あらためて「一般意志2.0」について

このブログでは、何回か、東さんの『一般意志2.0』について、こだわってきたのだが、そのことについて、ここで、あらためて、まとめておきたい。
(最初に断っておくが、いわゆる、哲学ジャーゴンの文脈において、この本が、どのように読まれているのかといったことに、私はまったく「無関心」であり、というのは、私は最初から、そういった

  • 文脈

で読むことを拒否しているからである。たとえば、デリダとの関連において、とか、そういった、哲学論壇、哲学研究者たちの議論の文脈を「一切無視して」、つまり、そういった決まった「コード」を共有する人たち同士の「分かるよな」を、

  • 一切無視して

この本を「テキストそのもの」として、場末の「大衆」が読むとしたら、なにが言えるのかをずっと問題にしているわけで、そういう意味では、まったく、作者の「問題意識」と関係のないことをやっている、ということは断っておきたい...。)
以前から書いていることは、主に、二つに整理できる、と思っている。
一つ目のポイントは、なぜ、現在の民主主義を「否定」して、「一般意志2.0」なるものにならなければならないのか、その「理由」が、「ほとんど」この本には書いていない、ということである。つまり、著者自身が現代の「何」が問題と考えているのか、ほとんど書いていないが、それは、なぜなのか、であった。
しかし、この問題は、逆に考えると、そもそも「それ」が著者にとって問題ではないから、と言えるように思われる。つまり、著者自身が、「一般意志2.0」なるものが「なにであるか」は、

  • どうでもいい

と考えているのではないか。つまり、この本が言いたいことは「一般意志2.0」とは何か、では「ない」ということである。
この本の最初は、いわゆる、「熟議民主主義」への、ほとんど、どうでもいいと思われる「いんねんづけ」である。まるで、ヤクザのように、「熟議民主主義」にからんできて、これではダメ(=不十分)ということを言いつのる。そして、その

  • 延長

に、「一般意志2.0」なるものが仮定される。そしてその否定の際に重要視されるのがカール・シュミットの友敵理論である。
友敵理論というのは、例えば、安冨歩さんの言う「東大話法」であり「立場主義」が

  • 不可避(=政治の本質)

だという理論だと考えられる。つまり、ある人が「原発推進派」として、その「原発推進派という立場」で語ることは、「避けられない」と。なぜなら、もし自分が「原発推進派」に頼まれて、お金を恵んでもらうことで、「原発推進」をステマすることで、

  • 資本主義的

にお金を稼ぐなら、その反対を言うことはできないであろう。自分は「原発推進」を言う(そう直接言う必要はない。低濃度放射性物質の人体への影響は思ったほどではないとか、福島第一に近づいても、たいした濃度ではないとか、そういった「人々の警戒を緩める」ことを意図したことを言うこと、それ自体が「原発推進」に有利になる)なら、どうしても、その発言は、自らの行動との「整合性」が自らに課せられざるをえない。だとするなら、人々が「立場主義」になることは必然というわけである。
しかし、もしそうだとすると(立場主義が避けえないものだとすると)、そもそも「民主主義」とは、なにをやっているのか、ということになるであろう。
戦後の日本の国会にしても、ようするに、「党派」的にふるまう国会議員の、党派工作でしかない、とも言えるわけである。なにが「正しい」か、ではなく、「どの党派が多数」かで、政策が決定する。それで、はたして、

  • 正しい

判断と言えるのか、と。
人間は理性的な存在である。そうであるなら「正しい」判断を行うのが人間ということになる。ところが、民主主義においては、正しいかどうかではなく、「多数党派」であるかどうか、になっている。
例えば、科学においては、なにが「正しい」かというのは、ほとんど、多数決とは「無縁」のように思われる。それは、その主張が、「説得的」かどうかだけで、有力な「仮説」として

  • 生き残る

わけで、つまり、多数決というより「機械的判定」が、かなりの「割合」で可能にさえ思われるわけである。つまりそれは、デカルトの分割ということで、基本的な法則によって、世界を細かく分割することで、その諸関係を統一的に説明できている、と考えられている。だとするなら、そういった対象に対して、「多数決」は適さないように思われる。いや。もし多数決をするとしても、そういった細かな諸体系を理解する

  • 専門家集団内での多数決

でなければ「正しいとは言えない」のではないか、という疑問となる。
この辺りが、ルーマンの「複雑社会」を参照している理由で、つまりは、

  • 民主主義は、なにが「正しい」かを決定する方法として不十分だ

ということになる。つまり、この本は、

  • 民主主義の「否定」=エリート主義の復権

を目指す本であることが分かるのではないだろうか。つまり、アラン・ブルームの「アメリカンマインドの終焉」などに代表される、典型的な「エリート礼賛」論の延長の文脈から生まれてきた本だ、と認識しなければならない、ということである。
そこで、二つ目のポイントということになる。まず、この本で書かれている「一般意志2.0」には、二種類ある。一方は、はるか未来に構想される「理念」的なもので、他方は後半に書いてある、ニコニコ動画のようなコメントを政治家が「見る」ことによって政治家の無意識に「影響」させる戦略である。この二つに共通することは、大衆は間接的にしか政治の「意志決定」を行わさせない、ということである。つまり、

  • 選挙の否定(=独裁の肯定)

である。国民は国家の意志決定に「直接」参加してはならない。あくまでも、決めるのは、

  • 大衆「ではない」人

ということである。
では、どうやって、著者は、このような方向によっても「秩序」が維持されうると考えているのか。
まず、掲題の著者は「集合知」に注目する。一般に集合知というのは、以前私も、

「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)

「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)

という本の紹介で書いたが、まったく自分とは背景も違う

  • 他者

の視点、他者からの指摘が、おうおうにして、現在直面する問題をブレークスルーする、という「組織論」の視点から考えられてきたものである。ある専門家が、ある規範をあまりにも「自明」にしているために、むしろ、

  • シロート

の方が気付くような見落しを「認知的不協和」によって、やってしまう。それは、「ドクザ」といったようなもので、どちらかといえば、

  • 必然的

な結果と考えられる。こういったものは、たんに知識の過多だけでは避けられない。むしろ、

つまり、多くの「人々」の意見が、つまり、「民主主義的な多数」の意見から、そういったものが、

  • こぼれ落ちてくる

といった形で生まれるような「知性」だと考えられるだろう。ところが、掲題の本は、集合知のそういった側面にあまり注目しない。むしろ、集合知が、

  • 計算できる

ということを必要以上に強調する。集合知は「数学」で記述できる、というような。というか、「ここ」がこの本の一番

  • うさんくさい

ところである。このアナロジーから、一気に「一般意志」の

  • 計算

というところに到達する。「一般意志2.0」が言っていることは、たった二つである。

  • 「すべて」の国民が例えば、ツイッターでつぶやく
  • 「一般意志2.0」は、それらのつびやき「すべて」から、「計算」して、「一般意志」を決定する

これだけ、である。この「政治」の特徴は、

  • 「すべて」の国民のつぶやきを「無視していない」
  • その「計算」が「どのように行われるか」は示されていない

(しかしね。アルゴリズムのない「計算」を、「計算」と言うんですかね orz。)
こういう意味で、このシステムは「夢」の未来のシステム、だというわけである。
しかし、である。
これが「夢」かどうかを考える以前に、これが「いい夢」か「悪夢」かを考えることはできるであろう。まず、大事なポイントは、

  • 大衆は直接、政治の意志決定を「する」ことができない

ということである。どんなに大衆全員で「こういう未来がいい」と、選挙のように、意志表示をしても、この計算のロジックによっては、その意志は採用されない。
ということは、どういうことであろうか。
むしろ、このシステムの重要なポイントは、

  • どうやって大衆に直接に政治決定を「させない」システムを作るか?

の方にあることが分かるのではないか。
つまり、なんであろうが、とにかく、大衆に直接政治意志を決めさせないようにできさえすれば、「あとはなんとでもなる」といった感じであろうか。
つまり、こういう意味で、このシステムは「独裁」制であり、「エリート政治」制だということなのである。

問題は、社会契約は実際には行われておらず、一般意志の担い手である集団のメンバーシップを、為政者が任意に決められるところにある。一般意志を導くのは共通の利害なのだから、シュミットがみなしたように、同質なものを集め、異質なものを排除すれば、一般意志の結論は簡潔になる。実際ナチスアーリア人をメンバーシップとして、ユダヤ人を迫害した。かくして、ルソーの社会契約論にはメンバーシップの任意性という脆弱性が存在することとなった。

なめらかな社会とその敵

なめらかな社会とその敵

ここで鈴木さんは自分はルソーの社会契約に与することはできない、ロックの社会契約の側に与するということを主張することで、いわば、上記までで述べてきた東さんのこの本と「対決」している、と読むことができるであろう。
そして、おもしろいことは、東さんのこの本では、この引用にあるような、ルソーのメンバーシップの問題を、問題と考えていないのである(それは、何度も言うように、彼がカール・シュミットの友敵理論を、
所与の前提
と考えているからである。つまり、ルソーのメンバーシップにだれが入ろうが、敵と味方が、たとえ、同じ国家のメンバーであっても、なくなることはない、つまり、鈴木さんのように、公敵がなくなる「なめらか」な社会など、存在しない、東大話法をしゃべらない、立場主義をやめる、などということが可能な社会が可能な「わけがない」ということを前提に書いているからである)。
つまり、東さんの本が、興味深いのは、一般に「社会契約」と呼ばれるときに、最も重要視されるのは、ジョン・ロックの『統治二論』であるはずなのに、なぜか、東さんは、この本を無視して、ルソーの「社会契約論」だけを問題にしている、ことである。
というのは、東さんの議論と、ロックの「社会契約」は、どこか相性が悪い。そもそもロックの「社会契約」は、個々人が

  • 神の意志に従って生きようとした結果

として、革命を起こすことさえ認める、つまり、それだけ「流動」的な社会組織を
最初から前提にしている
と考えているわけで、そもそも国家が(一般意志のようなものが「ある」ことがわかるまでに、長い年月変わらずにあるような)「固定的」であることを、それほど重要視していない。というか、そもそも、組織の側に「主体」を設定する必要をロックは微塵も感じていない。
ロックが考えているのは、あくまで「自然権」であって、そして、それはあくまで、個々人が神との「対話」のなかで探し、その真理を確認していくものでしかなく、「国家への夢」みたいな発想が、そもそもないわけである。
さて。
みなさまは、どう思われるであろうか。
まさか、この21世紀に、民主主義を否定する議論が、ナチスのように独裁制を「礼賛」する議論が(カール・シュミットを議論の前提にしているのですから、そうなるのは必然なのですが)、そもそも「民主主義」という

の下に語られる、とは思わなかったのではないだろうか(古代ギリシアから、民主主義とは「拍手喝采」のことであって、秘密投票は「自由主義」の起源だ、といったような話もありますけどね)。
この現代に、本気で、「独裁政治」を「復活」させようと主張される本が、まさか、ここまで堂々と、この民主主義の国の日本で出版されるとは思わなかったのではないだろうか。それも、そんな本がなぜか、

  • 大衆

に向かって売られているとは。
この本こそ、21世紀によみがえるアランブルーム『アメリカン・マインドの終焉』だと言えるだろう。つまり、復活する「エリート主義」というわけである。
しかし、私の最後の疑問は、なぜ著者はこんな

  • (民主主義という名の)反民主主義本

を出して平気な顔で、なんの恥ずかしげもなく、街を歩けるのだろう? というところに行きつく。
それは、上記のシステムの整理でもしたように、とにかくも「国民全員のつぶやきを無視しない(=計算に「使用する)」という部分にある、と考えられるだろう。つまり、なんにせよ、著者は、

  • 独裁者が国民全員の意見のことを気付かって意志決定をすることが大事

という考えなのである。つまり、そんなことが実現可能だろうがなかろうが、エリートは頭がいいんだから、それを可能にする、だから「フェア」に判断できる、という能力への「自信」がある、ということになるだろう。どんなにエリートが少人数で決定しようが、それが「まるで計算によって導かれたかのように」

  • 正確に「フェア」

ならば、文句はないだろ、というわけである。
そういう意味では、そもそも、上記の計算の中身がなんだろうと、むしろ、計算なんかやってなくても、独裁者が勝手に決めても、そんな「細かいこと」を気にしていないわけである。大事なことは、

  • 独裁者が国民の意見(=つぶやき)を考慮したか(=「共感」したか)

だというわけである。そういう意味で、著者は典型的な

  • パターナリスト(=「共感」主義者)

だと言えるだろう。というか、このことを逆から言ってしまえば、著者が重要視しているのは、独裁者が大衆の意見を無視しているかのように大衆から「見えてしまう」ことがまずい、という考えだと分かるのではないか。
大事なポイントは、カール・シュミットの友敵理論を捨てていない、ということである。一般意志の「計算」は、いくらでも、ごまかせる。エリートは「友敵」で意志決定するため、必然的に、その決定は、

  • 大衆が損をする

決定になる(日本の相対的貧困は拡大する)。しかし、エリートは、大衆の意見を聞いている「ように見える」ように振る舞うことが重要となる。実際の意志決定は、まったくの反対だったとしても、大衆には大衆のことを気づかっているように見える

  • パフォーマンス

が重要ということになる。逆にいえば、このパフォーマンスのできない政治家は下手な政治家ということになり、政治家の資格がない、というわけである。
言ってみれば、著者は、「民主主義」の

  • 闘技場(=アリーナ)

を選挙の場ではなく、政治家の「演技力」の場所に、移行した、というふうに考えられるであろう。もし政治家が「演技力」が下手であれば、政治家は言い訳ができなくなり、大衆の「福祉」が充実する傾向が大きくなるが、その反対であれば、大衆は「マインドコントロール」され、福祉は、いくらでも少なくできる(ノージックリバタリアニズムが強調されるのは、この大衆コントロールが成功した「ユートピア」においては、国民にかかる福祉がいくらでも少なくできて、大衆への「マインドコントロール」が「成功」した「ユートピア(=ディストピア)」という意味だと解釈されるであろう)。というか、もっと言えば、著者は、このグローバル化の中で、世界の政治は「そういう方向に向かわざるをえない」ということが言いたいのであろう...。
しかし、ここまで来ても、やはり、なんでこんな独裁制に「正当性」が与えられると著者が夢想するのだろう、という疑問は消えないかもしれない。
おもしろいことは、著者自身が、このシステムは、ある意味で、今の中国であったとしても「実現可能」とさえ受けとれることを言っていることである。

screenshot

つまり、中国共産党一党独裁は、どこか、「一般意志2.0」に似ている。そういう意味では、この本は「中国礼賛」とも読める。
ご存知のように、フランスはエリート国家である。それは、ルソーの国だから、とも考えられるかもしれないが、それは、中国共産党がそうであることと、どこか似ている。
この本は、一見すると、未来の話をしているように聞こえるが、実際は、日本の隣の国、中国のことを話している

  • 今の現実政治への批評性をもった

本だと読めるだろう。現在の中国政治の意志決定の早さは、確実に世界の中での中国の急成長、中国の世界政治の中でのプレゼンスの高まりを説明するし、そのことが中国が一党独裁を採用していることと区別できない。日本の政治の問題が、憲法に制約された、意志決定の手続きの

  • 遅さ

にあることに、多くの有識者が不満を唱え始めたときに、まさに、その問題に「応答」するかのように、この本が主張されたことを忘れてはならない(実際、この後、東さんは憲法2.0なるものを発表するが、この憲法の大事なポイントは、どうやって、日本の政治に、

  • 意志決定の早さ

を実現するか、というところにあることに注意がいる。つまり、憲法2.0は、一般意志2.0を、より「洗練」させ、彼の主張の「本当に言いたい」ことを集約して整理したものなのであって、まさに日本政治の「要望」に応えた政策提言であることが分かるのではないか)。
中国は、たしかに一党独裁の国家であるが、その国で、今、急速に、ウェイポーというツイッターが広まっている。たとえば、このウェイポーなどで、中国国家が、NGキーワードの検閲、つまり、フィルターしていることは、ニコニコ動画で、コメントがフィルターされていることと

  • 同型

だと考えられるであろう。
例えば、原発についてはどうであろうか。日本国民の多くが原発の廃止を訴えていることは、いまさら確認するまでもないであろう。という意味では、政治家は原発をやめる「パフォーマンス」をしなければならない。しかし、そのパフォーマンスをするということは、少なくとも、何基かは、実際に廃炉になっていくということである。しかし、政治家に重要なのは、そこまでである。国民に「共感」しているというパフォーマンスが重要なのであって、実際に、国民と同じ意見になる必要はない。エリートに求められるのは、国民に自分が国民に対して共感しているように「見える」ようにパフォーマンスできる「有能」さであり、自分の本心を死ぬまで大衆の目から騙せる「忍耐強さ」であり、だからこそ、エリートは

  • 数えるほどしかいない

貴重な存在だというわけである...。