人類は科学によって滅びるか?

今回の311以降の、福島第一の放射性物質に対する議論は、非常に変な印象を受けたものである。
それは、なにをおいても、変なのは、「科学者」と呼ばれるような、大学教授たちだったのではないだろうか。
どうも、日本は変になってしまった。
それは、以前から言われていたような意味で、医学界が「白い巨塔」であったのと同じように、「権力は腐敗する」というのと同じ意味で、日本の科学者は、「腐敗」しているのではないか、と。
そもそも、なぜ福島第一の事故が起きたのかといえば、科学者が、原発の危険性を発言してこなかったからであろう。そして、あきれたことに、311以降になって、やっと、これからは、いいかげん、原発をやめざるをえないんじゃないか、みたいな

  • 他人事

みたいなことを言ってやがる。自分たちが、今まで、その危険性を発言することを忌避し、タブーにしてきたくせに。
まるで、「自分の責任」だと思っていない。
あれだけの、避難を、福島県の人たちが受けることになった、今になっても。
いや。むしろ、「この程度で避難を選択する必要がない」と言いたいかの口ぶりである。むしろ、この程度で避難しろということは、今でも現地で避難しないで暮らしている人たちを、道徳的に苦しめている、と。だって、

  • この程度

の低線量の放射性物質なら、ほかのリスクに対する被害と比べても、特別視する理由もないから、と。
驚くべきは、自分が少なからず、「加害者」だという自覚がない。自分が科学者として、原発の危険性を警告してこずに、こういった事態になって、まだまだ大したことはない、と言っているんだから、おそらく、どんな事態になっても、そう言い続けるのであろう。
福島第一は、仮の安全設備が、緊急事態用に、はりぼてで、とりつくろわれているだけで、べつに、もう一度大きな地震が来たときに、耐えられることが示されているわけではない。だとするなら、人々に、避難を勧めることは、どこまで非現実的であろうか。むしろ、避難するかしないかではなく、

  • 国家が福島県民を避難させるために、どこまでの援助をすることが可能なのか?

が問われていたのではないのか。現在においても、福島県民の避難に、ほとんど、国の援助はない。東電の賠償も、雀の涙程度である。だとするなら、最初から、貧乏な家庭は、福島県から逃げる手段がなかった。もしも、そういった人たちを福島県の外に、

  • 逃げたい

と言った人がいたとして、そういった人を逃げさせることができたのは、国家だけだったかもしれないのである。つまり、そういった財政的な援助を行なうか行なわないかは、著しく

  • 国家の政策の問題

であったわけである。これに対して、科学者が行った態度は、

  • 国が避難を手助けしないことの「正当化」

であったわけであろう。それは、どういうロジックであったか。「まだ」その危険性が証明されたわけではない、という、つまり、

  • 彼らがいつも、企業を護教的に「援護射撃」している、いつもの、手口

であった。
日本の学者たちは、70年代以降の産官学共同の流れのなかで、研究費をけずられ、その代わりに、学者に自らの研究費を、民間から、お金を集めてくることが美徳として推奨される時代へと変わっていく。
すると、そもそも、学者が、御用学者でない形では存在「できない」というジレンマにおちいっていく。つまり、学者が御用学者ではないということが、システム上、矛盾と同じことになっていくのである。
学者の研究のためのお金を企業が出すということは、学者は、企業の「助かる」ことをやって、生計を立てる、ということである。だとするなら、学者が企業の利益に反することを言えるわけがない、ということを結果するのである。
このことは、重要なことに思える。
企業がある製品を売ろうとしているとする。ある化学物質を使って作られた製品であるが、問題はその化学物質の安全性が疑われている場合である。そういった、あまりにも、世間に今まで流通していなかった化学物質が、突然、人々の身近な場所に氾濫するようになる。
これは、例えば、外来種の生物が急に、身近な地域に放されて、急激に繁殖をしている場合に似ているかもしれない。ブラックバスが、湖に放たれ、旧来の淡水魚が、絶滅していく。
しかし、企業の「立場」からしてみれば、その化学物質の危険性は

  • まだ

証明されていない。だったら、その「危ない」と決まっていない化学物質を使って儲けることを妨げることは、自社の儲ける手段が狭められると考えるだろう。
科学的に危ないと「証明」されていないものを、使って儲けることを禁止されることは、その企業の「立場」からすれば、自分たちの「自由」を制限されていると考えるだろう。つまり、一種の「規制」である。企業にとって大事なのは、利益の追求である。儲からなければ、意味がない。
企業は、法の制限の中で活動する。その法が禁止していなければ、つまりは、その範囲で、なにをしたっていいにきまっている。では、もしも、法の禁止がない物質を世間にばらまいて、

から実は、非常に「危険」な物質であったことが、わかった場合は、どうなるであろうか。その企業にしてみれば、

  • 法の禁止がなかったんだから、うちの会社に、なんの罪はない

と言いはるであろう。結局はそうなのである。なんの責任もない人間が、なにを言っても、どうせ、そいつはその言葉によってもたらされる、なんの責任もとらないのである。
大学の学者は、自分の研究をするために、企業から小銭を恵んでもらわなければならない。彼らは、最後まで、企業の利益追求活動を、

  • 護教的

に擁護し続けるであろう。なぜなら、そうやってお金を企業から集めることによって、彼らの大学での活動の経済的基盤を獲得し、学内的な地位と発言権を得るのだから。
ここには、一つのジレンマがある。
企業は、新製品を作るたびに、新たな、人類がまだ、体験していない化学物質を社会にまきちらす。なぜなら、その化学物質を使った方が、安上がりに作れると考えたからだ。ところが、その化学物質を社会にまきちらすことによって、起きる

  • リスク

を彼らは、「反対」に証明する。つまり、「まだ」これの危険性が証明されいないじゃないか、と。「まだ」だめだと分かってないん「だから」、使ってなにが悪い、と。
というか、そもそも、そういった学者は、この化学物質の危険性を

  • 調べない

のである。むしろ、この化学物質の

  • 安全性を「調べる」

のである。つまり、この化学物質が、もしも危険だったなら、こういった性質をもつであろうということを証明しようとしない。そういった

  • 企業が損をする

ことをしない。そうではなく、なんとかして、「この物質はこういった性質をもっているんだから、安全の方に考えていいんだ」という、一種の、この物質の

  • いいところ

ばかりを強調したがり、欠点を調査したがらない。
つまり、欠点を調べる「モチベーション」がない。なぜなら、そんなことをするための、研究費を、だれからももらっていないからだ。
この観点をさらに進めたとき、そもそも、科学者は真の「危険」を「発見」したとして、その事実を発表するのだろうか、という疑問がわいてくる。
ここに、現代の市民社会アポリアがある。
市民社会は、科学者を「信用」できるのか?
日本の多くの科学者が分かっていないのは、彼らを、大衆は信用していない「かもしれない」という、疑いである。
それは、そもそも、大衆が、街の医者を、本当の意味で信頼しているわけではない、というのと同値である。それは、大衆ならだれでも、医者に、ぼったくられてるんじゃないのかと思ったことが、だれでも一度はあるのと同じことである。
科学という学問が、本当に大衆が信じられるのかは、科学を学ぶ学歴社会からドロップアウトさせられた大衆にとって、学ぶ場所から追放された大衆にとって、そもそも、どうして信用できるであろうか。そもそも、大衆はエリートに、いつも損をさせられていると思っている。なぜなら、自分たち大衆は「頭が悪い」から、エリートになれなかったのだから、つまりは、エリートの口先の理屈に結局は丸めこまれるとあきらめているからだ。
そもそも、科学の側は、大衆のために、

  • なにか一つでも

してくれたであろうか? 科学はいつも、「国家のため」に、従順に従っているだけではないのか。実際に、科学者の給料は、国のお金から出ているわけだし、国民のために働いているなんて思えるだろうか。
このように考えたとき、21世紀は、

の時代だと言えるのかもしれない。遺伝子組み替え作物にしても、人類がまだ体験していないものを、次々と、消費社会に、投入していく。

  • まだ危険だと「分かっていない」

と言い訳をして。といっても、その危険性を調べるモチベーションがないくせにもかかわらず。
イランや北朝鮮の核実験をサポートする科学者にしても、ようするに、科学者とは、自分の

  • 喰いぶち

のために、「人間を引き換え」に、儲けてやろう、という人たちだということになるであろう。
そのように考えてきたとき、21世紀は、こういった科学者たちが、この地球上の人間社会に、さまざまに、

  • 人類が今まで体験しなかったもの

を、どんどん投入して「実験」を始める時代だといえるのではないだろうか。まず、低濃度放射性物質を、人間社会にばらまく。そうすると、どれくらいで、目に見えて影響がでてくるかが分かってくる。また、10年や100年のスパンで影響があらわれる現象もあるだろう。
同じことを、遺伝子組み替え物質、人類史上なかった、新しい化学物質、こういったものを、地球環境にばらまいて、「実験」を始める。
地球は彼らの「実験場」となる。
一つだけ言えることは、たとえそれによって、さまざまな影響があらわれたとしても、科学者に「責任」が問われることはない、ということである。
というのは、それを禁止する「法律」がないからである。
だって、そもそも、それらが危険「かもしれない」ということを「知って」いるのが、科学者たちしかいないのだから...。