースにしたものと考えるわけである。結婚も一種のこういった側面があると言えるであろう。
もちろん、人によっては、この黒人の主人公の振る舞いを、結婚という国家制度ではなく、個人と個人の間の「愛」の感情で全てを説明したいと考える人もいるかもしれない。
しかし、いずれにしろ、ここで私がこだわっているのは、奴隷であった、元は奴隷であった彼が、「結婚」を「していた」とは何を意味しているのか、であり、彼の彼女を「救済」することへの「執念」を、どこまで、

  • 私的所有

の問題として考えられるのか、なのである。
結婚という「契約」において、お互いは、お互いを「所有」するのだろうか? それは、結婚という「慣習的な制度」が、たとえ、国家法的な意味でどうであれ、「宗教」的には、さまざまな感情的な「強制」を、宗教の側が求めているという意味で、つまり、そこに「拘束」がある、という意味では、「所有」という側面があると言えないこともないだろう。もちろん、純粋に国家法的な意味では、ほとんどない、と考える人もいるかもしれないが。
掲題の著者の主張にもう一度戻るなら、著者は、「なめらか」であることを重要視する。つまり、あらゆる制度は、イエスかノーの二択であるべきではない、ということである。どんな言明も、「中間」がある。だとするなら、

  • どんな制度も「中間」的存在であることを認めるべきではないのか?

ということになる。これは一種の、「デコンストラクション」だと言えるのかもしれない。
私は、「日本人」であって、「日本人」ではない(何パーセントかは日本人だが、何パーセントかは、そうではない)。こういった状態が、

  • あらゆる個人の属性に対して

主張されるわけである。
しかし、この問題は、逆から考えることもできるのではないか。
つまり、「自分は100%がいい」という人が現れる、ということである。ジャンゴは、妻との結婚状態を継続するがゆえに、彼女を救おうとする。
掲題の著者の、「なめらか」は、ようするに、「フラット」ということである。グローバリズム礼賛だとも解釈できる。
高学歴エリートが、大衆に「高望みをするな」と説教をしているとも感じられるかもしれない。
そもそも「自分は100%がいい」という「意志」がなくなったら、そんな状態で、生きてて

  • 楽しい

だろうか? そんな「高望み」は「傲慢」だろうか?
なにかに「自分は100%がいい」と思うということは、つまりは、そのことに、大衆は無関心「ではない」ということを意味している、と言えるであろう。

逆に、あまりにも資源が潤沢な環境においては、そもそも敵の概念が生まれないだけではなく、そうした単細胞が突然持ち込まれてきたとしても、生存上あまり敵の概念は必要にならないだろう。なぜなら環境にあまりにも多く、敵を倒すことが割にあわないからである。

つまり、掲題の著者のアジェンダセッティングは、どこか、変なのだ。カール・シュミットの友敵のカテゴリーを「なめらか」にすることで、デコンストラクトすることを目指すその戦略は、そもそも、なぜ、カール・シュミットの友敵のカテゴリーを放棄しなければならないと、掲題の著者が考えたのかに関係する。

公敵なき社会に生理的な嫌悪感をもつことや、批判を展開することは容易であろう。たとえば、革命権はどのように担保されるのか、公敵なき社会は敵からの攻撃に耐性をもているのか、というような問いかけがすぐに思いつく。これらは、公敵なき社会の実装を考えるうえで、必ず答えなければならない問いである。だが、いまだその答えは見えていない。

なぜ「なめらか」でなければいけないのか。
なめらかであるべきは、例えば、国家が国民にある、強制を行う(徴兵制のような)場合に、その強制が、一切のオールタナティブを許さないものであるような場合があるであろう。宗教的な信念をもって、殺傷をやらない生き方をしている人に、強制を迫ることは、野蛮であろう。
税金だって、そうである。払えない人、払うことで、その人の今までの人生の目標を、捨てさせるような「強制」は、あるべきではない。なるべく、

  • オールタナティブ

が用意されるべきで、そういった多様性がない場合に、人々を追いつめ、自殺として結果する(多くの自殺が、実際には、なんらかの国家の「強制」をトリガーにしている場合、それは国家を運営する「政府」の

  • 責任

であることを自覚する必要がある)。
逆に言うなら、なぜ、自分「個人」のことに対して、「なめらか」であることを求められなければならないというのか。自由主義者が言うように、

  • だれにも迷惑をかけていない

個人の「内面」の問題であるなら、どんなエッジのきいた、キワモノの考えをしてたって、どうして、他人に文句を言われる筋合などあるだろうか...。

なめらかな社会とその敵

なめらかな社会とその敵